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芦川羊子 |
「その演奏には音楽に対する切実で根源的な問いかけが内包されている。具体的には音楽によって何が可能か?を果敢に試みている。ギターという楽器としての限界性と、音の領域を拡大しようとする衝動が破綻を臭わせつつ拮抗して、静謐なカオスを生み出している」(ラティーナ誌)。
人間が人間の形を創ることは可能なのか?これが出来なければ死ぬ、そんな覚悟を幾ら持ったところで、・・・出来るもんじゃない。早く殺してくれと、生きているからこそ滲み出る言葉は修辞を霧散させる。ところで人間の形から修辞を外したら何が残る?意味があげる鬨の声が喧しいだけ。
1 出会い
「'84年、初めて土方の講習会、行った時はビックリしたよ。モダンダンスやってる女性に連れていかれたんだけどね。土方の稽古場は私の自宅の近くだったし、歩いて行ける距離だから、まーいいかって感じ。
その時の講習生は20人くらい。お決まりの坊主頭の奴なんかもいてね。
土方は濃紺の着物を着流して、髭なんか生やして、長髪の髪の毛を丸めて頭の上に乗っけて。
ちょっと猫背で上目使い。当時土方は55歳だったけど初老って感じに見えた。
これがダンスの先生?戸惑うよね。
稽古場は薄暗いし、ダンス・スタジオに必須の鏡も張って無い。
白の七分袖の肌着に白いズロースみたいなの履いた中年で小柄の芦川が『先生です』と紹介すると、彼、愛想もなくピョコンと頭下げるだけ。異様だよ。
さて、どんな稽古が始まるやと。
『ここに170p(土方の身長)の切られた材木があります。それが、移行します。歩くのではなく移行します』。
この人は形の必然性を追求している人なんだと、直感的に分ったの。恣意性を免れない人間が絶対の形を追求するという無謀な野心を持った人。[※1]
この一瞬から、土方は私の先生になった。
[※1]普通、楽器をやろうとする人は教科書から入ります。ピアノの場合はバイエル、声楽はコールユーブンゲン。職人芸色が濃い邦楽の場合でも師匠からの直伝と云いながら譜面があります。洋の東西、アカデミック、民俗芸能を問わず踊りにしても同じです。
それまでに他の舞踏も幾つか観ていましたが、どれも思い付き的な表現に留まり基本が無いジャンルだと思っていました。未だにその考えは変わりません。
音楽の場合、楽器に体を合わせることから始まります。大きさ、長さに関わらず指の方を鍵盤なりフレットなりにシンクロさせなくてはならない。そこで向き不向き、才能という問題も関わってくる。スポーツでも同じでしょう。
ところが表現の主体となる日常習慣からも脱し切れていない体を臆面も無く晒すことで
一端
のアーティストとして振る舞う彼等の図太さとは如何なものかと不信感を持っていました。白塗りメイクという仮面は他人だけではなく自分も騙せるのか。
舞踏表現のインパクトを象徴する白塗りメイクは、顔と手だけに限定した日本舞踊やパントマイムと違い裸の全身に施されます。これは'60年代のキャバレーでのショーダンスの金粉ショーからの成り行きです(彼等の多くはショーダンスを生活の糧にしていた。素人ダンサーでも裸になれば金に成る時代でした)。
唇や眉毛まで塗り潰す白塗りメイクは目鼻立ちの深い西洋人が施せばギリシャ彫刻に見えますが、のっぺりした顔立ちの日本人の場合には死に顔に映りアニミズムを連想させもします。
しかし見た目の珍奇さに内実が伴わない訳ですから、その意匠は着ぐるみのキャラクターと変わりません。
また、国家により情報が管理されていた旧ソ連から'70年代に亡命した作家のソルジェニーチンが「西洋には知らない自由が無い」と批判する時代を遥かに超えたグローバル・ネットによる情報過多の今日と違い、当時の日本では裸体は観客を引き込む為の魅惑的なサブジェクトでした。
プレッシャーが掛かっているんだろうか、タバコ吸いながら稽古するしね。
しかし、教えている時の彼は生き生きしていた。ポーズをとっているんだか、薮睨みで時々ニヤッと笑ってね。
私は、ずっと一人で音楽をやってきた人間で、寂しかったのかもしれないね。先生がいたら、どんなに楽だろうと想っていた。そこに土方がスッポリ嵌ったんだね。
形を作り出すための発想の面白さ。テーマには「
生死
