46 東洋的母性
友惠は舞台美術家を育てようとした時期もありましたが、土方の「才能だけは教えられない」との言葉の重さに阻まれました。舞踏には観念を先行させたポップ・アート系で事足りると思う者も多く、手間が掛かる仕事は毛嫌いします。言葉だけは達者ですが、多様な舞台エレメントとの複雑な調和の中で担うべき舞台美術を創れる者は一人もいないことを知ります。コンセプトも技術も雑なんですね。結局、友惠は自分でやる他なくなります。
土方の舞台美術は一間(高さ180cm)物のパネルでした。友惠もその形を踏襲しましたが、上演する劇場が中大ホールと多彩になりますと寸法の決まったパネルでは対処できません。そこで舞台の大きさに自在に対応する布幕による舞台美術を創り上げました。布の染めから裁断、縫製まで全て自前です。これには膨大な時間と労力が掛かりました。
ただ友惠は立体美術に関しては未経験でしたので、舞踏の可能性を追求し続ける飽くなき姿勢から美術家とのコラボも率先して行います。
美術家の小林健二さんは私達の公演での共演以来、カンパニー運営の相談にも乗って頂いている信頼できる友人です。一人一人のメンバーにも多大な気遣いを頂いています。
「彼の作品達は、あんなにも優しいのに、一瞬で作品の寸法を導き出してしまう。凄まじい速度の持ち主」と、友惠は驚嘆していました。「あの技術は誰も真似できない。当たり前といえば至極当然。全ては彼という人間の生の全貌なのだから」。
プランニングの段階から裸の姿を見せる友惠と美術家との関係は舞台創作の域を越えさせます。畢竟、人間讃歌という生の本随の処で共振しているからでしょう。
土方舞踏がテーマにしていた「暗黒(人生の暗部にスポットを当てることにより実存を活性化させようとするテーゼ)」は観念的なイメージが多分に含まれているように思います。土方は基本的に明るい人でしたので、類は友を呼ぶで、私なども舞台でのイメージと違い、いたって明るい性格です。舞踏のテーマの暗と性格の明を絶妙に馴染ませることで土方の作品(特に自身を主役にした)はパワーを持ち得ていたのかもしれません。
私は友惠と創作を伴にしてから、時々垣間見せる彼の底無しの暗さは、それまでの対人関係では経験したことがありませんでした。
幼い頃からの病気の苦しみとそれに対する生活面での社会的軋轢との対峙から産み出された生きるための体温を持った暗さ。いつでも死と寄り添っているような、さり気なくも底無しの暗。
ところが次の瞬間、一転して無邪気な子供のように天を突き抜けるような明るい蒼貌に満ち溢れます。友惠の明暗から産み出される作品は土方のそれとは構造的に違っているようです。
「創作していないと無作為に記憶が襲ってくるんだ。体が喰われる。・・・実存の相対性を自得させられてたまるかだよ。耐えるだけの自分は断固、受け入れられない」。
土方の振り付けでは身障者の模写があります。「あれって健常者の発想なんだよね。観ていて気恥ずかしくなる」と友惠は言います。「丈夫な人は本当の意味で体の地獄を知らない。リアリティーに満ちる創作家は一流のアスリート、その鍛え方とパラレルと云えるかもしれないけど、アスリートの味わう体の地獄には選択の意思が絡んでいる。病弱な体には逃げ道がない。他人の思惑による形が先行することは有り得ない」と。
「喘息の発作が激しくなると『誰か殺してくれ』と叫んでいる。下半身不随のオバアちゃんが肘で体を引きずって、按摩しに来てくれる。だけど苦しみが極限を越すと不思議と苦しさはトーンダウンしてね、覚醒してくるんだよ。野生の動物が捕食者に喉笛を噛まれた時は幸福物質が脳から放出されて痛みを感じないと云うけど、それとパラレルなのかな。回りの景色から物語性が消えて全てが有りのままに並列な入力情報として観えてくる、垢の付いていない体感による景色としてね。舞台美術と同じで生物が生きる環境は一大事。そこで世界観と体の関係が決まる。
小さい頃さ、三つ願いが叶ったなら何にする?ってのあったじゃない。私の場合は一つ目は喘息が治ること。これは決まり。二つ目は日によって変わるの。三つ目は熟慮の末、もう三つ願いが叶うというのに落ち着くわけ。
