6 舞踏の二極化
舞踏の文化的ポジションがメジャーとマイナーに分かれたこと、それ自体はけっして悪いことではないと思います。アートはそれぞれの生き方、思考、感性に直結した表現をモットーとします。しかし、これは人間のサガなのでしょう。ここに社会的、金銭的な欲も絡んできますと、時には醜悪劇が演じられますが、それは私達が日々生活する中で起る自然なことで、私は必ずしも否定されることであるとは思いません。
しかし、現実は足の引っぱり合い、潰し合いになることもままあります。ある人は「純粋芸術である筈の舞踏は商業主義に堕した」と非難します。
幸い土方舞踏は業界では有名ですが、一般には知れ渡っていませんでした。非難の矛先は彼には向かわず、彼に今後の舞踏界の行く末を嘱望する声は高まりました。また土方もそうした人達を取り込もうとします。若手の舞踏家の家にも泊まり込みで出向いたりしました。土方だけを信じて踊ってきた私には他の舞踏家達に色目を使う土方には反感を抱きもしました。
雑誌にコーナーを持つある批評家とは酒浸りで何日も稽古場に戻らないこともありました。相手は気分も良いでしょう。
「土方は一見、尊厳を持った舞踏の元締め然を装っているが、実はフットワークの良い一流の営業マン。当時20歳代だった私にも向かい合う互いの目の距離3cm、鼻を私の顔にくっ付けて肩に手を回しながら話してくるからね。他人への気遣いは尋常じゃないほど繊細。あくまで人の中で生きるのが好きだったんだろうね」と、友惠。
酒席での過剰な営業が、程なく祟ることになります。
7 舞踊批評家 市川雅氏
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講習会での市川雅氏 |
舞踊批評家の市川雅氏は、日本の舞踏関係の批評家の中ではロシア・バレエのニジンスキーの著作を翻訳され、欧米の劇場公演を幅広く見聞するなど、舞踊に対して広い視座を持っておられた方です。
また、これは舞踊界だけではないでしょうが、接待されて当たり前という日本の批評界の中でも、真摯に舞台アートに向き合います。例えば、営業色を含んだ御中元、御歳暮は、「迷惑だ」と嫌っていました。
遠くて悪いということからお誘いしなかった私達の地方(名古屋)公演にも自腹で来て下さいました。
蛇足ですが、私達の大阪公演にある新聞社から紹介された舞踊批評家を招いた時に、新幹線のグリーン席を要求されたことがあります。
地方公演の経験がない私には分からないことでしたが、地方で活動する舞踊団が東京から批評家を招くための接待の一貫としては舞踊業界の常識のようでした。私にしたところで金稼ぎのために派遣されたショーダンスの仕事でも特急料金を浮かせるために夜行列車で移動させられていましたし、グリーン車に乗ったことなど一度もありません。また、劇場側のプロデューサーも了承しませんし、お断りしました。それを考えると市川氏は異例中の異例の方でした。自分が心酔し愛した舞踏を、世界の中でどうプレゼンテーションしていくかに心を砕かれていた方だと思います。
「市川さんは舞踏関係者の中で唯一、グローバル指向を持っていた人だね。フェアーだしダンディーだしね。尊敬できる人」と、友惠は言います。
市川氏は「大野さん(舞踏界の最長老)はもっと舞踏界全体のことを考えて欲しいよ。海外のオペラハウスでの公演(出演者は息子さんと二人)を50万円で受けて貰っちゃ、それが舞踏のギャラの基準になって、大人数を抱える舞踏団はとても採算がとれない」。
舞踏界の長老・大野一雄さん(2010年103歳で亡くなる。晩年は車椅子に乗って踊っていた。)には全く悪気がありませんし、主催側に対しては良心的であることは分ります。
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大野一雄氏(右)と友惠しづね |
体一つ運べば、舞台美術も技術の専門スタッフも必要としない即興舞踏を謳う舞台システムならば、年金生活者である彼は金銭上で負担が掛かることもありません。
それを基準にされたのでは衣装、舞台美術、スタッフなど大掛かりになってくる舞踏団では、その経費は全て持ち出しとなってきます。ギャラでのペイなどあり得ません。国、メセナの基金を利用できたとしても交通費、宿泊費のみ。制作費は出ません。現に、私達「友惠しづねと白桃房」の初めてのニューヨーク、ロサンゼルスの公演では援助もありませんでしたので、公演は成功したとはいえ数百万円の赤字を背負うことになります。これには舞台美術製作の経費などは一切含まれていません。
