41 実際の舞台は 音楽、照明
土方の場合、舞踏で使う音楽は、まず振り付けを先行させ、その後に団員やスタッフが持ち寄った市販のレコードから選んでいました。
土方の舞台では、音楽は作品構成の枠組みを決める重要なエレメントになります。作品のテーマ性を印象付ける楽曲(2〜3曲)をセレクトすることが重要でした。しかしセレクトした曲が西洋のヒット曲であったことが、海外公演での批判の対象にもなりました。
土方も、市販の音楽を元に振り付けを施したところで詮無いことだと分っていましたが、感覚的ですが自分のやらんとしている舞踏(創作中は自身でも作品の全貌を見え切れていない)を知悉する音楽家と巡り会うことは有り得ません。
振付けも含めた創作自体が即興的で時間も掛けません(2〜3日)ので作曲家を雇ったところで双方、意志の疎通を取り合う暇も無かったでしょう。
これは舞踏だけではなく多くの舞踊作品について云えることだと思いますが、専属の作曲家がいるか否かで舞台作品を創る上での段取りが根本的に違ってくるんですね。
音楽はシーン毎の踊りの振り付けと密接な関係にあるだけでなく、作品の構成、またテーマを決める上での重要な要素になります。
民俗舞踊は勿論、日本舞踊、西洋クラシックバレエ、盆踊り、日夜繰り広げられるクラブでのお祭りでは踊りと音楽はいつでも相思相愛です。
多くの舞踊ジャンルでは、その揺籃期、踊りと音楽は半ば自然発生的な交わりの中で紡がれました。
週刊誌のグラビア写真など視覚情報により、あまりにも性急に喧伝されてきた舞踏は、踊りの舞台に欠かせない聴覚情報に関しては脆弱な扱い方をされていたことは否めません。
人間の知覚認知は8割方、視覚情報が占めると云われていますが、これには聴覚情報も含め他の感覚情報がハイブリットに混淆し反映し合っています。将来の認知心理学による精密なデータが望まれます。
しかし、自身の体の感性を触覚として、人間の形を
弄
ろうとの野望を持つ舞踏家は、待っていられません。
人間に限らず全ての生き物の体は、記号データでは精査仕切れない。雑多な倍音成分を唸らす五臓六腑の音響。フレーミングし得ない周辺視野の中を彷徨する視点。欲望とリスクを天秤に掛ける臭覚。肥満と飢餓を予防する味覚。愛情を微積分する触覚。幸福を統御しようとする体感。そして誰にも騙されないための六感を、
夢現
の内に駆使します。
片や人間のコミュニケーションにおいて飽くまで便宜的ではあるが最も有用なツールである言葉は、例えば法律書が象徴するように、保証を得るために互いを拘束し合います。
生あっての形。死あっての力。
友惠は、両者の葛藤、浸潤から縺れながらも醸される人生の課題に真っ向から取り組もうとします。それこそ舞踏の念願です。
言葉は方便という
形
で嘘も付けますが、体はいつでも正直です。
42 ある抽象 音楽と振付け
友惠の音楽は演劇の脚本に当たるような舞踏作品のプロットを担う根幹ともなり、また、シーン毎に音楽と振り付けられた踊りは綿密に対応し合います。
これは私達が独自に編み出した他には無い舞踏メソッドです。
具体的な方法としては、作曲作品を優先して振付けする。振付けを先行させ音楽を導く。シーンによっては両者の即興的出合いにより創られる、などがあります。
私達の作品はシーン毎に、踊りと音楽による独立した小作品としても成立しています。それが私達カンパニーの個性であり、将来の舞踏アートの行く末を責任も持って提示するための一つの完成された形になります。
実際の創作現場での作業は、踊り手それぞれの体の特質、舞台環境(音楽は音場という空間的属性無しには在り得ない)を鑑み混淆していきます。音楽=音響と踊りは同時に創られるということです。
友惠は、まず2〜3分音楽のデッサンを提示し振付けを促します。逆に、振付けのラフ・デッサンから音楽の着想を得ます。踊り手の稽古を通しての両者のコラボを経るなかで音楽と振付けは踊りのシーンとして産み出されます。
そして、音楽と振付けは演出と切り離せませんので、創作ではこれらの関係は同時にシミュレーションされます。
舞踏の本質、生存のために臨機応変に進化し続けるであろう宿命を担った技術のあり様に機敏に反応する友惠によってこそ成し得た偉業でしょう。