だけど、神頼みなんていうのは当てにならないね。中には人間を捕食する神もいる。結構、大勢」。
話術を得意とする土方の舞踏プレゼンテーションはオフ・ステージにおいても、東北弁、東京言葉を使い分けるなど本領を発揮しました。
土方は体も丈夫で病院は歯医者以外に行った事は無く「俺は不死身だ」、「俺は千里眼だ」などと超人振りを装います。
舞踏とは?と訊かれれば「命懸けで突っ立つ死体」と、相手を幻惑させる手腕はコピーライター顔負けでした。
回りの人間が、彼の言葉に振り回される姿を見て、本人は楽しんでいるようです。「舞踏は誰にも括らせない」とも言っていました。
一方、幼少の頃から喘息持ちで、発作時には家族から引きつった顔で「死ぬんじゃないか」と囁かれた病弱の友惠の創作は「命懸け」など日常。私達には、いつも「これが最後の作品」と呟くように言います。
フラフラの体が創作モードに入ると荒ぶる神が憑依したのではないかと想う程、驚異的なパワーを発揮し続けます。ぶっ通しで20時間くらいの稽古は平気でしていました。「もう駄目、死ぬ」と、定期的にカクンと折れる時がありますが、胃潰瘍での入院中も創作の指示を出し続けます。「誰もいずれ死ぬからこそ只今を生きる」という抽象的な理念を綺麗過ぎる程一貫させています。
しかし一見、これが最後のようで、終わる前には次の始まりが準備され続けている。
そんな友惠と付き合うブレインの中には友惠の体を心配するあまり疲れ果て「お前、いつ、死ぬんだよ」と、半ば惚けたようにボヤク人もいました。
「喘息の発作は受け入れる他ない。いつ去ってくれるかは神様任せ」という友惠は、創作においては、まず、受け入れることから始めるという資質を自然に養っていたようです。受け入れながら、統合していく。もう駄目だという臨界点が作品の落とし処となります。
「そこに純粋な景色が現れるの。その景色がどのように胎動し始めても、もはや畏れという意識は無くなっている」と、友惠は言います。
宿命を受け入れることに馴れた友惠の体は憑依体となり、あまりに多くの創作要素(例えば、一人一人の踊り手の体の状態を一瞬で模写し、それと連動する精神構造の在り方を説きながら稽古をつける)を半ばオートマティックに受け入れてしまいます。そして「叙情(友惠は、それこそ生の本来性を具現する景色と言います)」として統合していきます。これを自らの体をもって示すのには友惠の体と精神に膨大な負担が掛かります。
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イスラエル公演のオフ日 病院に担ぎ込まれる |
音楽活動の他に当カンパニーの主宰者を担ってからは、芯だけは超人的に強いのですが、ただでさえ弱い友惠の体は酷使され続けます。
海外公演の折、オフの日に私達が観光を味わう時でも、病院に運ばれた友惠は「ちょっとだけ散歩したい」と言いますが、10分程すると「やっぱり駄目」と一人ホテルのベッドで踞っていました。
「早く、帰りたい」と呟く友惠の言葉に・・。私は「何処へ?」と問うていたような気がします。友惠には帰ったところで落ち着く場所はありません。
「今、此処が全て」。
私は友惠から私自身のアート、その所在を問われ続けていたのかも知れないと感じます。「あなた、何故、踊ってるの?」と。
押し出しの強い土方の男性原理を象徴するような作品と違い、友惠のそれは常に懐かしさ、自然を身籠るような東洋的母性とでもいうものを感じさせるのは、受け入れることから始めざるを得ない人間性から産み出されているのかもしれません。
47 舞台空間と客席空間の密度
友惠の作品創りでは踊り手の体と観客の体が、対等な関係になることを心掛けます。それが等身大の人間同士のコミュニケーションの基本と考えるからです。
両者の対等な関係を実現するために舞台空間と客席空間の密度を同質量になるように空間演出することで、浸透圧の関係から互いが自然に親和し合おうとします。これは、音楽ライブや演劇の小劇場公演で、例えば大音量や動きのある照明により観客を煽ることで演出される「一体感」とは、その質が構造的に違います。