舞踏界では、そんな公演運営の基本が分っている人は市川氏しかいなかったのではないでしょうか。世界の舞台アート・シーンの中での舞踏界の行く末を本気で考えていたのは彼だけでした。
そんな市川さんも、NHKテレビでの舞踏解説者に選ばれたことで他の舞踏批評家達の妬み嫉みを買うこともあり、「(良かれと想い)何か一言喋ると責められるんだよ」と、ゴールデン街で苦笑いしながらも悲しそうに友惠と私に愚痴をこぼします。
「あなたが一時期、寄宿していた田舎の農場の舞踏家(田中某)のやり手女マネージャーも結局、(舞踏界のことではなく)自分達のことしか考えてないから」と、悲痛な面持ちで、無くなれば勝手に注がれる焼酎の杯数を気にしながら、私達に語りました。
当時、舞踏界に世界の舞台アート市場と、その中での舞踏のあるべきポジショニングへの見識を持った人がもう少しいたら、公演運営、ひいては今日の舞踏というアートの本質的価値そのものの在り方も変わったものとなっていたと思います。
市川雅氏は1997年に鬼籍の人となられました。
土方が亡くなった際、土方と大して関わりのない舞踏家達が、自身の公演のプレゼンテーションとして「土方追悼」と謳うことで、見え透いた宣伝効果を狙う人は後を絶ちませんでした。人の死という尊厳に献じられたパフォーマンスは、批評も緩くなります。
私達が公演で追悼として名前を出させて貰ったのは、市川さんだけです。
「皆、追悼として土方の名前を出すのに、あなた達、何故出さないの?」と、市川氏は友惠と私にニヤッと笑いながら訊いてきたことがあります。
友惠もまた少し首を落としてニヤッと笑うだけで、何も答えませんでした。市川氏は茶碗に入った焼酎のお湯割りをゆっくり嘗めます。
私が子供の頃から住み(花園町)、私が裸で出演した土方公演を観に来た美術大学の友人から「あなたとのお付き合いは止めさせてもらいます」と言われながらも毎日踊っていた新宿(歌舞伎町の雑居ビル内の
萎
びたピンク映画館)。時は経ましたが、その日の私達の新宿での公演の打ち上げの席でのことでした。
「彼は礼節とは何かを
弁
えている」と、友惠は一人微笑みます。
8 出発
海外で舞踏が注目されたことにより'85年東京で開催された「舞踏フェスティバル」。このフェスティバルに土方舞踏は参加していません(弟子も集まっていませんでしたし、公演のための準備も間に合いませんでした)が、土方はヨーロッパ公演の失敗から日本での地盤固めに奔走しようとします。
西洋にへつらってまで成功したくないと闘志を燃やす海外進出に乗り遅れた舞踏家達や、日本発の舞台アートでありながら海外の文化批評シーンにはポジションを持てない日本の舞踏批評家の中には、舞踏の提唱者・土方に寄り
縋
ろうとする人が彼の周りに蝟集してきます。
土方自身も舞踏本家としての沽券を守るために彼らを取り込もうとしますが、両者とも焦りと欲の狭間で右往左往していると私には感じられました。
海外での成功組の中には、舞踏の在り方が大きく改変しようとしている状況を受け入れきれず、過去のコードにしがみつこうとする村社会的な日本の舞踏界と意識的に距離を持つ者も出てきます。
ある成功組を賞賛した舞踏家が同僚達の前で彼らの公演パンフレットを破らされた、などという話も伝わってきます。当時、舞踏公演でパンフレットなど作る人はいませんでした。商業主義の象徴と捉えられたのでしょう。
欧米のオペラ・ハウスではチケットも入手困難という者もいるなか、かたやコピー紙の宣伝ビラで観客動員数一桁という舞踏家も少なくなかった状況です。
公演に企業メセナ、各種の助成金が付くかどうかも大きかったと思います。
現在の私達の団体も発足当初、実績もありませんので海外公演では助成金など当てにできませんでした。団員達の日々のアルバイト料と、足りない分は私と友惠と数人の団員の家族からの数百万円の借金と友惠の音楽活動以来のブレインからの融資で賄いました。その活動の成果が以後の公演のオーディションともなり私達の海外での活動の契機にもなりました。
当初、友惠は舞踊団の公演開催のシステムなど全く知りませんでした。作品創作に関しては天才でしたが、金銭の動きに対しては別問題です。劇場の賃貸料、スタッフのギャラ、顎(食事代)足(交通、宿泊)はどのように捻出するのか?