の問題」が絡んでる。そんなテーマを抱えてる人はアコースティック・ギタリストにはいなかったね。一部のジャズマンやロッカーの中には彼岸で演奏している人もいるみたいで、私なども彼等の同類とみられていた。何故か、即興音楽家とは妙なシンパシーを感じ合えていた。しかし私はあくまで作曲家。即興だけやっていると、だらしなくなっちゃう気がして。
後に自分が実際に舞踏の舞台を創りだしてから分ることなんだけど、土方の講習内容は舞踏という踊りのプレゼンテーションという意味もあったから、初心者や例えば雑誌の編集者、批評家というような見学だけで来ている人にも分り易い言葉でコンセプチュアルに舞踏の形を解説しているようなの。
そのために実際の人の体の機能とは齟齬をきたすことも出てくるし、言葉によって体を不自然に束縛してしまうこともある。
しかし、体の動きや形を導きだす方法が、独創的で凄く魅力的に感じられた。
踊りの振り付けにしても、随分と強引だと想うところもあったけれど、その強引さの中にも開拓者特有の息吹を感じられもした。
昇華しきれないままで押し通す、泥臭い技術は嫌いだったけどね。踊り手同士のアンサンブルを重視しないのは致命的な欠点だとも思えた。彼は舞台で多くの踊り手を使っても基本的にはソロ・タイプの人間なんだろうね。自分の世界に他人を収斂させようとする。主役は一人でいいと。
しかし既存の形に収まるのではなく、自分から形を立ち上げようとする人の魅力は、常に終わりがない課題を人生から突き付けられもする。彼はそのプレッシャーを楽しんでいるようだった。
当時の私の音楽のブレインは『今、どういう活動するかで一生が決まるんだよ』と舞踏にのめり込む私を非難したけど、私はというと何処吹く風。
しかし、私の創る舞踏作品が私生来の音楽性や人生観と同調するものであることを感じると、自然と理解し、協力してくれるようにもなった。金銭的にも援助してくれて」。と、友惠は当時を回想する。
2 「ビヨンド・ブトー」(NYタイムズ紙より…)
友惠の稽古は土方時代とは次元違いに厳しいものです。しかし、次に何が起るのか何が見えてくるのか分らないというスリルに満ちたものです。
作品創作は一切の妥協を許しません。友惠が稽古場に足を踏み入れるだけで団員達の体には緊張感が走りまくりました。友惠の体はその場の状況をすかさず検知します。その時、創作は既に始まっています。予め構想を練ってきたこともあるのでしょうが、突然、突拍子も無いことを言い出すことも頻繁に起きます。
「初対面でも共演する音楽家はその体を一瞬見れば、実力のほど、人間性も見て取れるけど、踊り手の場合は音からもね。その人の足音聴けば、全部分る。今日は足音の稽古からします」と、いうように。私達は戸惑います。
しかし、友惠というのは、無邪気なくらい純粋な人ですから皆、信頼しきっていました。創作以外のところでは、(これほど人が良い人間がいるのか?)と想わせるくらい他人に対しては無防備な人です。ところが創作においては、友惠は団員との駆け引きは一切拒否します。「駆け引き好きは目先の損得勘定に回されるだけ。余程実力があれば別だろうけど、速度が落ちるよ。要するに見切られちゃうの、本人は気付かないけど」。
友惠の創作は毛一本ほどの妥協も許しません。
友惠がいなければ土方舞踏は未熟な振り付けメソッドを振りかざすだけの形骸化しただけのものになっていたでしょう。それどころか、舞踏の根幹は失われていました。
私は、それまで一度も稽古現場に顔を出したことのない土方の奥さんである元藤から舞踏に関する発言権は一切奪われ、土方が亡くなった直後の元藤主催のイベントでは、土方の作品の中からの私のソロ・シーンの抜粋を、まるで標本箱に展示する針で固定された昆虫のように踊らされました。
そこには私が20年に渡って土方と活動してきたアートのダイナミズムはありませんでした。(私は今まで何のために舞踏をやってきたのか)。
私は彼女のポジション確保のための「土方回顧展」企画に組み込まれるだけの客寄せパンダとして扱われていただけでした。
「元藤は土方のことなんて尊敬していないよ。彼女が心酔しているのは今では有害物質とされているアスベストで財を成した自分の父親」と、友惠は言い切ります。
それまで身体表現などしたことのない私が入団したての頃は、それこそ振り付けも、何も無いところから始まりました。入団半年後(19歳)に行なった私の初の草月ホールでの主演公演は、ただ裸になって必死だったということだけで、舞台で何をしたのかなど覚えていません。