踊り手と観客、互いが生きる環境を浸潤し合うことで、より親密なコミュニケーションの展開を目指します。
舞台という非日常的なシチュエーションに身を置くからといって踊り手はけっして特別な存在とはなりません。あくまでも、ありの侭の、その人です。
友惠は虚飾を嫌います。踊り手としての自分の背景には特別な何かがあるかのような見え透いた振る舞いは認めません。「舞踏らしさ」を演じるための「裸」や「白塗りメイク」という意匠は禁じ手となります。女性の踊り手のメイクは軽いファンデーションだけ、男性は素顔のままで。「メイクすると皮膚呼吸が出来ないよ。造った分だけ感性が鈍る。赤ちゃんはノーメイクでしょう」と友惠。西洋から無内省に輸入されたモード思想やゴテゴテに造り込んだ意匠によるそれまでの舞踏と一線を画する友惠アートの本領です。
しかし実際の舞台では、踊り手と観客の体を対等な関係に導く方策は大変難しい。
友惠が公演に臨む時には、まず舞台図面や照明図面、音楽や音響、美術や衣装プランとそれぞれの踊り手の力量、個性と照らし合わせながら葛藤するように向き合います。
力量とは技術なのか才能なのか?個性と癖との違いは何なのか?踊り手それぞれの人生に関わる大問題を自分如きが請け負えるのか?
踊り手にしても、形としての振付けを覚えるだけでは事足りません。
先ほど、舞台に立つ踊り手のあり方として「ありの侭の、その人」を挙げました。しかし、「ありの侭」とは人間の定理を産み続ける一匹の
強
かな生き物の生態です。人類の歴史とは、この生き物(=定理)の捕食に取り組む歴史です。
日本では飛鳥時代以来、輸入思想である仏教が生活、文化として馴染んでいます。その思想は、人間の命のあり方を例えば、苦しい状況を地獄、喧々諤々な喧噪を修羅、思いやる心を菩薩、安らぎを仏等と極端に抽象分類し、それらの個々人の実生活においての瑕瑾無きハーモニーの創造を提唱します。これも「ありの侭」を考察する一つの手立てとなっています。
しかし、輪廻転生を謳う仏教思想では、死ねば人間は生まれ変わることになっていますが、「お盆」という先祖帰りの儀式で亡くなった人が戻って来ると云うのであれば、他の処で生まれ変わって今を生きている、その人の所在は、どうなってしまうのか?まさか「お盆」の期間中は姿を消すという訳でもありますまい。祖霊信仰と混淆した日本仏教の抱える矛盾は、それでも日本人の生活、文化に溶解された規範として機能します。「三途の川」を渡るにも渡航料によって乗り物も違ってくるようです。
一方、「最後の審判」をモラルの動機に据える欧米思想(例えば、神に誓わされる裁判での発言)は「至上の愛」を与件としますが、それも縛りが強くなれば、せめて恋愛だけは野生の公理に畏服するようにもなるのでしょう。そして恋愛対象が移り気に支配された
辺
りから経済学が生まれます。
人の一生は、未分化の無垢な細胞に始まり、生存環境との折衝から創られた記憶に培われる体の物語です。その終焉はそれぞれ個性的なイメージに彩られます。
友惠舞踏では、この物語を時系列に順じる梗概に委ねることはしません。
体はいつでも、煽られた意思以上に胴欲です。「只今」に一生分の全てを見いだそうとします。世界を明文化しようとする言葉の恣意性には惑わされません。
体を駆使する舞踏アートの面白さは、此処にあります。
友惠の作品が「観終わった後、痺れるような感覚の奥、ふっと涌き上がる柔らかなものを実感した。それは厳しさと優しさに包まれ、冷たさと温かさに支えられている古い記憶にまつわる情感だ。懐かしさのようなもの、アイデンティティーの零点といってもいい、・・・現代表現の特徴はオリジナリティーの喪失である、というレベルを遥かに超えて、それは独創性を主張していたと思う。あの懐かしさはそのような確信を伴って今も生きている」(松本演劇フェスティバル)と批評されるのは、「体で考える」ことの
沁沁
を創作の足場にしようとする心根に依るのでしょう。
