私達は従来の舞台公演の他に、多種ジャンルの多アーティスト達とのコラボレーションを積極的に行っています。美術家、映像作家、デザイナー、伝統芸能、歌手、モダン・ダンサー、詩の朗読など様々です。
即興演奏家とのコラボレーションも多いのですが、これは自らのからだを素材とする表現者にとって大変に勉強になります。舞台という同じ空間を共有する即興演奏家との共演は、からだ表現者にとって学ぶべきことが沢山あるんですね。
ここでは、「友惠舞踏メソッド」による即興演奏家とのコラボレーションの方法を紹介することで、からだ表現の可能性を考えてみます。
即興音楽とは何か?
私は舞踏家であると同時に作曲家でもあり自身の舞踏カンパニーの音楽を全て担当しています。また日本のフリー・ジャズ・シーンの草分け的存在であるコントラバス奏者の故・吉沢元治とギタリストとして即興デュオ・バンドを組んでいました。吉沢と私は親子ほど年齢は離れていましたが、即興音楽の世界では年齢は関係ないんですね。ヒエラルキーはありません。
即興演奏家のライブ・ステージ、舞台でのからだの定位(居住まい)は、それぞれ個性的ですが確固としていて、その感性は鋭敏です。好奇心が豊(ゆたか)な人も多く、他ジャンルとのコラボレーションにも幅広く対応する技能を持っています。
私は当舞踏カンパニー設立当初から、私の作曲作品による公演の他に、踊りと即興演奏のコラボレーションを数多くやってきました。
ジャンルを問わず踊りと音楽は切っても切れない縁がありますが、踊り手には舞台に流れる作曲作品に頼るだけに留まらず、より積極的に音楽、引いては舞台環境全般と関わっていくという創造的な姿勢を育てるためです。勿論、コラボレーション公演も単なる実験で終わらせ得るものではありません。私達の舞踏のメソッド、個性をプレゼンテーションするための重要な作品です。
即興音楽というのは、参加者がリズムもキーも演奏時間も何も打ち合わせずに始められる演奏スタイルです。 演奏家の出身ジャンルはジャズ、ロック、現代音楽、邦楽、クラシックと様々。
既存の音楽スタイルしか受け付けない人には、なかなか理解できない難解な音楽ともされています。
未知の相手との出逢いより未知の自分と出逢い続けるという欲望を導く演奏スタイルは、スリリングですがリスクを持ちます。互いの演奏が互いの契機になり合いますので、リーダーはいません。
例えば、初対面の2人の演奏家がステージに立ちます。極端な話、相手の音を一音聴き合っただけで、お互いの全てが分かり、分かられてしまいます。
相手が、どれ程の実力を持っているのか。どんな人間性なのか。どう展開しようとしているのか。相手の気分や演奏意図も分かります。
自分の他に共演する演奏家が4人いる場合は、彼達を同時に一瞬で見抜きます。勿論、自分も全員から見抜かれています。演奏は皆それぞれ自分の奏でる音も他人の音と並列に捉えることで成立しますので、ステージには5人のコンダクターがいることになります。
自分の奏でる音に捕われていると相手の音を聴き逃しますので、謙虚さが必要になります。これは遠慮とは違います。アンサンブルの必然から出すべき音は出さなければなりませんが、意識的な行為は敬遠されます。自分が出すべき音はアンサンブルの必然から引き出されることを望みます。
決め事が無い状況でのアンサンブルは果たして可能なのか?