'68年、当時は女性が人前で裸を晒すのは、まだまだ抵抗のある時代でした。しかし、私は土方を信じるということだけで、何の衒いもありませんでした。
それでも打ち上げの席は著名な文学者などで盛大だったことだけは記憶にあります。
友惠が主宰者になって初めのうち、私は友惠の創作法の構造が分りませんでした。
これは彼が音楽家であることも要因であるかもしれませんが、それ以上に特殊な生活環境から養われた資質によるものと想われました。これは後々述べていくことになります。
友惠は「音を見て」とか「美術のテクスチャーと体を同調させて」とか、私の感性とは明らかに違うコードを持っていました。
友惠は自ら手本を見せますが、まるで魔法を見ているように友惠の体は変幻します。しかし私達にはできません。そこで、友惠は一人一人の能力と個性に合わせて指示を出していきます。
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例えば、舞台で踊る私に「鳴っている音楽をおでこの1p角の皮膚と前に出している両掌で共鳴させて」と指示します。これならなんとかできていると実感はできました。
「後は照明と音響操作でこっちが何とかするから」と、調光室と客席と舞台を走り回りながら友惠は言います。
本番中も自分も出演するのにも拘らず走り回っています。客席が三階席まである劇場では大変だったと。衣装の上にコートを羽織って、舞台から一回地下に降りて警備員が立っているだけの劇場エントランスを抜けてから腰をかがめて客席通路へ走り舞台と観客の様子を伺い(椅子に座る観客と目が合うとその観客はキョトンとして通路に踞る友惠と舞台を交互に見直します。友惠は軽く笑って手を振り、その場を急いで立ち去ります。警備員に不審者として注意されたこともあります)そして調光室でスタッフに指示を出し、舞台に舞い戻って自身の踊りで作品の流れを調整します。
友惠は創作現場では具体的なイメージが止めどなく体から溢れ出てきます。これは特異体質としか言いようがありません。「視覚情報と聴覚情報と体感情報が化学反応を起こす」と言います。公演開場直前まで、その場で湧くイメージから微妙な振り付け換えなど踊り手への指示を欠かしません。「ギターだって雨の日は弦の鳴りがダブついて気持ち悪い。舞台も同じ」と、本番中にも劇場の空調調整を指示します。
3 土方巽によるヨーロッパ公演の悲惨な失敗
'70年代に入り土方は自身が舞台に立つことなく演出に徹した頃から、徐々に舞踏の踊りとしての振り付けを模索していきました。
踊りのフォルムと動きの面白さと同時にその必然性を追求していきます。
日本だけでなく西洋の古典絵画や写真集から、そこでモティーフになっている人物や動物の模写をしました。出典が古典作品ということで必然性を保証されたと考えていたのでした。
その中から選別した幾つものポーズをパーツとして取り出し、時系列で組み合わせて動きにしていくことが振り付けの一つの基本となりました。
友惠の振り付けは土方と違って単に形と動きに留まりません。振り付けは終点ではなく、そこから常に始まり続けるものということです。踊りに微妙なテクスチャー、広がり、深みを持たせるために、振り付けの上に更に振り付けを重ね、また更にというように。限りなく複雑になっていきます。
舞踏の舞台は演劇と違って作品構成の筋となる脚本がありません。演劇と比べると、観客とは論理性、知性に基づくものよりも知覚によるコミュニケーションの分量が多くなります。観客に発信する視覚、聴覚、体感という多様な知覚情報のコントラスト、バランスが少しでも狂うと、その作品は意味不明に陥るというリスクを常に抱えます。
また、踊り手という生き物である人の体の状態は舞台環境の中で日々変わります。
公演現場という環境も日々変ります。ですので踊り手への振り付け替えは日常茶飯のこととなります。それがライブである舞台の面白さでもある訳です。
ただ友惠の場合は、その都度振り付け替えの意味を一人一人の踊り手に説明します。人は他人の駒ではないということがアートの一つの命題になります。
友惠の踊り手への微妙な振り付け換えがなされると、舞台空間全体が揺れるのが肌で感じられます。
しかし当初私は、日々変動する舞台の動きに戸惑いました。動物的な感性からなのでしょうか、例えば野生の動物が目には見えない危険を察知した時のように、私の体は底知れぬ焦りを感じます。私の知らないところで、舞台という生き物が胎動している。