'94年のNY公演では、「スーザン・ソンタグは、舞踏の鮮烈さは、『否認』する性質にあるとした。私はそれを『別のところ』のものであり、『普遍的』であるという事実からきている、と理解するようになった。(中略)友惠しづねの最新のより洗練された『蓮遥』は私を釘づけにし、魅惑した。普遍性を訴えるため、白塗りは廃された。」(ヴィレッジ・ヴォイス)とも評価されます。
ライブ公演は裏方(振付け、演出、音楽、美術・・・)にとっては「地獄のシミュレーション」が必要と、友惠の体はいつでも息絶え絶えです。「もっと上手く踊れないの?」。演出で賄えない時は、友惠がフォローとして自ら舞台に立ちます。
体を基(もとい)にした感覚表現で成立させる舞踏作品には、演劇の脚本による梗概がありません。理屈で整理できる筋書きが無い。しかし、そこには確かなる人間の物語があります。
観客は「何だか分らないけど感動した」。中には「自分の臨終には白桃房に来て欲しい」などと言い出す人もいました。
「表現は押し出した分だけ引かなくては駄目。押し引きだけの人生の内で揺れ動く体の管理の最中に、自他の境界に『抜け』というコミュニケ−ション形態が生まれてくる。日本人の生死観は淡さにある」と、友惠は言います。
「舞踏の体は心を表現するんじゃなくて、心そのもの。そして心とは今、ここに、どうしても居る体のこと」。
48 プロフェッショナル 友惠
振り付けは踊り手という生身の人間と直接関わる行為ですが、土方の場合は自分を主役とするプレゼンテーションのために脇役となる他人を、極端な話、道具として使うことは意に介さない人でした。
公演後、雑誌等で評価されるのは土方と、土方が舞台に立たなくなると主演を演じていた私だけでした。とは云いながら、スポットが当たる実舞台での私の存在を、雑誌等のインタビューでは一番に殺そうとしていたのも土方です。主役はいつでも土方でした。
公演後('70年代半ば)、20人近くいた弟子達は、自分たちは利用されている(地方回りのショーダンスの仕事ではギャラは、当時1万円以上でしたが、団員が貰えるのは500円だけで残りは芸術の名のもとに元藤の懐に入り、目黒に建てた自宅や別荘購入資金、家族の贅沢な暮らしに当てられていました)と感じ、皆そろって辞めることもありました。
「元藤は金のことばかり」と批判していた土方ですが、金銭の面では私も土方とその女房に廻されていたのでしょう(私は20年間の土方との生活で舞踏公演、講習会と率先して担い続けてきましたが、1円のギャラも貰ったことがありませんでした)。
友惠の場合は土方とは対極で、稽古では踊り手には自分の身を搾り切るほど真剣に向き合い育てることに懸命でした。
それまでの友惠の音楽活動は、一度でも半端な演奏をすれば「弾き飛ばされる世界」と言うように厳しい業界でしたが、プロとアマチュアの線引きはハッキリしていたので責任の所在は明瞭でした。病気や怪我をしようが経済的に破綻しようが、それらも含めて実力と看做され、助ける人はいません。とある事情から逮捕され「弁護士費用を貸してくれ」と頼まれても、自己責任と笑うだけです。当事者が自分なりの手立てでクリアしてくれば、また一緒に演奏をします。キチッとした音だけ出してくれれば良いわけですから。
ところが「舞踏界は見渡す限りド素人。オーディションがいらない業界だからな。そこら辺の短期の講習会に参加して『白塗りメイク』を施せば誰でも舞踏家を自称してアーティスト気分を味わえる馴れ合いで成り立つ仲良しクラブ。理屈だけは一丁前、それが借り物の言葉で成り立つことに気付かぬまま」と、友惠は呆れます。
私達の主宰する舞踏講習会にも欧米人が大勢参加してきました。私達は遠い国から来る彼等のために舞踏グループを立ち上げ発表会も頻繁に開催しました。
私は土方時代にはアートを商売にするという発想を持たされていませんでしたので、そうした野放図な活動に拍車を掛けました。自らの出身地「東北」をブランド・イメージとして打ち出す土方は欧米人の弟子は採りませんでした。見た目が日本人と変わらぬ韓国人も
体
よく排斥していました。
