21 「糸宇夢・しうむ」
友惠が当団体の主宰者になってから一年後には土方を遥かに凌ぐ作品(「糸宇夢・しうむ」構成・演出・美術・音楽:友惠しづね、振り付け・友惠しづね、芦川羊子)を「利賀フェスティバル」で上演し、彼の卓越した能力を実証しました。
この作品のモティーフは土方時代のものが多いのですが、友惠の奇跡的な身体、舞台創作技術と感性、世界観により土方舞踏を踏襲しながらも革新的に進化された舞台アートとして結実させることができました。
「利賀フェスティバル」は世界的に注目され、観客もプロが集まります。当然、ノルマも批評も厳しくなります。
結果、土方も私の名前も沽券が保てました。もし、この作品が出来ていなければ土方舞踏はその血脈を断たれていたでしょう。友惠は舞踏の精髄を受け継ぎ飛躍させた、
正
に奇跡的な存在でした。
友惠舞踏の特徴は妥協を許さない緻密な演出(=踊り手の個性を生かし切った振付け、美術、音楽、照明、音響の綜合的融和)によりますが、友惠による作曲音楽がその個性を惹き立たせます。「リズムは民族の文化的エレメントが地盤になるけれど、メロディーだけは個人のセンスね。だけど才能からじゃないよ。自分の美意識を信じ妥協しなければ誰でも自分独異のメロディーを引き出せる。誰もが同じ子守唄で育ってきている訳ではない」。
「作品は創作プロセスの上澄みだけ採れば良いの。残りの98%は捨てるの。誰もが安寧できる普遍的共通項は、その程度じゃないかなー」と云う彼の、既存のスタイルに依らない独自の作曲法に依る楽曲は、そのまま舞踏の作品構成とパラレルになっています。
土方の稽古場を出てから流浪の舞踏カンパニーであった私達は、友惠が主宰者になることで驚異的な速度でライブを展開することになります。資産価値云々に埋没する元藤や、土方の名前に縋ることで己のアイデンティティーを確保しようとする舞踏家やその取り巻き達は戦々恐々となります。私達が公演での実績を挙げれば挙げる程、彼等からの私達へのリアルなプレッシャーは尋常の域を超え続けていきます。
そんなことは何処吹く風とその年、私達はこの作品をもって山陽、九州の公演ツアーを行います。
「私の作品は一部の現代舞台アート・ファンだけを意識するものではない」と、同じ年、八王子の老人福祉施設でボランティア公演を行いました。「若い人が私達のために有り難うね」と、入居しているおばあちゃんからペコンと頭を下げられると、「気、使われちゃったよ」と、友惠は恐縮するばかりでした。そんな友惠に私達は自らの創作の方向性の確かさを見い出せる想いがしました。
しかし、ここに至る道には大変なドラマがありました。
富山県の利賀に、あと数時間で出発するという朝方までの、当時借りていた恋ケ窪の畑の中の稽古場で、それまで、まともに作品創作などした事のなかった私は友惠の最終調整の演出を理解出来ず、というより私を主演とするにも拘らず作品の全貌が把握仕切れないことから不安にかられ、クレームを付けますと、友惠は「煩いんだよド素人の分際で。だったら、あなたが作ればいいでしょ。我欲を掴んでいる手からは創造の神様は擦り抜ける。永遠に戻って来ない。不遜なんだよ」と、公演のために友惠が創ってきた作曲音楽の入ったカセット・テープを団員達一人一人に大道具で使うハンマーで割らせ、タクシーで目黒の自宅に帰ってしまいました。
私も団員達も茫然自失です。ともかくメンバーに、35万円で買ったばかりの中古ワゴン車に舞台美術などの積み込みをしてもらい、私は待ち合わせていた外部スタッフを伴って友惠宅に向います。一人で行ったら埒が明かないと思ったからです。
友惠のご両親は既に仕事に行かれていませんでしたが、友惠の部屋に入ると徹夜明けの彼は寝ていました。
外部スタッフが一緒だったことで、友惠も居住まいを正しましたが、「音楽テープも無いし、もう出来ないでしょ」と言います。
ところが団員は、壊れたカセットのネジを外し中のテープを取り出して、他のカセットのケースに入れ替えていました。壊す際も、皆慎重に、友惠の音楽テープは避け、効果音が入ったものをセレクトしていました(一人だけ無造作に友惠の作曲テープを選び壊した男がいましたが、彼は仲間からの信頼は一貫して得られず辞めていきます)。