私達の舞踏の稽古では、振付け法と並行して楽器演奏、コンピューターによる作曲法などもテキストとして組み込まれます。外部の音楽家とのコラボでは、演奏者の心を知ってこそ踊りに活かせるとの発想からです。
舞台美術(踊り手の体が関わる舞台環境は、季節、日がな夜がなを属性とする生き物の生活環境とパラレルと捉えますので、時間が介在しない空間はありません)に関しても同じです。
人間の生死を含めた存在の明暗をテーマとする舞踏にとって舞台美術、特に舞台照明は大きなエレメントになります。メンバーは照明技術の資格(中には舞台照明技術者一級技能認定を取得した者も)を持っています。
前衛を表明する舞踏ですが、伝統芸を否定している訳ではありません。
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舞台両サイドの空間にススキの穂をいける |
私達の稽古では花器に生けられた華を置くことがあります(友惠も含めメンバー3人は華道師範)。
「天地人」と理路整然と生けられた形も時間を経れば花も枯れます。そこで友惠は「あの枯れた花を主役にするから」とギターを弾き出します。友惠の奏でる音の粒子達は朽ちてバランスが崩れた花木の隙間をぬうように流れ、枯れた花を笑わせます。観ている私達はただただ驚異を感じます。「花や木は舞台に立つ踊り手。演出とは、こういうものなんだよ」と友惠は言います。
私は初めの頃、切り花で強引に形を造る華道には馴染めず、「野草の会」に入り野原を探索していましたが、友惠は「人は誰もが皆、野草。時に寂しいから形に縋る」と。
何より見た目のイメージに拘る土方でしたから、情宣用の写真はプロに撮らせるなど念を入れました。それがポスター等に使われ舞踏の紹介プレゼンテーションの顔となります。
また土方は、視覚からのイメージを増幅させるキャプションとなる言葉には並々ならぬ労力を使っていました。彼はインタビューに応じる時、事前に原稿を下書きし、普段は使わない東北弁を織り交ぜ喋り方の練習をしていました。
土方の追随者達も彼の方法を模倣します。海外で舞踏が注目され始めた時期、欧米からの取材があれば、彼等におもねるように、皆こぞって、おぞましくも異様さだけを見繕ったポーズを披露します。写真集等も沢山出版されました。そんな渦中にいた私ですが、さすがに、これでは舞踏のアートとしての品格は失われるばかりだと思いました。
友惠は舞踏の舞台だけではなくプレゼンテーションにおいても如何なる虚飾も許しません。それは、「一匹の生き物に必ず一つだけある体=命」の本来性に準じたいからです。
「野草を踊れれば、神だよ」と、友惠は笑みを零します。
43 九割五分は捨てる作業
'85年池袋西武デパート内の「スタジオ200(観客キャパシティーが200人ということですが、舞台を組むとかなり減ります)」での土方最晩年の作品「東北歌舞伎」シリーズ公演では、それまでの土方舞踏の創作法の欠点が露になります。
リハーサル中に「これは舞踏の照明ではない」と土方は照明家に怒鳴ります。彼は劇場の照明システムのことなどは何も知りませんでしたので、照明作りの段取りからして分かりません。照明機材の種類と効果。照明回路の組み立て方。照明図面の読み方と作成。全てにおいて無頓着でした。
嘗て、彼自身が出演していた即興パフォーマンスでは、その場に臨機応変に対応すれば事足りていたのでしょうが、演出家として作品性を志向するようになると、そうはいきません。
これは後に友惠に教えられることですが、本番中に舞台照明の即興操作は例えマニュアル操作の機材(今日ではコンピューターに予めプログラミングされる)であってもできません。段取りは全て事前に決められます。第一、照明機材を吊り込んで(仕込んで)なければ、明かりは採れません。多くの舞台演出家にとっては土方の舞台に臨むスタンスは考えられないことでしょう。ある時代のあるシチュエーションにのみ可能であったことです。
本番中、土方は(狭い稽古場公演と同様に)調光室に押し入って、「あーせいこーせい」と指示を出しますが、照明機材の仕込みの問題もありますし、照明家は対応出来ません。終いには照明家は調光室の扉の鍵を閉めてしまいます。明かりが出演者を賄えない時はピンスポット(可動式で光に円形のエッジができる。その中に踊り手は立つことになる)で追います。ショーダンスじゃないので、これはなかろうと思いました。