実は簡単なんですね。
即興演奏では、一瞬の情報からでも相手を知る能力が必要になりますが、そんなことは誰でも日常的に発揮しています。
例えば、親は廊下を歩く子供の足音を聴くだけで体調や気分や今日、学校で何があったかまで分かる。また、一緒にいる恋人のドアーの開け閉めの音で、自分への気持ちの変化が分かってしまう。
どうリアクションするかで物語は急転したりしますし、結末はリスクを孕んでいきます。他人事としては面白いですね。
即興演奏でも同じです。
ただ、アクションとリアクションが同時に起こりますので、相手からの情報を解釈してから対応するというダイアローグの速度では間に合いません。
そして皆コンダクターでもある訳ですから自分達の演奏を他人事として観る(客観視する)視座も併せ持っています。好奇心豊かな人達ですから、リスクを率先して受け入れようともしますし、リスクを仕掛ける人も出てきます。
皆、予定調和を嫌いますから、それを周到に回避しながらアンサンブルを産み出そうとします。
これは相手への警戒心と裏腹の愛(いと)おしさ故の急速な親しみへの熱望が成させる技(わざ)でしょうか。
からだの知覚が鋭敏になります。臨界点を超えると人間の感覚の情報の入出力のシステムが変容するようです。
すると、聴こえてくる音の情報は、得体の知れない様相で現前してきて、単にリズムやピッチや音色に還元するという姿勢では捉え切れなくなります。
私の場合、実際のステージでは相手の音が生き物のようにも感じられます。それが自分の音と、時に拮抗したり、時に浸潤したり、という肉感性、物質性を持ったイメージとして捉えられます。音を通して相手の呼吸や気配、気迫や思考までダイレクトに伝わってきます。
このような状況ですと、構えというのは通用しません。構えがあると入力情報が対象化され距離が生じます。また入力回路も措定されてしまうからです。そうしますと、自分が置かれた状況を味わいとして満喫できません。楽しくないですねー。
相手からの多彩な情報を瞬時に受け入れるためには入力システムを解放します。要するに自身が無防備に成るということです。これは怖いんです。ですから、一音からでも相手の技量、気分、人間性まで一気に把握してしまおうとします。死活問題だからです。
そんな私でも「あんた怖いよー。一瞬でも油断すれば押し込まれる」とグループを組んでいた吉沢からは、しょっちゅう言われていました。時には、自分のからだから怪物が飛び出し、自分は振り落とされないように、それに必死でひっ掴まっているだけ、なんていう感覚に見舞われることもあります。
構えの無い構え、無防備な構えは、味わいを満喫するための必須条件なんです。
味わいというのは、対立概念を止揚したところで起きる非常に純粋なコミュニケーション・スタイルだと思われますが、意味というコード内で安寧としようとしている人には理解できにくい。それどころか、自身のアイデンティティーを根底から覆すものとして憎しみさえする人も多いようです。しかし、演奏家の多くは既存の技術を習得し切ったとの誇りを持っていますので、偏狭な批判には哀れみさえ感じます。でも、特権意識を持つことはないですね。
しかし即興演奏家のアイデンティティーは保証のない只今に求めています。その意味では最も純粋なコミュニケーション手段なのかも知れません。尤も時間を経ればパターン化してくることは他の表現スタイルと変わりません。そこから、「ポスト・フリー」というジャンルが産まれます。
即興演奏家の入力情報の捉え方、知覚の在り方に共通言語はありません。皆、それぞれなんです。とは言いながら、何らかの共通項は認められます。それは先ほど言いましたように「知覚の変容」による情報の処理法です。
この技術は舞台に立つ舞踏家にも要請されます。
舞踏の表現をするためのからだの知覚法
「友惠舞踏メソッド」には「花の香り」というテキストがあります。
講習生には、まず花の香りを味わって貰います。あくまで、香りを味わうのであって分析するのではありません。ここが大事なんですね。何らかの数値還元的な座標軸(正解)があると思うと、知覚から個性を奪います。
次に、「この香りを色で例えると?」「感触は?」「音色、リズムは?」
・・・。他の感覚に置き換えて、言葉で表現して貰います。
例えば、ユリの香りは色で言うと「・・・・」、触り心地は「・・・」、というように。皆さん、楽しみながら自然と言葉を溢れさせます。小さいお子さんも臆することなど全然ないんですね。勿論、正解はありません。ですから、それぞれの個性が活き活きするんです。