これには友惠も苦笑いし、友惠より一回り歳上の外部スタッフの「一緒に行こうよ」との、こうした現場での局面に場慣れした口添えもあって、車での富山県までの長い旅が始まります。
皆寝ていないまま運転、よくぞ事故が起きなかった。きっと神様が守っていて下さったのでしょう。
「納得できる作品が出来なければ、死んだ方がまし」とは、友惠の創作における至上の理念。あまりにも純粋過ぎる狂気の赤ん坊です。
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「教授」、こと太田精二氏と友惠しづね |
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打ち上げではいつもセンターに |
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NYTimesを読む教授、英語の研鑽は怠らない |
ここで私達の舞踏カンパニーに欠かせない最重要のブレインを紹介します。友惠より17歳上の友惠の音楽ライブ時代からのブレインで、名前は太田精二、愛称は「教授」と呼ばれメンバー全員から慕われていました
初めて友惠から紹介された私は彼を見るなり、一瞬たじろぎます。小柄で細面、半分抜けかけた髪は耳を隠すくらいまで伸ばし(自分で、鋏で切っているようでした)、善良そうな人でしたが、笑った口元は茶色く
萎
んだ歯を3、4本残すだけで、異界の生き物を見るようでした。それでいてヨレヨレといいながらスーツにネクタイというスタイルは崩しません。
私も前衛アートに身を呈してきましたので、坊主頭や眉毛を剃ったり、奇抜なファッションをしている人達に囲まれてきましたが、教授は彼等とは違うんですね。自然体なんです
日本一単価が高いと自称するフリーの英語の技術翻訳者(コンピューターなど電機関係の研究者の海外への特許申請書類の翻訳)で、気が向いた時だけ仕事をするような悠長な生活を送り(ただし一度仕事モードに入ると鬼になり誰も寄せ付けません)、飲み歩くことが日課でした。雑木が生い茂った広い庭を見渡せる教授の部屋には聖書や哲学書が何百冊も押し込まれています
JR大森駅に隣接する「地獄谷」と呼ばれる飲屋街は彼のテリトリーの一つでした。そこには些か場違いの感もありますが若者相手のライブ・ハウスの常連客でもありました。女性に対しては小学生のように
初心
な教授は「接待で銀座のクラブ行くより楽しい」と、毎日ビール1ケースを客達に振る舞うのが日課でした
そんな教授のマンネリ化した生活を一変させる事件が起こります。そのライブ・ハウスにたまたま出演することになった友惠のギターのソロ演奏を聴いた時からです。
「一音聴いて分かった。天才だよ」。その瞬間から二人は親友になります。
元々モーツアルトをこよなく愛す音楽好きの教授、「俺ん
家
、片道1時間掛けて、しょっちゅう通ってくるんだもの」と、満更でもない友惠。教授の飲み屋のテリトリーは目黒も加わります。
「俺は友惠のマネージャー」と、友惠との都内のライブ演奏巡りが始まります。
当時、友惠はジャズの吉沢元治とデュオ・グループを組み即興演奏もしていましたが、「お前(友惠)は作曲の人間なんだからあいつとは付き合うな」と、酔っぱらった拍子に吉沢にもズケズケと意見を言い喧嘩にもなりました。
友惠を「日本で一、ニを争う」と絶賛する音楽批評家とも、誰が友惠のマネージャーかで悶着を起こします。
教授は友惠が付き合う人間は全てチェックします。後に私達の舞踏公演の際、プロデューサーとも揉め、間に入った友惠は「どっちを選ぶんだ、とか言うんだもん」と辟易します。私は、土方の後ろに隠れ多くの人間関係の駆け引きを見てきましたので、教授の追求をそつなく躱す手立ては身に付けていたようです
教授は友惠と私達との舞踏に関しても初めは怪訝さを隠しませんでした。「お前、何やってんだよ。音楽だけやってれば良いじゃないか」と、友惠を詰りますが、私達が借りていた国立駅から支線で一駅目の恋ケ窪まで、3時間掛けてバラック建ての稽古場(時間貸しですが深夜は使い放題)まで通うようになります。