しかし、照明という機材は観客の上に吊り込むので危険物。音響の不備ならば、最悪、音なら鳴らないで済みますが、照明機材が天井バトンから落ちでもしたら大変なことになります。
吸収力は何に対しても尋常ではない友惠の場合は、その効果を知悉しての照明の機種の選択、吊り込み、回路図面から全て自分でこなすまでに時間が掛かりませんでした。でなければ、劇場付きの照明家に明確な指示を出すこともできません。内部に資格を持ったプロを有することは必須です。
友惠家は目黒に工場を経営していましたが、母親が経理を担当していました。友惠が大学の商学部に通う1年生、18歳の時です。母親が信仰する宗教の合宿に行くというので、急遽、経理を友惠に任せます。「帳簿の記帳から納品書、受領書、手形、小切手の切り方、銀行への納金、社員さんの給料計算まで全て2〜3日で覚え込まされたよ。神様が登場すると人は鬼になる。・・・それは、さておき、切羽詰まれば何でもできる。大学の授業なんて温いよ。1パターンしか教えないからね。生活が掛かった現場が全てだってことかな」。
秋口は喘息のシーズン。プロ仕様のギターを買う予定だった友惠の工場でのバイト料は、発作を起こし3週間学校を休む間に、母親は「天に貯金する」ということで勝手に宗教組織に上納されます。それまでにも家が2〜3軒建つ程、宗教に投資してきた母親の信仰には歯止めが効かない。「心を金銭で換算する商売は儲かるようだね」。その頃から友惠は「俺の神様は自分と等身大のお地蔵さんでいい」と想うようになります。「苦しい時には神にも頼みたくなるだろうけど、所詮、自分事だからね」「どうせ、喘息は治らないし」。
友惠と即興デュオ・グループを組んでいた「即興は一寸先は闇」と断言するコントラバス奏者の吉沢元治は「友惠は、追い込み方、上手いよ」と舌を巻きます。「ちょっとでも油断すると押し切られる」と。ライブ演奏後の吉沢の共演者に対する批評はいつでも辛辣でした。「あのやろう、いい歳して、何やってんだ」、ジャズ界の長老も形無しです。人の陰口が嫌いな友惠は「だったら、付き合わなければいいのに」と、醒めています。
土方時代は文学者のブレインが多かったことから文学談義に花も咲きます。勿論そこには暗黙のヒエラルキーがありました。友惠が主宰者になってからは数十人の音楽家達と知り合うことになります。彼等は皆、基本的にソロの人達です。実際に出ている音しか信用していません。一面、冷たさを感じさせます。音楽家は音楽論など語り合うことはありません。「相手への押し付けになるしね」と友惠。実質の作品とは遊離した舞踏論を捏ねくり合う馴れ合いの舞踏界は温いな、とも感じました。借り物の言葉には体温が無い。
ライブ演奏の打ち上げでは、演奏家の常軌を逸した奇譚や自殺して伝説になった演奏家の逸話が酒の摘みにヒョッコリ顔を出します。その都度、友惠は暗喩として引合いに出されもしていました、「あんた、死なないでよ」と。
「即興なんて、本来、一回経験してできない奴は、一生できないんだよ。『臨終唯今に在り、これだけ』。即興演奏家って、誰にも教わってないよ」と言う友惠ですが、私達には丹念にその方法を教えようとします。
「演劇の脚本も日常会話もディベートもダイアローグが基本。交互に喋るじゃない。音楽と踊りのコラボって数人が同時に喋り続ける訳。見ながら聞きながら同時に自分の主張もしなくちゃならない。この時、前提になってくるのはハイブリッドなアンサンブル。ここが面白いんだよ。即興というと、神懸かり的な何かが乗り移って力以上のものが出せると思っている人がいるけど、プロはみんな醒めてるよ。魅力の判別はその人が備えているパラメーターの数。同じ運転するにも自転車と宇宙船じゃ違うでしょ」。
「音楽や踊りで即興表現が注目された'80年代は脱構築、解体を謳うポスト・モダンがパラダイムになっていたけれど、これは日本伝統のズラしの美意識(例えば華道、茶道の形にみる不均衡な調和)と、ギア・チェンジさえすれば易々と同調しもする」と友惠は言います。
私達は欧米の音楽家とのコラボも多いのですが、確かに、友惠が本番前に作品の構成表を見てもらうだけで初対面の人とでも事は瞬時に運びます。長年の付き合いであったかのように。