土方の稽古場を出て自分達の稽古場の確保にも困窮していた状況でしたが、当カンパニーが身銭を切って彼等を支援することになります。
「これが舞踏界の仕来り」と、私の意向を鵜呑みにした友惠は彼等のためにも全力で創作します。
来日した講習生は、他の舞踏団と掛け持ちする者も多くいました。これは伝統芸など流派の規範を重んじる体制と違い、安直なワークショップによる舞踏界の受け入れ形態が招いたことでしょう。
「素人を育てることに関しては、私に躊躇はない。それは舞踏アートの魅力を知って頂くためには有用な手段とも成り得る」。演奏活動では自力で這い上がることを
基
としアマチュアを育てるという発想を持ったことがない友惠には、私の意向は舞踏界を発展させるための建設的な作業と素直に受け入れます。
しかし「真面目な人に対してはこちらも誠意を尽くすけど、他の舞踏家のところにも出入りして、表層的な知識にだけ長けるようなスレッ枯らしに、作品を創って発表させてあげる意味あるの?」と、友惠は疑問を呈し始めます。
ただ土方時代から、そうでしたが、舞踏に関わろうとする人には「師事(あくまでも受け手側の趣旨であり主宰者からは認可を受ける必要はない)」という名称をアイテムとして自身を価値付けようとする輩が多かったことも事実です。これもワークショップというオープンな伝達形態が招いた負の遺産でしょう。
日本に数ヶ月滞在した欧米からの講習生も自国に帰ると堂々と舞踏家を任じます。
これが、繰り返しになりますが「あの恐るべき消費的芸術である舞踏も、・・・、日本民族芸術のため、世界に害毒を流している。」(『舞踊の芸』1998年)と武智鉄ニが批判したような、舞踏が世界に無節操に拡散する状況に拍車を掛けます。
土方舞踏の場合、普段、机上に対峙しライブ活動を味わうことのない文学系のブレインが多かったわけですが、批評家であり舞台演出家であった武智に限らず、ライブで自らの体を晒す演劇人も、日本文化を表徴するが如く海外で派手に喧伝される舞踏を快しとは思ってはいませんでした。
海外での活動に野心を持つ舞台アーティストを志す方が実際に海外に出向いた時に、そのハードルの高さに気付きます。例えば演劇の場合は言葉の問題がネックになりますし、西洋ダンスでは体型も含め本場とのレベルの違いに圧倒されます。そんな時、ニッチとはいえ日本発の現代舞台アートとして公認されている舞踏を知ります。舞踏の何らかの技術を取り込めれば海外でも優位に個性を発揮できるのでは、と。
私達の講習会でも、そのような方も来られます。そうした方は他の舞踏家達をリサーチし、まずは舞踏の全貌を知ろうとします。ところが中には、待っていましたとばかりに体を
他所
にした舞踏論で彼等を引き込もうとする輩も多い。結局、訳が分からなくなってしまい、無駄な時間を費やすことになります。
「自分が舞踏から何を学ぼうとしているのかが曖昧なことが発端になる」と友惠は警告を発します。
「海外で活躍しているような舞踏家になりたいのであれば、その人の処に行けば良い。ただし、彼等の活動の切っ掛けになったマネージメントの方法まで教える人はいない。ところが起業のタイミングを示唆させるS字カーブは既に飽和点に達しているので彼等の方法を取り入れたところで同じ効果は得られない。柳の下のドジョウの時代はとっくに終わっている。ましてや、海外活動の経験が無い者と関わってしまえば泥沼に落ちるだけ。当初の舞踏に対して漠然と持っていた欲自体を商業主義と否定されるのが落ち。
これはどんなジャンルでも同じだと思うけど、まず自分が打ち込み続けるジャンル、演劇なら演劇、西洋ダンスならダンス、この足場は絶対に崩しちゃ駄目。その上で、舞踏のこの技術を教えてくれと具体的に頼んだ方が良い。
勿論、表現ジャンルの構造的な違いにより、生徒の思惑通りのスケジュールにはならないことは前提になる。しかし生徒の具体的な要望に対応できないような先生には早々に見切りを付けた方が健全だと思う。