何十時間も創作のプロセスに付き合い皆と一喜一憂していくうち、「芦川さんの踊りはどこをとっても絵になっているけど、動機が無い」「
宇受美
さんの踊りは観ていて有り難くなる」「彼女は優秀だけど、細いな」「彼は旦那振りたいだけじゃないのか(芸術やる必要はない)」と、教授の批評は断片的ですがズケズケと本質を突くようになります。
元々、舞踏は日常のコミュニケーション手段である言葉=脚本を主軸に成り立つ演劇と違い、踊り手それぞれによってニュアンスが異なる体を扱う抽象表現です。振付けに於いても単に形に収斂させられるものではありません。同じ振付けでも踊り手によって、その意味するところは全く違ったものになります。
友惠の稽古では踊り手が、それぞれの日常生活で無意識に身に付けてしまっている体の癖を如何に昇華させるかから始めます。稽古をしながら作品を紡ぎ出そうとする友惠の創作法は混沌とし続けるために、私達踊り手にも側で見守る教授にも先行きは全く見えません。「これで本当に作品が出来るのか?」と不安に駆られます。
作品のポテンシャルを担う多彩なエレメントを無作為に遊ばせ、潮時を見計らい一機に形へと収斂させる友惠の舞踏作品の創作方法は、「4、5分の曲を創るのに300時間は掛けていたから」という彼のギター音楽の作曲法と同じでした。
しかし劇場での公演を誰よりも緊張しながら観させられた教授は、「なんだ、友惠さんの音楽世界と同じじゃないか」と、私達の一番のファンになってくれました。
ともかく裏表が無い人です。
恋ケ窪の稽古場から利賀村、大阪、東北、オランダ、アメリカ、オーストラリアと何時でも私達と一緒にいることになります。
ややもすると過剰になる稽古での友惠を押さえるのも彼の役目でした。`89年、2回目の利賀村公演「一本の木の物語・皮膚宇宙のマグダラ」では宿舎で深夜まで稽古する友惠の怒濤を押さえ切れなくなった彼は、「俺は帰る」と憤慨し真夜中の利賀村から富山駅まで一人歩いて(いったい何時間掛かったのか?)帰ってしまいます。それでも2週間後には、「友惠さんよ、角を切って牛を殺すな」と、次の公演のための稽古をする恋ケ窪の稽古場まで再び足を運びます。「モーツアルトも滅茶苦茶だったからなー」と、苦虫を噛み潰す教授に私達は金銭的にも可成り厄介になりました。
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広い庭を見渡す書斎 |
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舞台仕込みを手伝うときもスーツ姿の教授 |
飲み屋で教授に接する人達は「歯、治せよ」と嫌悪感を露にしますが、本人は気にも留めず飄々としています。その内、皆馴染んでしまいます。
大田区仲池上の戦後建てられた200坪の今ではカビが生えたように佇む邸宅に、2人の妹と弟と住んでいます。「7人兄弟の内4人がいい歳して独身」と親戚からは笑われている様子。他の兄姉達は大学教授であったり、人間国宝の和装家に嫁いでいたりと、皆さんプライドが高いようです。
東大出身で某一流物産会社の副社長を父に、東京女子大学出の母親を持つ教授は、「歯が無いのに品があるな」と友惠が言うように、見てくれとは裏腹に何時でもエリートの品格を備えていました。「友惠さんよ、お店に入ったら男は帽子を脱ぐものだよ。帽子を被って良いのは女性だけ」。「家に居る時でもスーツは着てなくちゃ駄目だよ」と、身に染み込んだ上流社会の生活を匂わせます
友惠と教授、2人は飲んだくれの盟友でした。宗教や哲学の話が酒の摘みでした。
「もう一軒行こうか」と私と3人飲み屋の席を立ち歩き出して、初めて気付きました。教授は片足を引き摺っていたのです。「小学校から、これで虐められていたよ。体育の先生からも皮肉を言われた。中学には一日も行っていない。大検(現在の高卒認定試験)を独学で受けたけど、その時一教科だけ落ちたのが英語。それで英語だけ猛然と勉強して理科系の大学に入ったの。登校拒否児のはしりね」。