舞台照明は現場での多少のマニュアル操作は可能でも、本番では変えられないというのが原則ということは前述しました。'80年代になると予め段取りをインプットしておくコンピューター操作の照明システムは当たり前になりつつありました。池袋西武デパート内の「スタジオ200」は小スペースですが本格的な設備が完備されていました。土方の稽古場公演の民生用のシステムとは大違いです。プロ仕様の機材は素人では仕組みも分りませんので、触らせても貰えません。
商業舞台作品もやるような大きな劇場では、さらに規制は厳しくなります。
例えば、私達が初めて全員で行ったアメリカ公演では、劇場側にはユニオン(組合)がありまして、出演側のスタッフと云えども調光機(照明のON、OFF、照度の操作機)、PA(音響操作機)、自分達で持ち込んだ舞台美術さえも触らせて貰えません。
時間の規制も厳しい。時間延長する場合、劇場スタッフのギャラは初めの一時間は倍に、次の一時間はその倍というように。
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パリ国立オペラ・バスティーユ円形劇場
(台湾のガンチンシアター公演の演出) |
予め劇場側に公演制作の全ての段取りを図面(舞台美術、照明、音響)で指示する他ありません。日本よりはるかに厳しい。パリでも同じです。劇場スタッフは、一度提出した図面から外れたことには現場ではテコでも動きません。
友惠はいつでもケンカ腰で彼ら現地スタッフに挑んでいました。初日の公演が成功したとなると彼等の態度は一変しますが、初対面の時は「あいつら日本人をバカにしてんじゃないの」と思わせるくらいプライドの高い人もいます。
何れにしても結果次第なんですね。
「公演は良かったけど、一度でも友惠の笑顔が見たかった」と顔を引きつらせる人や、友惠のことを天才だとか、日本のウディ・アレンだと絶賛する人も出てきます。
土方の舞台制作方法は、勢いに乗れる時代、限定された場所では押し切れましたが、それがオールマイティーで通用しなくなっていたことは海外公演など創作の場が多様になってくると、嫌でも私は肌で感じさせられることになります。
友惠の振り付け法は踊り手の個性や技術レベル、作品やシーンとの兼ね合いから、音楽と同時、音楽先行、振り付け先行とバリエーションも多彩です。
友惠は踊り手を育てながら振り付け、作曲し、美術、照明プランも同時に創ります。時間的ノルマもあるなかで、一切手を抜かず全てを請け負う友惠の負担は想像を絶します。
踊りは自らが踊って手本を示します。「何で、できないの?このくらいやってくれないと演出では賄いきれない」。私達は友惠の踊る姿を見て、限りない眩さを感じながらも劣等感を抱かされます。「それだけは言わないで下さい」だけが、私達の祈りでした。友惠もそのことは深く内省しているようで、私達より深い罪責観を持っているようです。
ある時、私は、稽古でボロ雑巾のような体になった友惠に言います。「音楽だけやっていたら、とっくに・・・」と。私の言葉は、多少は効いたようで「誰と付き合うかで、寿命も人生の意味も措定されるのかな」と、友惠は萎れます。とにかく、1日3回服用する薬を飲み忘れた途端に喘息の発作が起こります。心臓に負担が掛かる吸入式の気管支拡張剤はしょっちゅうシューシューやっていました。「とっくに・・・」、この言句は友惠を延命させるためのプレッシャーになるなと、私は謙虚にほくそ笑みます。
友惠はそれまでパフォーマンスの舞台は経験しているとはいえ、舞台制作は全くの素人というところから始まります。
私にしたところで土方時代は作品など作った経験はなかったし、モデリングする技術は何もありませんでした。
私達舞踏カンパニーの創作法は「九割五分は捨てる作業」という自身のギター曲の作曲法が基礎になっているのかもしれません。「5〜6分の曲でも300時間掛かっていたかな。この曲ができなかったら自殺しようと、いつでも想っていた」。
まず混沌状況を創り出すために膨大なデッサンをし、切りのない推敲の末、上澄みだけ掬い穫るという方法です。