味わうということは、情報をからだに親和させることですから、その段階でからだは無作為故に純粋な表現をしていることになります。純粋な表現は作為されたそれより自然に見る人に受け入れられるんですね。幼子の笑顔や縁側で日向ボッコする老人の無欲な表情は見る人を和ませます。
ところが「花の香り」は舞台にはありません。そこで踊り手には表現を引き出すためにイメージと、それを直接的に関わらせるためのからだの感性が必要となります。
一つの音、一つの行為、一つの言葉からでも多彩なイメージを柔軟に引き出しからだに関わらせることは、踊りの表現にとっては大事なことなんです。馴れてくると、からだはイメージに即応します。
舞台に立った時の踊り手は、活き活きとしたイメージを広げていくことで、多彩なエレメントが彩る舞台空間の捉え方や動きの速度「間」を無理無く導けます。
特に「香りの味わい」の場合には、表情の質感と動きの「間」に直接的に作用します。
ただ、踊り手がイメージに浸り過ぎると、舞台空間内の他のエレメントと分離し、作品としてはアンサンブルを損なうリスクを持ちます。これを解消するために振付家や演出家がいます。
しかし、即興演奏の場合は、コンダクター(=演出家)は初めから設定されていません。ですから、それぞれの演奏家は演出家の視座を合わせ持っている筈です。
皆、予定調和を嫌いますから安直な形への収斂を避けようという警戒心と、自身の可能性を最大限引き出そうとする欲望の狭間に身を置こうとしています。
可成り癖がある人が多いのも事実です。しかし、日常生活はどうあれ演奏に対してだけは生真面目な人ばかりです。寄りすがる演奏コードがないために、自分で自分を律しない限り、場が根底から崩れることを皆知っているからです。
命懸けという人も少なくありません。そのような生き方が、あまりにも当たり前になっていて、懸かっている命をいつの間にか忘れてしまう人もいます。時には、生死という「間」もエレメントの一つとして入り込みます。
即興とは何か?一言で言うと、「『間』のアンサンブル」です。
ここで、「間」という日本の美意識を語る時に欠かせない概念がでてきましたが、これは、単なる空隙を意味しません。感覚的にしか捉えられないもので、言葉で説明することは難しいのですが、「多彩な情緒の差異、その距離」と私は解釈しています。日本画の色彩の淡さの度合い、書道の文字の墨の滲み具合も、この美意識に入ります。また、日本人は生死観さえも情緒で捉える感性を持ち合わせています。
からだと、それが置かれた環境も一つの差異として捉えます。そして、イメージとからだの関係も。
舞踏の場合、ジッとしているにも光の速度が必要になります。これは勿論、理想ですが。
人類は何故、多彩なイメージを溢れさす技能を備えているのか?最も身近と感じる何かと、より親密でいたいからでしょうか?
即興演奏について少し説明してみましょう。
即興演奏は民俗、伝統、クラシックなど多くの音楽ジャンルにある手法です。
また、作曲に至るプロセスでは殆どの人が用いる技法だと思います。そかし、記録(譜面)として残し難いためにそれ自体ジャンルとして確立されることは難しい訳です。
即興演奏がアート表現としてクローズアップされるのは録音技術が開発されレコードが音楽媒体として生まれてからです。その場の演奏がそのままリスナーのもとへ。演奏家は必ずしも作曲にこだわる必要がない。
特にジャズ、ロックでは循環コード内に適応するアドリブをより純化させた即興演奏が1960年代にそのジャンル内に取り入れられます。それに伴い音楽の形態も進化します。
蛇足ですが、日本でも1979年に29歳で自殺した、今では伝説的なサックス奏者となっている阿部薫という人がいます。私も即興音楽でのデビュー当時は、自身のことを天才と称する吉沢元治から「阿部以来の天才」と評され即興デュオ・グループを組みましたが、私自身は阿部には特別な興味は持てませんでした。即興アーティストにおいての自殺は予定調和の装置として機能し易いようにも想えます。私の死は、放擲され続ける形への恋心から産まれ続けるからか、いつでも初心(うぶ)なんです。褒めてあげないと泣き叫ぶし、大変ですよ。
演奏者間にヒエラルキーは無く、個々人の演奏の自由度は増しますが、即興がそのまま表現作品として形化することを保証される担保には初めから限度があります。ライブやレコーディングにおいて、共演者を契機に自らの中から自然に力が溢れ出させるような演奏を持続することは至難です。新たな形が生成されても、直ぐにパターン化(形が先行)してしまうからです。