私は教授の歩き方を模写してみます。土方舞踏にも障害者を模写した踊りがありますが、それとは全然違う。歩いてみると内蔵に強い刺激がくる。肉体的負荷は尋常ではない。あー、この人の強靭さの源は、これなんだと思いました。教授は「友惠しづねと白桃房」の名実ともに一員でした。
2009年、終の住処と定めたタイのチェンマイに借りた一軒家で、翻訳の仕事はネットで出来るからと、悠々自適に暮らす予定だったのですが、引っ越して直ぐに癌が発見され亡くなりました。寂しい限りです。
22 東北というモティーフ
1972年、アートシアター新宿文化(映画の上映が終わった夜、小劇団に貸し出された仮設劇場)で行われた公演は、照明、音響等の機材も完備されているとは云えず、舞台美術の仕込み時間も極端に制限されていましたが、その場から引き出される即興性と出演団体の情熱が、’60年代の冷めやらぬ新宿の熱狂と合いまって、マイナーの舞台アート界に一つのムーブメントを起こしました。
当時はアメリカのカウンター・カルチャーやニュー・シネマなどの影響から性の開放に若者の関心が集まるなか、女性の裸の意匠も手伝ってか土方舞踏も注目を集めます。
この成功が切っ掛けとなり、商業劇場からの公演依頼を受けることになります。
「東北」を謳った新宿での公演は週刊誌、美術、文芸誌で喧伝され、翌年、盛岡で「東北里帰り公演」として上演されます。東京で話題になった公演に観客は期待しますが、これが全くの不評に終わります。観客は、そこに自分達が生活する地元文化としての「東北」を見出せません。
土方もそのことを感じていたのでしょう。盛岡行きの前日、酔っぱらい管を巻いた土方は目黒警察署に留置され、驚いて駆け付けた私達でしたが、解放されたのは明け方でした。予定の電車には何とか間に合いました。
アートシアター新宿文化公演では、舞台の仕込み時間に制約がありましたので、舞台美術としてニンニクを吊るすなどしていました。
それは当時の新宿の観客には、土方が寒村として表徴する「東北の呪術的文化」を表象する意匠と捉えられもしましたが、西洋のある地方ある時代の魔除けのための風習(具体的にはドラキュラ封じを連想させた)だということは皆知っています。同じ風習が「東北」にもあったのかと、観客は元より私達も思わされます。東北といっても広いですし、土方と私達は世代も違いますから誰も検証する人はいませんでした。
後年、私達「友惠しづねと白桃房」の東北ツアーを行った時には友惠の作品は、何処でも好評を博しましたが、その折、当時の地元のプロデューサーから「土方さんのは東北じゃないよな」と、苦笑いされました。
友惠は「特に現代アートはモチーフの誇張、デフォルメは一つ方法論だけど、誰も見ていないからといって、あまりメチャクチャやるとね。現在まで欧米で日本文化の表象として表現する舞踏家の殆どの作品は、日本人から見たらアイデンティティーなど感じられないというのと同じ」と。
23 西武劇場公演の失敗
1973年、渋谷公園通りの渋谷PARCO内にある西武劇場(観客キャパシティー400人)の公演では、雛壇にせり上がる客席と広い舞台はプロセニアム・アーチで分断されています。空調システムも音響、照明システムも一級品が完備されています。
いざ開演してみると、しかし、ここではアートシアター公演のようなムーブは起きません。
新宿の映画館の仮劇場公演の時のような舞台と客席の一体感が醸せません。
舞台上は近代空間に嵌め込まれるように箱庭的で何かよそよそしい。その舞台に向き合う客席に座る観客は固まってしまっているように感じました。
出番待ちの土方は舞台袖で青ざめて立っています。
舞踊批評家の市川雅氏は、その著作『舞踊のコスモロジー』で「(その公演が)よそよそしさを感じさせたのは、劇場がモダンであったからの様に思えてならない。・・・観客は坐り心地よい椅子に反応の端緒を失ったかのようであった」と書いておられますが、完全に失敗の公演でした。