土方時代は主役である私の踊りの力で公演を主導してきたという自信の足場が、根底から覆えされているような気もしました。
しかし、友惠の微細で時にはワイルドな指示に従うと公演は予定調和されていたように成功します。
舞台で踊り手の体が関知しなければならないパラメーターの量が土方時代より格段に多くなっていたということに、後になって気付いていきます。
公演では招聘されたフェスティバルの主催者から「普通、主宰者が亡くなるとレベルが下がるはずなんだけど、上がっている」と評価されましたし、「芦川さん、土方が亡くなってから、訳の分らない舞踏家が経営する農場に行っていたとか、悪口をいっぱい聞かされていたけど、土方時代より上になっているね」と、土方時代の同僚の言葉にも元気付けられました。
過去に拘り過ぎると、今、ここにある現実が見えなくなることもあります。
私は土方時代、他のジャンルの舞踊家と違い何の技術的な背景も持っていなかったという引け目もあったからなのかもしれませんが、舞台の袖幕の裏(観客からは見えない)に500ワットの照明を一台置いてもらい、出演前に数分間、明かりを点けたその照明に見開いた自分の目を十数pの距離から覗き込んでいました。いわゆる「目を焼く」という、当時一部の舞台人が、観客と対する時の表情作りにする方法だとも聞かされていました。しかしそれ以上にプロの舞台人としての気概を自覚する精神集中の方法だとも思っていました。土方からは何も言われたことはありません。
友惠が当カンパニーの主宰者になってからも初めの頃は、それが舞台に立つ人間の気骨なのかと、友惠は私の行為を見過ごしていましたが、ある時、「あなた、そんなことやっていると、あなたの目は大変なことになるよ」と、怒られました。確かに私は普段の生活では厚いレンズの眼鏡を掛けるようになっていました。それ以後、「目焼き」は一切禁止となります。
それどころか、友惠はある老人福祉施設でのボランティア公演では私に眼鏡を掛けたまま出演させました、「お客さんをキチッとみなくちゃ」と。それはお客さんも私達も伴に楽しい公演でした。
強引に作っただけの表現は、やはり、どこかでお互いのコミュニケーションに無理が生じます。私には舞踏のメソッドを再考する一つの手立てになりました。
友惠は「壷の中の物を握ったまま手を抜こうとすると、腕ごともげるよ」と私に言います。
土方舞踏は'70年代の小劇場運動のなかで注目されたことが切っ掛けとなり、商業劇場やヨーロッパ公演を行うことになるのですが、悉く失敗しています。
1978年にパリのルーブル装飾美術館で行われた建築家の磯崎新さん企画の「間展」で、日本の音楽家、演劇人など多くのパフォーマーの作品が上演されました。
私もその一人として踊りを披露しました。今までの公演からのソロ・パーツを組み合わせた短いオムニバス版でした。
土方舞踏では舞台の専門の舞台技術スタッフはいませんでしたので、照明も音響も間に合わせの素人が受け持ちました。今なら考えられないことです。
小さい会場で、日本の現代舞台アートの実情の紹介という形で、それぞれの出演者達も、パリと日本との距離感を探るという心持ちの人も多かったと思います。
皆、パリは初めてという人も多い訳で、それぞれサンプル版を披露するというシンプルな企画でしたが、私の踊りは受けは良かったと思いますし、私にとってはヨーロッパで初めて舞踏が紹介された記念すべき公演だと自負しています。
勿論、磯崎新さんの素晴らしい舞台美術に負うところも大きかったと思います。
しかし、それで今後の舞踏の展望が見えた訳ではありませんでした。日本人初めての舞踏公演ということで白塗りメイクという新奇な意匠も手伝い批評も緩かったと思います。
しかし、5年後の1983年のヨーロッパ公演では状況は一変していました。欧米の中・大劇場の公演で耳目を集めた若手の舞踏家の活動により、舞踏の本家と目されたことからの土方へのオファーでした。
元々、舞踏といっても踊り手の「裸体」、「白塗りメイク」という見た目上の意匠にこそ共通項はありますが、作品テーマ、舞台制作の方法はカンパニーによりそれぞれ違い、踊りの振付けにしても共通言語も全く無く、一概に括れるものではありませんでした。