観客におもねれば、その演奏はショーとしての演技に堕すのは容易い。純粋な人ほど自分の嘘に気付かざるを得ない。
即興演奏をジャンルとして形化しようとすれば破綻は必至な訳です。
形と力の問題は、人間にとって永遠の課題です。しかし、その狭間での身の処し方で面白い表現=物語が産まれるというのも事実です。
純粋さは無防備ゆえに表現の可能性を直裁的に導きます。情報の入出力の速度が早いからです。自ずと情報処理のシステムが構造的に変ってきます。
ただ、形はパターン化し易いんですね。生成時の活き活きとした力を息づかせ続けることは難しい。単に力んだだけでは表現として収拾が付かなくなる、というようなことも頻繁に起きてきます。
これを打破しようとして、予め演奏者の即興を、ある枠組みで制限するポスト・フリーというジャンルが1980年代に生まれます。ここでは作品創作のシステム構築(ルール)が一興となります。力と形、個と全体のバランス=アンサンブルの妙が問われます。
日本の即興
ジャンルとして確立された即興音楽は普遍性を持つでしょう。外国語が苦手な私も演奏を通してなら海外の初対面の音楽家達とも直ぐに打ち解け合います。
しかし、それぞれが持つ文化的背景によるコミュニケーションの微妙なズレは感じます。具体的に言うと、欧米人(大雑把ですが)の音のビート感と音のエッジが日本人と明らかに違います。よく言われることですが、欧米人のからだが自然に持つ8ビートと日本人の2拍子。音のエッジが日本人は丸い、など・・・。
それは殆どの場合、コミュニケーションの支障になるということはありません。
即興はノン・コードという建前がありますので、文化的差異は個性に還元しようとする力が働きます(これが伝統芸能ですと正解というのがありますから、こうはいきません)。
ただ、日本人の演奏は欧米人のそれと色合いが変ってくることは否めません。良い悪いではなくて、特色が出ます。
日本人は人や自然を含め環境と「浸潤」、「一如」という関係で捉える文化的資質をその身に備えているように想えます。元々、音を対位で捉える西洋の音楽メソッドには馴染み切れないところがあるようです。
「あ、うん」の呼吸というのでしょうか、「腹を割る」「胸襟を開く」とでもいう言葉で象徴されるような身体的コミュニケーションを無意識裡に希求する資質が目覚めます。
コンセプチャルに括られたものには必ずしも同調仕切れない。逆に曖昧さに豊穣な味わいを見いだす感性を備えている。これは日本人の個性だと思います。
私の踊りの振付けを俳句的と評する人がいますが、俳句の言葉はけっしてロジカルではありませんが、確かなコミュミケーションが成立しています。これと通底するエレメントが日本人の演奏には感じられます。
これは演奏者が時に一体化する楽器にも、その特色が見て取れます。日本の伝統楽器ではピッチが曖昧なものが多いんですね。私は三味線も嗜みますが、三味線はギターと違ってフレットは有りませんし、一の糸(一番太い)は0フレットを区切るナットが無く、ネック(竿)にビタ付けです。音色は歪みますが、ノイズも含め倍音成分は多く含みます。数値に還元できるようなコードに搦めとられない強(したた)かさを持っています。そんなところにも、日本人の感性の特殊性がみてとれます。
舞台に立つ踊り手のからだの即興
即興演奏は「『間』のアンサンブル」と言いました。
舞台という広大無辺なイメージの世界に立つ踊り手も、この「間」の捉え方をからだで知ることができれば、より舞台を創造的に楽しむことができます。
それには、からだの情報処理のシステムを代える必要がでてきます。舞台内の多彩なエレメントを一瞬で把握する速度を得るためです。
舞台空間は単なる四角いスペースではありません。照明、音楽、音響、美術、そして、その中に一緒に立つ人達全てが共演者となります。舞台内で人が関わる全ての事象は生き物としての想いを具現しています。舞台の奥、袖や床の下まで世界は広がっています。
出演者は単に演出家、振付家の駒に甘んじている訳にはいきません。常に只今から始まり、只今に全てが息づきます。
また、即興というのは形と相容れないものではありません。それどころか、即興は形の属性です。何故なら、人の心は形に嵌ること安寧としていながらも、どこかでムズ痒さを感じるような生き物のように想えてならないからです。そのことを実際にからだで知ることで形に意味が産まれます。それが無いと人生から興が奪われます。
「興」というのも、また日本文化の美意識に欠かせない概念です。これは、単に「面白さ」という意味に留まりません。漢文学者の白川静氏は元々は「土地の霊を呼び起こすのが『興』なんですね。・・・内的な生命を呼び起こすというのが『興』なんです」(『呪の思想 神と人との間』)で言っておられます。