本来なら、その道で20年活動している私がリードすべきところですが、私にしたところで、土方の公演への出演料はおろか講習会で教えても、土方からは一銭も貰ったことはありません。お金のことには無頓着でした。好きな踊りのためならば、その場さえ凌げれば良いと想っていたアートへの純粋さを、六本木、赤坂にショークラブを経営する土方の奥さんにいいように廻され搾取されていたことを後になって知ることになります。土方が亡くなり稽古場を出ることになった私には貯金が一銭もありませんでした。風呂も無くトイレ、流しが共同のアパートの敷金は親から貰いました。
海外公演では契約書の知識も必要になり、会社組織にしろとかマネージャーを付けろとの助言を親切な人達から頂きました。
ハーバード・ビジネス・スクールのMBAを取得しビジネス・コンサルタントをしていた友惠の弟さんには、よく相談に乗ってもらっていました。兄弟ですから容姿は友惠とそっくりでしたが、いつでも姿勢を崩さず私達にも毅然と向き合ってくれました。しかし言うべきことはしっかりと言い切ります。「兄貴な、人に相談するのに酒飲んでるんじゃないよ」。時々険悪なムードになりますが、私達には微笑んで接してくれます。何か問題が起こると、「弟さんに相談してみたら」がメンバーの合い言葉になっていました。
弟さんは「マネージャーなんか幾らでもいますよ。ただ、使われちゃうよ。皆さんの直向きな個性を生かすためにはマネージャーは内部から出した方が良い。だいたい兄貴は、どんなマネージャーが入ってきても喧嘩するだろ」。とは言われても何もかも切り盛りできるような優秀なメンバーなどいません。それに、皆、踊りたくて一緒にいるのに率先してマネージャーをやりたいなどと言う人はいません、・・・責務も重そうだし。
「あいつはねー、大企業相手に商売しているだろ。零細企業で働く人の、心を知らない」との友惠の言葉から、やはりこの人は弟さんの言う通りの人だとメンバーは思いました。
友惠は何事も情で動きます。その資質が作品創りにも直接反映されてくるので、皆も安心できます。友惠は絶対に人を裏切らない。ですが実情を打開する解決策は?