終わってからが大変でした。それまでの公演では招待券を無造作にばらまいたりと、マネージメントはだらしなかったのでしょう。劇場側との金銭精算では随分とごたつきました。元藤が経営し私達踊り手が微々たるギャラで六本木、赤坂と掛け持ち出演させられていたショーダンス・クラブへ、違法風俗として警察の立ち入りなど問題が起こると元藤は逸早く雲隠れします。その時も同じでした。プロデューサーを自認していた元藤とは連絡が取れませんし、土方は只そわそわするだけで、残された私達踊り手と劇場側の経理担当者は途方に暮れるばかりでした。
土方舞踏にとっては、今風に言うならメジャーデビュー(舞踏を一般客にも承認されるアカデミックなアートとする)の切っ掛けになる筈だったこの公演の失敗も影響してか、それ以後、土方本人は舞台出演から退きます。
そして舞踏の踊りとしての振り付けを確立しようと、古巣の歌舞伎町の小劇場(雑居ビル内の小さな映画館。観客は殆ど数人。公演?のインターバルには馬のファック・シーンの映像を流していた)に戻ります。しかし、これでは埒が明かないと、公演場所を経費も掛からない稽古場に移すことになります。
24 汎用性が効かない舞台公演
土方舞踏のメソッドと云われるものはキャパシティー50人程の稽古場に舞台を設置した仮劇場で培われました。稽古は勿論、公演もここで行われました。
建物の外観は普通の二階家と変わりません。普段、土方はここの二階に住んでいます。私達団員は一階の小部屋に寝泊まりしていました。
借り小屋ではないので稽古や公演の準備は昼夜を問わずできました。元藤はそんな私達の生活を見て、「寺子屋みたい」と笑っていました。
舞台は客席と床続きの奥行きは二間程(一間=180cm)、間口は壁から壁まで三間で、照明設備も音響設備も民生用の簡易なものでしたので、その場に居合わせた素人スタッフでも操作出来ました。公演本番中、土方は彼等の後ろに立って、こづいたりしながら指示を出します。今ではとても考えられませんが操作はアバウトなものでした。
舞台美術は低い天上高に合わせ一間物のパネルを並べただけのものでしたが、時間制限もありませんので設置の仕方も納得のいくまで置き換えることができました。
その場所で衣装も自分達で作り稽古もし食事も酒宴もし雑魚寝もします。踊り手の体は自然と場に馴染むものとなります。
しかし上演する現場でつむぎ出された創作方法は、逆に云えば現場から措定されていることになります。劇場図面を介してのシミュレーションを必要としませんし、劇場別に設えられている照明、音響設備への対応も考えなくて済みます。
それまでの実験性にとんだパフォーマンスから即興性を排除した舞踊としての新たな形を確立したかに思われましたが、他の劇場での汎用性が効かず、後々まで手痛いしっぺ返しを喰らい続けることになります。
土方舞踏の上演での失敗の原因は、友惠しづねが土方舞踏の創作構造を根本から検証し直し、独自の創作法で構築するまで、誰も気付いていませんでした。土方も私も、取り巻きのブレインや批評家達も。俄団員達も直ぐにその気になるので、使い勝手は良かったようです。
「成功した時ほど反省が必要なの、油断が生じるからね。例え素人相手とはいえども舞台上演で矢面に立つ踊り手達を作品の駒として効率良く使うために、アーティストの名称を山車に彼等を騙すなどは、もってのほか。碌な稽古もさせないで。
人誑
しの手管は詐欺師と政治家に任せておけばいい」と、土方舞踏の構造を唯一知悉する友惠の批評は容赦がありません。確かに当時から「土方の踊り手達は猿回しに廻される猿」と揶揄する人も少なくありませんでした。
友惠の踊り手達への稽古の厳しさは土方とは次元違いでした。言葉だけで舞踏を弄ぼうとする者の中からは批判も起きます。
「私は創作に於いて、自分を押し出したことは一度もない。小手先の小細工で人生を丸め込もうとしたところで、何がどうなる訳ではない。世界で一つしかない己自身の体を
識
れ」。この理念に基づく実践により友惠舞踏は他とは隔絶した存在となります。
25 生い立ち
友惠は物心付く前から喘息持ちで、同居する母方の祖母が下半身不随であり、二人とも医者を
盥
回しにされますが治らない。母親は祖母の介護に明け暮れ、虚弱児の息子に対面させられ情緒不安になります。