友惠は団員達の踊りの稽古も含め当団体の創作の基礎を一人で担ってきました。体はいつもギリギリの状態でした。本人は「子供の時から慣れているから」と。しかし苛烈な舞踏公演のスケジュール。「竹刀じゃ駄目、真剣じゃないと」というのが口癖の吉沢氏との過酷なライブでの即興演奏。長い時ですと3時間半も演奏し続けます。
「もっと手を抜いて演奏すればいいじゃない」との私の言葉に友惠は「0か10しかないの」と言います。ステージの二人はお互いリングでへたばるまで殴り合うボクサーのようでした。
疲れ果てた友惠をライブ会場から車で稽古場に運び、深夜に始まる舞踏の稽古。友惠は、体を気遣い「もう止めて(音楽ライブは)欲しい」と願う私やブレインの再三の要請を受け入れました。
「それだけギターが弾けるんだから勿体ないよ」と吉沢氏から、それ以後もコンタクトをとられていましたが、胃潰瘍で入退院を繰り返す友惠に余裕はありませんでした。
友惠を天才と評する吉沢氏からは、さぞかし恨まれたことと思います。
このような状況に追い込んだのには私にも責任があります。と言いますのは、土方の晩年、最後の1年はセゾン公演の準備もありましたので、小さいものですけど公演だけでも10回と、他の舞踏家達とは桁違いの活動をしていました。
前述しましたように、友惠は舞台公演に関しては経験がありません。土方亡き後も私は当時と同じか、不安も手伝ってか海外からの講習生のグループを主宰するなど過剰な速度で活動しようとしました。友惠は私の立てた公演スケジュールを、一般的な舞踏活動の原則として、そのまま受けいれます。
しかし、私は大きな間違いをしていたことに後になって気付きます。友惠の創作に対するあまりにも純朴な姿勢とその方法は、土方とはその質、量において次元違いに密度の濃いものでした。「手抜きすればいいじゃない」が通用する生き物ではありません。そして、その負担は全て友惠が請け負うことになります。勿論、純粋を絵に描いたような友惠の資質に同調するメンバー達も、自ずと創作に邁進するようになります。中には友惠の底抜けの善良さに付け込む者もいます。初めの頃は
人誑
しの天才・土方を引合いに出し友惠にプレッシャーを掛けていましたが、最終的には病弱でもある友惠の交友関係は私が常識的に差配することになりました。友惠も「あっそー、宜しく。みんなに迷惑は掛けたくないし」と素直に了承します。
44 舞台美術について
舞踏の舞台美術について少しご説明しましょう。
演劇の場合、シーンを説明するために、舞台上に例えば屋内の壁やドア、テーブルや椅子(デフォルメされた形でも)を設置することがあります。
しかし、舞踏では舞台内全体を感覚表現の場と捉えますので、踊り手の体と舞台美術は公演を伴に歩む相互補足の関係にあります。分かり易く云うならば、舞台美術は踊り手と同じように体を持った生き物と看做します。両者の絶えざる葛藤、統合により瞬時毎に新鮮で奥行きのある感覚表現を産み出し続けようとします。
友惠の舞台美術は、成長過程にある踊り手達それぞれの体の状態を鑑み、その都度、馴染むように創られますので、ややもするとコンセプトが先行する土方時代とは、これは誇張なく100倍の時間と労力が掛けられました。それは踊り手達の個性を引き出すための完璧なオーダーメイドでした。
「自分は舞台アートのビギナーだから、他人より努力するのは当たり前」と言う友惠でしたから、一流の美術家の技術を踏襲したいとの欲望は人一倍でした。そこで教えを乞うべく美術家とのコラボを念願します。相手を一度見切ると興味を失う友惠ですが、自分の能力キャパシティーを超えると感じた人には絶大なる尊敬の念を抱きます。
さて一見、自身の体と魂魄を籠めた美術家の作品とのコラボは魅力があります。彼等の美術作品から触発を受けることで舞踏の可能性を開拓する契機を得ることもできます。また舞踏アートのプレゼンテーションにも広がりを持たせられます。
しかし美術家とのコラボは難しい。生き物の体が直截的に関わるアートではコンセプトを先行させるような制作方針をとった美術作品とは馴染み合いません。それもその筈。両者の生きる場はその環境からして違います。
観客が画廊や美術館で一つの美術作品を鑑賞する時間は長くて数分、殆どの場合は数十秒でしょう。ところが、舞台に設置された美術は少なくとも一時間以上、観客の目に晒されることになります。
ライブ現場の経験を積んでいない美術家の場合、舞台美術と美術の違いを安直には受け入れようとしません。