そこで捻り出した案が「節約」です。
シェアハウスという発想もその一つです。「皆、一人一人アパートを借りているけど、それぞれ冷蔵庫、電子レンジ、バス、キッチンを人数分備えている。これが皆で一緒に住めば、キッチンは一つ、冷蔵庫は人数が多いから2ついるとしても電子レンジも一つ、洗濯機もあればコインランドリーに行く必要も無い。風呂屋の時間を気にすることも無くなる。一緒にいれば稽古も何時でもできるし」。
当時は携帯電話も無かった時代です。それぞれ住む処が違うメンバー間の連絡網では公民館の一室など、その都度違う貸し稽古場に集まるのも一苦労でした。
友惠の発案によって私達の生活は余裕もでき、40万円の中古ワゴン車やコピー機まで買うこともできました。ファックス付きの電話もあります。これで、やっとカンパニーとしての体裁を保つことも出来ます。私だけではなくメンバーも皆必死でした。
9 舞台美術製作の内情
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板戸の美術 |
私達の初めての海外公演('89年、オランダ)では、それまで日本の公演ではワゴン車で運んでいた一間もの(高さ180cm)の美術パネルとして使っていた板戸20数枚の空輸費が300万円掛かったのにビックリした友惠は、その後、持ち運びの良い布製の美術を考案します。
「これだと、分解して運ぶと手荷物扱いになるからね、料金は格段に安く済む」。また、舞台の天井高がまちまちな劇場にもその都度、対応が効きます。どんな劇場にも1パターン、一間物の美術パネルで押し切っていた土方のヨーロッパ公演の失敗を
生生
と想い起こさせます。
友惠舞踏では踊り手それぞれ日々変わる体の質感と美術を同調させるために、一つの公演のために掛ける時間の手間暇は土方時代には経験したこともない膨大なものでした。とにかく、細部の細部まで納得いくまで無制限に続きます。
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染め直した百枚以上の着物のかさねを
調整する友惠しづね |
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酸で処理し、墨染めにした美術幕 |
この布による美術製作には幾つかのパターンがありますが、例えば百枚以上の和装着物を一度脱色し、染め直した物を友惠が踊り手それぞれの体と音楽、照明に合わせてレイアウトします。振付けと美術幕のディテールは稽古の度変わります。
この美術幕の重さは500kgを超え、これを20数個に分解して、それぞれ専用に作った袋に詰めます。空港まで迎えに来てくれた現地スタッフのワゴン車にもスッポリと収まります。
飛行機会社がメセナになってくれた時はタダで済みましたが、そうでない時でも輸送費は50万円で挙がりました。ただ、布製の美術の場合は防火処置が必要になりますので、それには50万円必要となります。
私達の公演ではいつも前日まで稽古するために、輸送費は安くなりますが現地に着くまでに3ヶ月以上も掛かる海運ではなく空輸が必須となります。
「舞台美術は何も喋ってはならない。あくまでも音楽や照明と一緒に佇みながら、踊り手それぞれの体の個性を引き出させなければいけない」と、友惠は言います。まさに踊り手の体に合わせたオートクチュールです。「一般の美術作品はそれ自体単独で成立しますが、舞台美術の場合は、そこに踊り手が入ることでシーン毎に多彩な景情を醸すことが求められる。美術だけで完成してしまっていると踊り手は入れないの」。
私は土方の「肉体の叛乱」(1968年)の時に関わった美術家・中西夏之との製作プロセスを思い出しました。美術家は言います「ああしよう、こうしよう」と、自身のビジョンを出してきます。ところが、彼のアイディアが実際の舞台で使えるか?美術作品としてはご本人の沽券を示すものでしょうが、舞台美術としては使えない。
そこで土方は「サックスって楽器あるよね。それを開いたらどうなるの?」、中西は「真鍮板です」と答える。「だったら、それで良いんじゃない」と土方は言う。それが、そのまま舞台美術として使用された訳ですが、これは私が日々働いていたショークラブでの演出の一つでした。真鍮板に当たったライトが乱反射し狭い店の中ではその光が客にまで被りスリリングなショー効果を生み出します。
しかし中西としては「土方に廻されているだけ」と、面白くない。公演が成功したからといって済むことではありません。陰湿な人からは一生恨まれもします。