落語家の初代林家正蔵は、火葬場で焼かれる自らの棺の中に花火を入れたといいます。「興」はそれぞれの人生の美意識にも関わるもののようです。
英語のimprovisationの語源はim(・・・でない)pro(前に)videre(見る)で「前もって見ていない」ということになりますが、日本語の即興は「顕在化していないが、既に在るものをある条件下に即応することで現前させる」という意味を含みます。両者の文化的ニュアンスの差異を感じさせますね。
入力情報の知覚変換
即興という行為には、からだからの「入力情報の変換」が必須になります。というと、随分と難しく聞こえますが、例えば、観たものを音として捉える。聴こえたものをテクスチャーとして捉える、ということです。
特に視覚と聴覚の変換、その効果の活用は即興コラボレーションの場合は当たり前のように使います。
踊りと演奏のコラボレーションでは、視覚情報を出力する踊り手と聴覚情報を出力する演奏家が同じ場にいて、即応的に交感し合う訳ですから、互いの知覚の入力回路の換えなくては、関係は擦れ違い、結局、在り来たりのコードに嵌るのがおちです。分かり易く言うと、踊り手は音を聴いてから反応していたのでは動きが遅くなりますし、その逆も同じです。
近年では、演劇人の中にも即興に取り組む人もありますが、言葉を媒介にすると、その意味を解釈、理解するための時間が共演者との間に距離を生じさせるために、大変難しいと思われます。
からだの知覚のシステムを、知悉して、その機能を拡張、管理させることが、即興という行為に取り組む場合のからだの条件となります。
私が今回、舞踏のからだの即興性を語る時に即興音楽を例に出したのは、まず、踊りと音楽は古代から常に親和した関係にあるからです。そして、からだを媒体にしている。踊りも音楽も始めは即興から始まります。振付家や作曲家が生まれることで儀式化していきますが、親和関係は続きます。
もう一つは、音楽史の系譜から即興がジャンルとして確立していることが、他のジャンルに比べて即興を語るのに適していると思われたからです。また、私達自身が演奏家とのコラボレーション公演、ライブを300回程やっていますので、その意味では自身のからだでの臨床データは豊富だからです。
「からだの情報システムの変換」をからだで覚える方法として、一番効果があるのは、実際にそれを体得している人達とコラボレーションすることです。
しかし、名うての即興演奏家達との共演は大変難しい。ビギナー相手。普通なら彼等は相手にもしてくれません(土方舞踏に感化された人は振付けられた踊りに安住するという性癖を土方の舞台制作法の必然から身に付けてしまっています。その意味では土方の弟子は自立した創造性を持ち得ず皆ド素人でした)。
この時、私がとった方法は、踊り手の即興の分量を限定するものでした。これは「ポスト・フリー」というジャンルに入りますが、演奏と踊りというように他ジャンルのコラボレーションとしては世界でも初めてのものでした。私が創りましたビギナーでも即興ができるこのシステムによる作品は1989年、「池袋演劇祭」で大賞を受賞しました。演劇人の中には他ジャンルのカンパニーの受賞に戸惑っている人もいたようです。
難解とされる即興作品は、出演者のからだの特性を知悉しシステム化すれば、観客とのコミュニケーションの内奥に直接響き合い、言葉では名状し難い親しみを共有することができます。一見、コミュニケーションの共通言語、言葉を媒介にした方が観客には分かり易そうですが、そうとも言い切れない。
また、動きと形をパターンとして確立している踊り、例えば、西洋舞踊なども即興には向いていません。固定化されたからだの形間の移行に時間を必要とするために、直裁的なコミュニケーションを成就するには速度が遅れます。
メソッドとして身体性をプレゼンテーションする演劇の場合も、からだの動きと形を先行させるものは同じことが言えます。
友惠舞踏は一見、動きは少ないですが、情報の入力回路を変換することで、大変、多義的なからだの捉え方をします。そして、個々人のからだが醸す情緒を大切にします。
踊りと即興演奏のコラボレーション公演の一例。
本番当日、若しくはリハーサル時に、私は共演する演奏者に作品の構成表を渡し、作品の全貌と彼等のポジショニングを知ってもらいます。演奏家との打ち合わせは段取りだけですが、シーンの変換、時間経過は照明を切っ掛けにすることが多いので入念に行います。演奏時の切っ掛け出し以外の照明は基本的に固定です。演奏中に照明を変えられると、場が変化し演奏に集中できません。