欧米で成功した舞踏カンパニーに続き、逸早く「柳の下に泥鰌が三匹」を狙う若手舞踏家達の活動により、舞踏の評価基準が既に出来上がっていたということも否めません。
舞踏アートの世界進出、その首謀者としての自負を持つ土方は夢も膨らんでいたことでしょう。しかし結果は惨憺たるものでした。
「『日本の乳房(上演された作品)』は(中略)相当の衝撃を観客に与えた。すなわち『もう御免!』という思いである。」(オランダ公演、カロリーネ・ヴィッレムス)
「この<舞踏>の創始者は沈黙を破るべきではなかった。彼はもはや何も言うべき事を持っていない。」(スイス公演、ジャン=ピエール・パストリ)
「この公演は我々にとって恐ろしい経験になった。何故ならば、そこで出会ったものは西洋音楽の最も俗っぽい効果の累積にしかすぎなかったからである。(中略)観客の頭を混乱させ、すっかり疲労させてしまった。」(オランダ公演、コンラート・ファン・ドゥ・ヴェッテリング)
「土方-芦川のダンスグループは殆どの観客をどうしようもなく退屈な状態にとり残した。(中略)古いよごれた布に身を包みアメリカのテレビ番組のような音楽伴奏で一人がなめくじのように舞台に這いでる時、笑いを禁じ得ない。」(イギリス公演)
4 オフ・ステージの眩惑
全身を白く塗り
襤褸
着物を纏
わされ舞台上で蠢く胴長短足の女性達の姿態は、見せ物小屋に売られた貧農の娘達を想わせ、魅せることを生業としたプロポーションの整った西洋女性のヌード・ショーと違い、彼女らの悲惨な性状に付随する諧謔的なエロスを感じさせました。観客は、アートの名の元とはいえ裸にした女達を想うままに扱う舞踏の主宰者には羨望からの尊厳さえ抱かせます。
今日のグローバル・ネット上での性の基準とは違うアナクロの域に留まるものですが、戦前の超ストイックな時代を生きて来た世代にとっては目を疑わせるものでした。
現代俳人の加藤郁乎氏は当時の様子を「女性の舞踏家たちによる色めき立った活躍はめざましく、土方巽に招かれた友人たちの大半は白髪まじりの頭を気にしながら横談耽飲、眼福をこやしている」と語ります。
粗野な単衣の着流しに、髭を生やし老人然と振る舞うなど自身のキャラクター設定はオフ・ステージから拘る土方でした。戦前の寒村「東北」を舞踏のテーマとしていた彼は、活動拠点である東京では出身地の秋田弁をプレゼンテーションのアイテムとし披露していました
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標準語を基本コードとしながら、それと緻密な距離を測ることで個性的な修辞学を構築しようとしていた文学者達は、彼の人前で臆面も無く発する「訛り」による自己演出に身体アートの曖昧ではあるが直截的なインパクトにより原初的表現を感じ取りもしました。勿論、彼等の中には土方の過剰な自己演出に胡散臭さを感じ煙たがる人もいたでしょうが、自身のフィールド(文筆業)とは違うライブ公演の観客と伴に興じる熱狂には魅力を感じさせたのでしょう。また盛大な公演打ち上げで特別席を用意されているともなれば悪い気もしません。特にそれで生計が立つ訳でもない、普段は質素、堅実な生活を送る現代詩人の方々は、ライブ公演のお祭り騒ぎは新鮮に思われたのでしょう。
同じ席上で末席に座る舞踏批評家達には、著名人に艶やかに囲まれる土方は眩しくも映りました。土方が亡くなり文学者たちが舞踏から離れていくと、空席に雪崩れ込むように座った舞踏批評家達の挙止は一興を演じ続けることになります。彼等が採用した批評方法は文学者のそれの表層的模倣でした。批評の基本となる舞台アートとしての舞踏の身体、演出技術には一切触れることはなく、背伸びしたレトリックで脚色した文章は文学表現としても完結することはありません。
舞踏は日本発の現代舞台アートであるにも関わらず、その紹介者として一翼を担う筈の舞踏批評家で世界に知られた者は一人もいないのが現実です。彼等の野方図な行為は舞踏の無節操な拡散に拍車を掛けることになります。
こうした舞踏界の絶望的な状況に己の身を賭して一人立ち向かったのが、友惠しづねでした。土方は友惠を産み出すために舞踏を始めたといっても過言ではありません。
5 80年代、舞踏にスポットが当たる
'70年代前半から'80年代に掛けて日本の幾多のファッション・デザイナー達がパリ・コレなどで注目され、若手の舞踏家達は、彼等と同調するように舞踏にエレガントな装いを取り入れ、またモードとなっている哲学思想に馴染むようなプレゼンテーションをしていきます。ファッション・モデルと共演したり、ファッションショーの演出をする舞踏家も出てきます。