10 土方の死後、問われる体の品性
商業舞台が必ずしもアートではないと言い切れないことは瞭然ですが、反目する人達が多かったことも事実です。
舞踏のシェアが海外に広がることで、それまで東京の一部の愛好家達による居心地の良いマイナー・アートであった舞踏の温床が壊れ出しているとは私も感じました。
舞踏公演は出費が嵩むだけのものでしたが、誰も金儲けのことなど頭には無く、私なども清貧に浸ることがアーティストとしての意識を高める手段だと思っていました。
ところが舞踏がポピュラー・アートになると状況は一変します。公演も大規模になれば経費も桁違いになります。大劇場になれば舞台美術も大掛かり(これは一概には言い切れませんが、現代アートとして舞台美術のプレゼンテーションをする場合、小劇場で同じことをやっても同じ様なインパクトは得られません)になります。資金繰りにこそ目がいきます。そんな中、野心的なマネージャーを付け、青山に事務所を構えTVコマーシャルに出演する者も出てきます。
メジャーとマイナー、激変する舞踏界の地図の中で、土方亡き後、創始者としての土方の名前を前面に祭り上げた元藤と、彼女の夜の商売に忠犬のように従う事務員の立てた企画には捏造した土方印のマークを誰彼構わず大判振る舞いするような、その無謀さにも関わらず舞踏家としてのアイデンティティーを安直に確保するためか、参加する者(元々アートの動機を他人の褌で賄っていた故に自力では廻れない)も少なくありませんでした。
私達は稽古場も無ければ作品もない。私自身営業もしたことがないのにマネージャーもいない。金銭的余裕など全く無いところから立ち上げています。
土方の直接の弟子であった私達には常に彼の名前が付きまといますが、それを利用することを心良しとはしませんでした。
多くの舞踏家が、自身の正当性とプロモートのために安易に「土方追悼」と銘打った公演を開く中、唯一土方舞踏を継ぐ私達は、一度も行ったことはありません。
何故なら、私達は志半ばで逝った土方の舞踏の夢を実現する、未だ渦中にいたからです。
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ハイハイ子供の踊り |
当時の私から見れば、純粋無垢を絵に描いたような友惠は、「(土方の名前に頼る)彼らの体には品性がない」と、「生きようと思うから駄目なんだ。死が無い生き方は、しがないね。死は初めから皆に連れ添っているのに」と。「例えば、私達にはハイハイしている子供の踊りってあるよね。傍から見ていると可愛いけれども危なっかしい。野生の動物だったら、この頃が一番死亡率が高い。幼子の場合は死は外にあるけど、自意識が生まれると内在化してもくる。思春期の子供達が自殺するなんてあっちゃいけない。彼等は死という概念の扱い方を知らない。遊び方を体で提示しましょうよ。そこに興が産まれ、和が育つ。これがアーティストを目指す者の使命。
記憶はいつでも体を伴う記憶。それが思い出になる時、生に適合するように変質する。
極端な場合、苦痛も快楽に。実際は、両者はいいように浸潤し合い引き出しに収められる。この引き出しの数が多い程、引き出した時、組み合わせも多彩なバリエーションを持てもする。これを統制する目を備えれば特に体を資本とするアーティストは面白いよね。統制する目が不十分だと、もしかしたら地獄。だけど、その苦しみが臨界点に達すると、冴え冴えとした天国にも」。
友惠は生来の喘息持ちです。一日三回の薬を飲み忘れると即、発作が起きます。稽古中でもスプレー式の気管支拡張剤を何回も吸い込みます。
息子の病気を治すために新興宗教に埋没する母親からは虐待を受けます。「あんたは喘息になって当たり前。神様は全部見ているんですからね」と。
「ある状況に追い込まれた人にとって宗教というのは怖いね。目的と手段がいつの間にか反転するから。病気を治すという目的のために信仰した宗教は手段の筈。それが本人も気付かないうちに信仰が目的になって、治すべき病気は信仰を深めるための永遠の手段になる」、「私にとっての神様は人間と等身大に近いお地蔵さんがいい」、と。
この友惠の体からの叫びが後年、国内外のフェスティバルで絶賛されることになる、地蔵と迷子になった鬼の子供をモチーフにした作品「
蓮遥
」を導きます。
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