戦後、産業構造の変化により地方の労働者が都会に雪崩れ込みます。地域社会に根付いた彼等の宗教的アイデンティティーの代替機能を担うものとして新興宗教が興隆します。
茅ヶ崎の住まいを、同居する兄弟が賭け将棋で盗られ、一人娘(母)を連れ東京に出て来た友惠の祖母は買い出しの仕事(中央線で山梨の農家に携えて行った着物などと交換した食料を売る)で目黒に住居を構えます。母は近くに鋳物屋を経営し始めた父と結婚しますが、程なく祖母は働き過ぎから倒れ、生まれた子供(友惠)は虚弱でした。
友惠が物心付く頃には母親は宗教の熱心な信者になっていました。友惠の母親が信心する神道系の宗教は、国家神道の三種の神器の一つをモデリングした丸い鏡を本尊とします。具体的な問題解決法はお祓いに依ります。
病気治癒を契機として入信する新興宗教の場合、セカンド・オピニオンは禁忌とされます。改善のためには信仰量(分量)が正比例するとされ、病の原因は文学的な因縁説に還元されます。治療には保険も効きませんので多大な経費(友惠家の場合、家が2、3軒建つ程)が掛かり、先生と云われる沢山の他人(神々)が家に出入りするようになります。因縁説によりヒエラルキーは絶対で、下の者は権威者を無条件で受け入れることに喜びを感じます。信仰の度合いは上納金の額により査定されるようでした。「金銭的欲望と自己顕示欲を大罪と信じるうちの母親などは、近所からは神様みたいな人と言われて嬉しがっていたけど、桁違いのお人好しなだけ。付け込もうとする輩も出てくる」。
神聖なイベントは同調意識を高めるための酒宴(神道では踊りと酒は儀式に欠かせないアイテムとなっている。)を伴い「節約と布教」を題目として喧伝します。「上部教会の会長の子供は大学に通うのに、下のそれは定時制高校。上が信仰の手本を示したいのなら、この関係は逆の筈」。
友惠は、同時代の演劇家、舞踊家からは胡散臭い(時にはカルト集団とも看做される)と揶揄されながらも、ニッチではあるがアカデミックな評価を受けもする前衛アート・土方舞踏の公演(=儀式)と打ち上げでの盛大な飲み会(=布教)と、新興宗教のそれとはパラレルにも感じられると言います。
全身白塗りメイクによる裸の男女による異様なパフォーマンス。それを特等席で観る先生と呼ばれる文学者達(今となっては殆どアナクロ的存在)を交えたサロン的な打ち上げパーティー。一見、皆が同調しているようで先生方には優待室が用意されている。その経費は先生方が浸る特権的ヒエラルキーに憧れる無名の踊り手達を体よく扱う(ショークラブでの搾取労働)ことで捻出します。そして、アート系雑誌等で祀り挙げられるのはいつでも決まった人物。
土方は陰でブレインに言います、「才能だけは教えられない」と。その刹那、彼の提唱した「秘伝の舞踏メソッド」は詐欺の手管となり果てます。「そう思うのだったら本人に直接言う方がどれほど親切か。どんな人でもやり切り尽くせば、その人なりのものはできるんだよ。ここから生まれた技術って結構、怖いよ」と、友惠。
欲に翻弄され有り金残らず
注
ぎ込んだ一般投資家=末端信者は引き時を忘れます。ファン層の拡大=布教はモードに過敏に反応する資質=宿命を持つが故に個々人の自在な選択に依る個性の本来性の確保に不安を感じる者=身動きの効かない手近な病人に向けられます。現代資本主義社会の象徴的な縮図を表象する一つの事象とも捉えられます。
「元々、アートの目的は人生とは何か?如何に生きるべきか?という、それぞれの個に直接関わる問題を契機に始まった筈だけれど、輸入物の個の概念は日本人のそれとは根本的にズレ続けている訳だし、グローバル時代の他文化とのアンサンブルという課題が入れば一様にはいかない。これは現代人が備える一つの普遍的な問題であるだけに、多民族、多国家の文化間に恣意的に付けられたヒエラルキーの間隙に付け込めばアートの商品化も難しくはない」と友惠は言います。
しかし問題の焦点は、病人の病気が治るのか=個々それぞれの人生が担う課題に対処出来るのかに当てられるべきです。