しかし演奏内容への指示は一切しません。彼等からも訊かれたことはありません。
舞踏というと、挑発性を売り物にするアートで、何をしでかすか分からない、と想われていた演奏家もいましたが、私のコラボレーションでは踊り手には絶対に段取りから外れた行為はさせません。即興は何をやっても良いという建前ですが、素人の思い付きの行為はパターン化し持続力もないために場の密度を弱めるだけです。あくまで共演者とはフェアーな関係を保ちます。
「友惠舞踏メソッド」
私の考案したからだ表現のメソッドでは、ビギナーにも即興コラボレーションの方法を段階を追って身に付ける方法を確立しています。
即興表現というのは何も選ばれた人が独占するものではないんです。
即興は私達のコード化された日常の中でもヒョコヒョコと姿を現します。例えば、好意を寄せる人が側にくれば顔が赤らみます。社会性を象徴するペルソナが揺らめき出しているのですが、これは純粋な即興表現です。ときめきという力が押さえようがないほど溢れます。
アートに限らず創作への意思は、この溢れ出るときめきとシンクロさせれば力と形、個と環境のアンサンブルを自然に導くことができます。ランボーじゃないですけれど、「吹く風に髪をなぶらせて」ツーリングする気分で。カッコつけようとすると「天罰はてきめん」、すかさずズッコケます。
メソッドの手順を踏まなくても一気に即興表現を体得する方法があります。
簡単です。損得勘定で生きないということです。実はこれが一番難しいのですが。目先の欲から誰しも知らぬ間にソロバンを弾いてしまいます。その行為により自分という表現が措定されているのにも気付かずに。特に生活に関わるボランティアなどの活動、人の人生をテーマにした作品創作では、損得勘定する習慣が身に付いた人では、早々にリミッターが掛かります。
真に純粋な人には誰も勝てません。信じられること程、辛いことはないんです。特に共演相手が一流人(≒くせ者)の場合、コラボレーションの駆け引きに対しても歴戦錬磨の彼等は逆説的に自分を信じ切ってくれる人、純粋な人を放って置けない性(さが)を持っています。
ですから、私は自分のところの踊り手達を一流人としか共演させませんでした。
一流人の定義は夢見ることに腹が括れている人のことです。皆ときめいた分だけ傷付いています。要するに沢山失敗してきた人達です。
大人と付き合うと大いなる勇気を得ることができます。小人と付き合うと知らぬ間に自分も姑息になります。規範に縛られ過ぎると、時に人間としての本来性を失います。
KYは最大公約数を求めますが、アート・コミュニケーションは最小公倍数を熱望します。リスクが高い分スリルがあるんですね。活き活きとした味わいは「人」の「間」で芽吹くことを夢見ています。
悟りを諦観(あきらめを観る)と云う様に、日本文化は逆説を包容する強(したた)かな装置を備えているようです。
最後に
私の尊敬する友人に韓国を代表する世界的現代美術家のユック・クンビョンさんがいます。彼の作品のモティーフは土饅頭と云われる韓国の野晒しのお墓(自然環境と浸潤するように草が生い茂る)。彼の作品に埋め込まれたプロジェクターにはクローズ・アップされた無垢な子供の「目」が映し出されます。
私のインタビューに彼は「純粋さは相手を無力化させ、国境を超越する絶対価値の武器」と答えてくれました。
現代におけるグローバル・アートの一つの在り方を謳い上げると共に、人間にとってのアートの本来性を探求し続ける彼の姿勢に、同じアジア人としての感性からか私は彼に自然に同調していました。
純粋さは概念というペルソナをいとも容易く素通しする最も有効な方法なのでしょう。
日本人は即興という表現法に大変親しみを感じる民族です。
俳句という3文節、17文字からなる定型詩は、その中に季語という一年を四つに分けた自然の事象を組み込む、という決まりがあります。生活の中で感じる自然の事象をテーマに形化する創作法には、しかし、即興性が欠かせません。
また、形化された文字を白い半紙に書く書道は、一回性という即興性が重要な意味を持ってきます。半紙の白色と墨の黒色は、単なる色彩のコントラストには還元し切れない精神性を醸しています。
さて、からだの即興性とは如何なる景色を人類に醸すのか?
舞踏は、まだまだ始まったばかりです。
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