舞踏家も美術家もお互い忖度するのでしょうがライブ表現の経験いかんによってズレが生じます。
私達がお付き合いした美術家は、その点は抜かりが無い方達でした。いまだに公演だけではなく人生の相談にものって頂いています。運が良かったという他ありません。
土方の場合は、スポットが当たっている美術家を集めたはいいが、最終的には得意の言葉で言いくるめ自身の表現を押し付けていたように感じました。挙句の果てに、ある2人の美術家に対して「君たちは僕のコインの
裏表
だ」と公言すれば、恨みを買うことにもなるでしょう。
友惠が20歳代の時に出演していた大森駅からほど近い飲屋街、通称「地獄谷」にあったライブ・ハウス。その一角に土方と交流があった美術家の中西夏之が常連としていた狭いスナックがありました。友惠はそこで中西と知り合いますが、「あいつ、泥臭せえな〜。識者ぶっても舞踏界の下世話な話題しかしないよ」と。「土方舞踏と付き合って、アートへの純粋さを置き忘れて来たんじゃないの」。
土方の場合、'60年代のパフォーマンス時代には美術家とのコラボもしましたが、'70年代以降、舞踏を踊りのジャンルとして確立しようとの方針を立ててからは外部の美術家を使うことはしませんでした。
私達は土方舞踏の直系を唯一受け継ぐカンパニーでしたので土方に倣い小劇場での公演を基本とすることから始めました。ですから、特に海外での中大劇場での公演に対しては慎重になりました。海外では一度でも不評ですとその都市では二度と出来なくなる場合があります。
それまで経験のない様式の劇場での上演にあたっては、シミュレーションのために会場の模型を造り体育館を借りて稽古しました。客席が三階席まである場合、コンピューターで3D画像を作り各階の客席からの舞台の見え方を研究しました。
同じ作品でも実際の上演に際して一番問題になったのが舞台の天井高の処理です。オペラ・ハウスなどですと床から天井までの高さが6〜8mあります。土方の時のように高さ一間(180cm)物のパネルを置いただけでは、舞台の上の空間が無作為に空いてしまいます。
舞台上の全てのエレメント(出演者の体、音など)との、余す処無き混淆により作品世界を産み出そうとする友惠舞踏での舞台美術は無造作に放置されている空間が
一角
でもあることは許しません。友惠作品が「空気の一点まで演出する」と評される所以です。
具体的には舞台の奥、両袖の美術バトンから布製の幕を吊るし舞台内を天井まで囲い尽くします。布製ですので劇場の大きさに対応させ易いんですね。とは言いながら幕の総重量は500kg、縫製、染めは全てハンド・メイドですので制作には膨大な時間が掛かりました。
友惠舞踏では舞台装置の転換によるスペクタクルに頼ることは「遊園地に行ってるんじゃないんだから」と、禁忌です。あくまで踊り手の体を前面にプレゼンテーションしようとします。
友惠舞踏の舞台美術は作品に関わる全てのエレメントを抱擁しながらも、それ自体は「在って無くて無くて在る」、東洋文化で云う「
空
」を体現させます。喋っちゃ、いけないんですね。舞台美術は舞台上で一緒に生きる他のエレメント達との共存のなかで、必死であり続けながらも必要な姿を現せば良い。
友惠舞踏は舞台美術と踊り手の体を透視図法により統合させる方法には馴染みません。舞台全体に遥かなる奥行き感を滲み出させる美術が望まれます。1992年、NYのジャパンソサエティー公演ではヴィレッジヴォイス紙で「美術幕は動いていないのに神秘的に動いているように見えた」と批評されました。
45 舞台衣装について
主にオムニバス・シーンを組み合わせた晩年の土方の作品は、殆ど2〜3日で作っています。脇役の踊り手達の出演場面は私の衣装替えのためのインターバルと思い、主役の私さえ土方の振付けを全うしさえすれば作品はできあがると考えていました。
しかし「舞台には主役も脇役もない」「他の踊り手だけじゃなく、美術や照明、音楽や音響もみんな共演者。アンサンブルが大事」との友惠の創作法では、例えば'90年に初演された作品「
蓮遥
」は、2000時間を超える稽古の中から産み出されました。
再演にあたっても、上演劇場に合わせて舞台美術は創り直されることになります。