「お祓いでは病気は治らない」は、友惠の切実な言葉です。しかし、その切実な事実を主張しようものなら当のネットワークからは浮いた存在になり孤立感を味あわされることになります。
母親は
褥
にのたうつ友惠に投げつけます、「あんたなんか、(喘息の)発作が起きて当たり前なのよ。神様は全部観てるんですからね、ならない方がおかしい」と。大罪悪人にもされ兼ねません。
確かに、今は昔、キリストのように死人を生き返らせる超能力を持った人間がいないとは言い切れない。しかし、免罪符を貰ったからといってその能力は誰しもが身に付けられるものではない。現に友惠の持病は治っていない。「舞台でキリストを演じる土方を大の大人が祀り上げるのは、戦後の日本文化の空隙の為せるわざ。土方本人は『俺は不死身、千里眼』とプレゼンテーションしていたにも拘らず、深酒が原因で57歳という若さで亡くなっている」。
何時でも体を媒介にする友惠の、人生観とアート観はパラレルなんです。騙しようがない。
「高校生の夏休みには宗教の10日間の合宿に行かされてね。宗教組織が経営するスポーツで名を馳せる高校・大学(特に高校野球とオリンピックにも出場者を送る柔道)は全寮制で、夏休みに空いた彼等の寮に全国から信者の子供達が集められるの。神話に類する教義と儀式での音楽と踊りを教えられる。最終日には1時間程ある踊りの試験が行われる。日々、家庭生活の中で慣れ親しんでいるとはいえ、殆どの人は踊れない。ところが、試験となれば皆、ムキになって練習するの。試験制度による学育の
性
だね。
高校生くらいになると、リーゼントで突っ張ってる奴もいて、そいつが喫煙を見つかると、夜中に参加者全員、廊下に正座させられてスリッパだけど頬を
叩
かれる。要するに白けた演技をする余裕は与えられないの。頬を叩いた当の教師は、宗教団体が経営する大学の応援団長だった硬派だけど、自腹で全員にアイスクリームを奢る捌けたところもあり信奉は得ていた。悪い人じゃないのは皆、知っている」。
地方から集まり一緒の部屋で同居させられた即席メイトに友惠は「この宗教、信じてるの?」と疑問を投げかけます。「信じてないよ」と言います。「だったら辞めるの?」との友惠の素朴な問いかけに皆は顔を見合わせながら「いや〜」、「どうして?」、「家族皆やってるし〜、怨念というか〜」。文化の継承は言葉では収斂できない生活感を伴った身体感覚に依るのでしょうか。
その宗教儀式の踊りは唄が伴いますので、振付け法は日本舞踊に類する「当て振り」(言葉に合わせて形を造る)です。ところが、同じ振付けの踊りでも、それぞれ体から放たれる質感は全く違って観えます。習慣化した形とされた踊りはよそよそしく感じられますし、一振り一振りに想いを籠めた踊りの重圧感は恐ろしくも否定出来ない親和感を備えます。踊り手それぞれの信仰心の度合い、個々人のキャラクター、日々の生活の差異が如実に反映されます。これらの個性のバラツキが群舞(イベントの規模により数人から数千人)では、拍子木、笛、太鼓、
摺鉦
、三味線、琴など雅楽を基にした音楽の培養作用により力強い統一感を発揮し、信者のアイデンティティー生成の源となります。
しかし如何なる組織=業界でも、ある規模を超えれば個々人の文化意識の純粋性とは別に政治、経済が絡んできます。金を出す人、貰う人。尊敬する人、される人。与えられたポジションの違いは明確なヒエラルキーに組み込まれます。その構造に誰にも理不尽さを感じさせないことが安定した社会システムの持続には欠かせないエレメントとなるのでしょう。
友惠は言います。繰り返しになりますが「上の教会の子息は大学に通っているけど、小さい教会の子供は夜間高校に行っている。そいつ他人に対して微細な気遣いできて優しいんだけど、いじましくて可愛そうに想えてくる。それでも、そいつは信じている。実は信じているのは宗教じゃなくて親なんだよね。人が集まれば組織ができる。組織ができれば運営効率のためにヒエラルキーができる。下の者は損得勘定を考える余裕が与えられない。社会とはそうしたもの」と。
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