ギター弾きの私が端唄三味線を習いに行ったことがある。6本の鉄弦と3本の絹糸弦、元々日本人の小さな手に合っているのか三味線の技術は簡単、スイスイ入ってくる。何十もの馴染みのない曲を通して別の音楽世界を知ることは楽しい。しかしある時、体が気が付くの。ギターと三味線では音楽自体の『間』が構造的に違うことに。また同じ弦楽器と謂えども楽器に対する体の構えが微妙でありながらも根本的に違えなくてはならない。
両方はできないんです。それまでギターで培い無意識に備わっていた『間』が意識化されることにより心と体に迷いが生じる。その迷いは今でも払拭できない。それが個性として反映されているのかどうかは未だに分からない。迷いは速度を減速させるけど、正解がない創作=人生にはそれも有用なのか?やり切ったと想って死ぬのか、やり残したと想って死ぬのか、どちらが幸せなのか分からない。
自分が追求するジャンルにしっかりと根を下し、その上で表現方法を拡げるために舞踏の技術を習得したいとする方には、具体的、実践的な方法を教えますよ。こちらも他の表現ジャンルの人を知ることは学びになる」。
49 宮城のミッちャん、宮沢ケンちゃん
'60年代に始まる舞踏は、当時の時代状況を反映させるように戦前・戦後、資本家・労働者、体制・反体制、都会・地方、伝統・前衛と価値観が二極化されていた時代にアングラの騎手として注目を浴びます。
'70年代は日本の高度経済成長と全国ネットのテレビの普及により価値観の極端な葛藤は解消され、前衛とされていた舞踏の表現は実験性から作品性を志向することになります。商業劇場での公演も行われます。
'80年代はポスト・モダンの時代。モードとなっていた文化人類学、ポスト構造主義哲学のフィールドワークが対象とした未開人のアニミズムを連想させました。
舞踏の特徴的な意匠、西洋人に比べると顔の凹凸の少ない日本人が眉毛、睫毛、唇まで塗り潰す「白塗りメイク」は死顔にも見え、呪術性を感じさせることで身近なフィールドワークとして、また自らも気軽に体現できる対象として海外でスポットが当たります。逆輸入される形で'85年には東京で「舞踏フェスティバル」が開催されます。
土方は泡を食います。表現の背景となる世界観が自分が独壇場としていたものとは別質だったからです。土方はこのフェスティバルに参加していません。晩年の土方は舞踏の創始者としての沽券を堅持するべく時代との距離を計り直そうとします。ここで他の舞踏家と差異化するために提示されたのが舞踏メソッドです。
作品性を重視した舞踏団はありましたが、ソロで活動する舞踏家達には難しい。ましてや音楽、舞台美術、衣装(私達は殆ど自前で創っていますが、ファッション・デザイナーに発注した時は一着数十万円掛かった)、照明(勉強のために作家系のプロに頼んだ時には1公演で数百万円掛かった時もあります)などに掛かる経費はとても賄えない。彼等は作品性よりもパフォーマンスの背景とするところの世界観や哲学をことさら強調してプレゼンテーションしようとします。
メイクが持つ力は舞台表現に限らず日常生活においてもその効用は周知ですが、舞踏の場合、舞台でのメイクの効果は大きいものでした。裸に白塗りさえ施せば舞台衣装に気を回す必要もありませんし。
舞踏家の間では創作の共通言語が全く無いにも拘らず、舞踏が一つのジャンルとして看做されるのは、「白塗りメイク」が単なる意匠に終わらず、表現の背景を、ややもすると画一的に喚起させる世界観のためのシステマティックな装置になったためです。
土方の場合、表現の背景を、戦前の地方の貧農、心身障害者にスポットを当て社会が内包する「暗黒」を表徴しようとしました。生活に困ったこともない東京生活者の私も舞台では悲惨な遊女の動きをイメージさせる動きを指示されました。
'70年代、高度経済成長時代を堪能した若手の場合は、例えば「縄文」、「アンモナイト」など独自なプレゼンテーションをしますが、何れにしても実存の深奥に根ざす見えざる「闇」を世界観として提示しようとします。
私達は全て知っている訳です。現代社会に何の
蟠
りもなく普通に生きる彼等は実存の深奥とやらに無縁であることを。
舞踏家を名乗る実際の身体、舞台表現とは無縁にも拘らず、何故、「闇」という共通の世界観をプレゼンテーションし得るのか?