前述の美術幕の、友惠の妥協を許さない執拗な制作と稽古のなかで、私は踊り手の体と舞台の関係という新たな課題を突き付けられていくことになります。それは私にとって、それまでの舞踏観を根底から洗い直させるスリリングな体験でした。
ここに音楽との関係が入ってきますと事は一層複雑になります。市販のそれを使用していた土方の場合、音楽は後付けで入れていました。初めは振付けに没入する故に音楽など聴いている余裕もない踊り手も再演になりますと楽曲に馴れ、想わず体が特にリズムにノッてしまいます。こうなってくると、元々施された振付けの
間
が狂ってきますが、もはや振付け家が抑制できる状況ではありません。音楽が踊り手の体を煽らせるからです。
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例えば足半(あしなか)を履いた稽古では
さまざまな身体の感覚を培うことができる |
「クラブ(ディスコ)で踊ってるんじゃないんだから」と友惠は呆れますが、私達はショークラブで働いていましたので、そこでのノリが想わずダブってしまうようです。
また舞踏公演では裸足ですが、華やかなショークラブでのダンスはハイヒールを履きます。舞台環境と体の姿勢=構えはその表現に直接関わってきます。友惠の苦慮するところでした。そこで色々な稽古方法を編み出すことになります。
「音は聴くものじゃなくて見るものなの」と、ここでも友惠は私達に新たな課題を突き付けます。友惠は私達とは別次元の境地を生きる魔物にも想えました。
「何で音が見えないの?舞台の上に生きている物としているじゃない」。また、いつもの友惠の脅迫が始まると私達は言葉を失いますが、稽古現場に友惠が自作の音楽テープを持ってきて「これ、どうかな?」と聴かされるとみんな、ときめきを感じました。これから私達がやる公演作品の姿が目に浮かんでくるんです。
舞台美術の制作と同時に私達は舞台衣装に関しても多くの実験をしました。土方時代は「東北の寒村」を連想させるために衣装として着ていた
褞袍
なども試してみましたが、出演者の配役や作品の文学性は強調されますが、踊り手の体の個性を通しての日本人の文化的特性を「らしさ」で安直にラッピングしているように感じられキャンセルとなります。
私達の稽古場の壁には、布製の舞台美術制作のために幾種類にも染められた布サンプルが張られています。踊り手の体の状態を鑑み舞台美術と同時に衣装制作もします。舞台衣装も染めから縫製まで全部自分達でやっていました。美術用に考え染色された布地が衣装用に転換することも頻繁に起こります。
布の染めは生地を痛めますし、稽古も重なると衣装も崩れてきますので舞台本番までに何回か作り直しすることになります。
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「マダム・バタフライ」の山本耀司氏デザインの 衣装を纏って(リヨンの古代ローマ劇場) |
衣装デザイナーに頼んだこともありましたが、必ずしも舞台に馴染むものではありません。
吉田喜重演出によるフランス、国立リヨン劇場オペラ「マダム・バタフライ」に出演('90〜'95年。友惠しづね振付け)した時の衣装担当は山本耀司さんでしたが、友惠はそこでの衣装が「踊り手の体と舞台空間をナイーブに浸潤させる」と感嘆し、以後数年、彼の服を着用していました。踊り手全員に青山の彼の店から自由に選ばせた服で公演を行ったこともあります。
友惠の稽古は土方時代とは、その時間もさることながら次元違いの厳しさであたります。それは既存のコードに合わせるもの(当てに出来るものは初めからありませんでしたが)ではなく永遠に始まりがあるように毎日が新鮮です。
このような多様な試みのなかで、踊り手も舞台への対応の仕方を体で知ることになり、それらとの相乗関係から身体技術、演出法が開発されていきました。
近年では、舞台衣装の制作は生地の選定、採寸からの型紙作り、裁縫、染色まで私が担っています。
また、舞台でのヘアー・スタイルは鬘(かつら。時代性を意匠する二百三高地など)を被っていた土方時代とは違い、美容師の資格を持つ私の意見が取り入れられます。
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