これが欧米で受け入れられた当時の舞踏の様相です。
日本でも彼等の海外での活動から逆輸入される形で舞踏にスポットが当たります。'85年には東京で舞踏フェスティバルが行われます。
こんな時期に、土方舞踏のヨーロッパ・ツアー公演は敢行されます。
しかし、このツアー公演に土方自身は同行しませんでした。公演後に行われる批評家、新聞、雑誌の編集者によるインタビューでは、曖昧さを特権的なドスとして用いる得意の「訛り」は、翻訳によるプレゼンテーションでは意味を成さないことも一因でしょう。が、それ以前に'60年代、彼のブレインであった美術家の瀧口修造氏が渡仏した折の「フランス語が喋れないと、特に男性は差別される」、「部屋から出られず窓から外を見て泣いていた」との人形作家の四谷シモン氏らの経験談から、恐怖を感じていたのかもしれません。東京と違い確たるポジションもありません。
結局、当時、唯一弟子として残っていた私と、既に辞めていた団員の一人を呼び戻し、私を
俄
演出家として、音響、照明スタッフは間に合わせの素人を使います。今まで通り事前に劇場図面を通しての段取りなどしませんし、音響、照明の機材リストもありません。また、その必要性も感じていませんでした。
美術は狭い稽古場で使っていた高さ一間(180cm)のパネルを空輸で運びました。運搬には国からの援助でしたが経費だけは大層掛かりました。
美術パネルの配置は劇場入りしてから私が決め、それに合わせて照明を吊り込みます。「闇も明かりなのだよ」とだけ土方に指示された照明プランは具体的には何も決まっていません。
しかし一間物の美術パネルでは、天井高が10m近くある観客キャパシティー3、400人の中劇場では舞台の上方は野方図に放って置かれるままで押さえが効きません。狭い稽古場公演で多用していた観客の体感にまで響くドスの効いた効果音「地鳴り音」は、舞台空間の上方で虚しく空回りします。
土方が演出を勤めても、時間の制約が厳しい現場では同じ結果になっていたと思います。
それでも私は自分が踊りさえすれば、何とかなると想っていました。
後に「舞台制作は地獄のシミュレーション」と演出の厳しさを友惠は言います。
「これじゃ、図面も無く家を建てるようなもの。完成絵図の見てくれは良くても、実際に住んでみれば、電気、水道、ガス(美術、照明、音響)というライフラインは完備されず土台も傾く。舞台は図面も読めない素人演出家が関われる世界ではない。それにも気付かず過去の成功例に取り縋ろうとする土方も哀れ」と。
結果は先ほどの通り。
私を主演としたヨーロッパ公演に、「飛行場まで大統領は出迎えに来るべきだ」と熱い胸の裡を
迸
らせながら同行した舞踊批評家の市川雅氏の詳細な報告から失敗を確信した土方は、帰って来た私を稽古場の二階の階段から突き落としました。
それでも私も含め日本の舞踏界も土方の舞踏本家としてのカリスマ性を信じ切っていました。再び奇跡は起り、それに寄り添ってさえいれば当時の熱狂が味わえると。
`70年代半ば、目黒の稽古場での私の主役公演の成功から得た土方舞踏への熱狂は観客だけでなく土方と私にも、それに浸り続けるのに充分な根拠を与えていました。
文芸誌、美術誌などマイナーとはいえ、革新的現代舞台アートと喧伝されれば、そう容易く浮いた気分からは抜けきれません。
'80年代それまでマイナー・アートであった舞踏は、海外で注目された若手の舞踏団が大手企業のテレビ・コマーシャルにも起用されるなど日本での舞踏ブームのなか、「裸に白塗りメイク」という奇抜な意匠により押し出しだけ強く文化的、技術的足場も無いままに恣意的な発想による単なる受け狙いと捉える人も少なくありませんでした。
「あの恐るべき消費的芸術である舞踏も、・・・、日本民族芸術のため、世界に害毒を流している。」(『舞踊の芸』)と武智歌舞伎の武智鉄ニが指摘するように批判も起ります。
しかし、誰もにスポットが当たった訳ではありません。ブームに乗り切れない人も多くいました。
メジャーとマイナー、当時の舞踏の文化的ポジションは二極化しているような状況でした。
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