日本人の顔の特性にこそ映える「白塗りメイク」という意匠がトリガーとして大きく作用しました。イニシエーション的な効果があるのかもしれません。
土方の講習会に参加した友惠も「まさか自分が顔、体に水で溶いた白塗り粉を塗られ、公演で他人が使って洗ったことなどない白塗粉と汗でベトベトの衣装を着せられて、みんなの前でソロで踊れと言うんだから。自分だけは嫌だと言える状況じゃないよね」。
「稽古場にはセメントが打ちっ放しの狭い通路みたいな所にシャワーもあるし、終わってからはホッとしながらも、やり終えた後に充実感が涌いてくる。緊張と弛緩。嵌っちゃう奴もいるよね。土方、営業上手いよ」と笑います。
昨日まで身体を含め何の表現活動もしてこなかった者でも、このメイクをするだけで、誰でも瞬時に舞踏家に成り切ります。彼等を異界の者とでも観る観客の視線も自身の気分を昂揚させるために一役買うことになります。
マニュアルを覚えたての営業マンや宗教の布教者は、自分の主張を相手(観客)が受け入れることでアイデンティティーを確保しようとします。異様な身なりでセールスしているわけですので引くに引けない。バカにされないために懸命にもなります。
ショーとして開き直る人は別です。問題は、当人が
恰
も自分こそは「実存の闇」を背負う特別な身体アーティストだと思い込むことです。それほどに「白塗りメイク」は舞踏というアート・ジャンルのキーになっていました。目鼻立ちの形状的コントラストがハッキリしている欧米人の場合、「白塗りメイク」はギリシャ彫刻を想わせ、ノッペリした顔立ちの日本人のそれとはニュアンスが違ってきます。
このメイクの効果に過剰に依存することで、実際の身体、舞台表現の技術は蔑ろにされるどころか、その確立に要される膨大に掛かるであろう手間と修練を疎んじます。かといって、「白塗りメイク」によって手軽に確保されていた舞踏の世界観は、当時モードになっていた既製品の西洋哲学を舐めただけの希薄な代物でした。
世界に、あまりにも奔放に喧伝されている舞踏の内実の嘘を感じとる人は、特に舞踏に隣接する他の舞台アーティスト達の中にはいる訳です。
私達の稽古場(借家のリビングルーム)での小さな公演にお招きした転形劇場の主宰者の太田省吾氏は打ち上げの席で「(舞台アートは)身体の時代は終わったのではないか」と述べられます。同席していた品性豊かな舞踊批評家の市川雅氏は、舞踏アートの魅力を堅持しながらも場を纏めていらっしゃいました。
ただ、太田氏の批判的な舞踏批評を招く原因も、ブームに胡座をかき足場になる技術も確立せぬまま曖昧なプレゼンテーションしかしてこなかった舞踏の側にも問題があると思います。
土方は講習生をお客さんと看做していましたので、講習生の公演といっても稽古場での体裁ばかりの発表会でしたが、友惠は違いました。上演ノルマ(作品の水準)が問われる劇場(例えば、渋谷ジァンジァン)で行いました。素人出演の作品は全て友惠の魔法のような技術が負いましたが、金銭的な負担もこちらが賄うことになりました。友惠の命は酷使され続けますが、「半端なことを演(や)ったんじゃ、お客さんに申し訳ない」と懸命になります。
そんな友惠を私達は「人が良すぎる」と笑いもしましたが、その資質が私達にも安心感を与え、また自分達の作品にも直接反影されるので、それ以上は何も言いませんでしたし、また彼も言わせる隙を与えませんでした。
とにかく、「親鸞(日本を代表する仏教家)とか、ケンちゃん(宮沢賢治)とか、チョピン(Chopin)とか、ミッちゃん(宮城道雄)に対して恥ずかしいことはしたくない」と、歴史上の人物をあたかも近所に住んでいる子供の頃の遊び友達のように、喋くる友惠です。「土方?あいつの悟りは青臭いよ。27歳、単なる青年」。
50 アートを純粋培養する畑
友惠は「自分が目立とうと思って創作したことは一度も無い」と言い切るくらい創作に対しては無私を貫いていました。
たまに、友惠が自ら踊りで出演することもありましたが、それは、メンバーの能力では、どうにも作品が成立しないという時だけでした。
踊り手を駒として扱うことを嫌っていた友惠ですが、自分の体だけは作品のための駒として使っていました。
友惠は土方のように自分を押し出し、それを浮き彫るために団員をサブとして使うという発想は端からありません。弟子の成長を何より望みます。ですから、私達メンバーの踊りの実力は嫌でも土方時代とは雲泥の差にならざるを得ません。
弟子の中にはアーティスト振りたいだけの者や世渡りに長けた者もいますが、友惠は誰にも善良に対します。
「駆け引きに奔走するだけで碌に努力もしない、だらしない人間に」と、私なども友惠の人の良さには呆れを通り越して、その純粋さに畏怖を感じ、この人は「善良」という言葉の意味すら知らないのではないかと思ったほどです。
ところが友惠という人間は全部知っているんですね。知っていても、尚かつその様に生きざるを得ない資質を備えてしまっています。「妙好人(市井で他力本願を体現する文盲の仏教徒)は凄いなー。お地蔵さんって凄いなー」と、呟きます。日本独自の即興演奏家を自認し友惠と即興デュオ・グループを組んでいた吉沢元治は「彼、何であんなに老成しているの?」とキョトンとしながらも嬉しそうに私に訊きます。
ところで、泥臭く男性原理の権化とでもいう土方と童顔で純粋さを糧にしているような友惠という対極的な二人を共に「芸術至上主義者」と揶揄する輩がいたということも事実です。
これは本人達が意識していることではなく、体にアートを純粋培養する畑があったことからくるのでしょう。無い者には理解できない。時には憎しみさえも誘発させる。
似ているところといえば、二人とも嫉妬という感情を持っていないところでしょうか。他人の中の純粋な魅力に触れると自分のことのように嬉しがります。それが友惠の場合は底抜けですから他人からの嫉妬心には無頓着です。これは生きる上では大変に危険なことです。
実際、周囲の友惠の多彩な才能、そして創作に没頭する純粋過ぎる姿勢に対する妬み嫉みには凄まじいものがありましたが、本人はどこ吹く風でした。
無垢というのは時には狂気を感じさせます。
二人とも人の体を気配で読み取る過剰な感性を備えていますが、普段は茶目っ気に溢れています。
しかし、こと創作に関することになると二人とも手の付けられない悪魔の幼子(おさなご)のようです。不容易に側に寄れば大火傷を負います。
それに加え、友惠は土方とは次元違いのあどけなさを持っていますから、見た目の柔弱さも手伝い誰もが独占しペットとして自分の部屋に持ち帰りたくなるような誘惑にかられます。
この不用意に持ってしまった欲望は後に生じる恐怖を増幅させます。それは、舞台創作の現場で友惠は日常事のように問い掛けるからです。
「ねー、音が見えるでしょ?(舞台上の)あそこにいる奴(音)。舞台美術と馴染んでないよね。・・・えっ、あなた、見えないの?・・・何で?」。「彼女、背骨の○本目の意識が抜けてる。分かるよね・・・?」。
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