友惠しづね先生との出逢い
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天乃宇受美 |
その人の右腕は華奢に見える体からはみ出たように異様に太かった。
厚い掌から突き出た指は一本一本が独立して動くマシンのような輝きを放っていて、
肘から指先まで重量感があるパーツを接続しているようでした。童顔で表情は涼しく私よりも年下かと想った。
「土方に似てる人がいたの」と、芦川さんが嬉しそうに言っていた人。
その人を見た瞬間に、私は救われると想いました。
私の名前「
天乃宇受美
」は友惠先生が日本神話の芸能の神様・
天乃宇受女尊
から付けられました。
芦川さん(以下、敬称略)は「うずみの『み』が美しいというのは生意気だ」ということで、初めは「宇受三」となって、皆から「うずぞー」と、からかわれました。私はちょっと恥ずかしかったのですが、後に友惠先生が「宇受美」に戻してくれました。
目黒 土方巽 舞踏講習会
私が土方の目黒の稽古場に行ったのは'85年の3月、10日間の講習会に参加した時でした。山手線の目黒駅から権ノ助坂という急な坂を下り、目黒川を越して山手通りと交差する大鳥神社前という停留場から今度はゆったりとした上り坂、バスで5つ目の目黒消防署前という停留所で降り、目黒通りから一本路地を入った住宅街にそれはありました。
当時、中央線の高尾駅にある美術大学を中退して、八王子の自宅で両親と住んでいた私は、目黒に行ったのは生まれて始めてでした。
1回3時間、初級、中級コース各々5日づつ。料金は銀行振込一括払いで3万円でした。昼と夜の部があって生徒はそれぞれ20〜30人くらいでした。
この講習会には後に再会することになる友惠先生も来ていました。
土方の稽古場は木造モルタルの二階屋、外から見ると一見、普通の住宅。
一階の木製の引き戸を開けて玄関を入ると、壁に金属(真鍮板の鍛造)で出来た人の顔が朽ちていく様子を描いたオブジェ(加納光男作)が飾ってあります。
暗い蛍光灯、40畳くらいある板の間の片隅には金網で囲った練炭ストーブが置いてありました。
そこに集まっていた生徒達はストレッチをする者、壁に凭れて俯いている者、男の人の中には坊主頭の人もいます。皆、癖のあるような人ばかりで、稽古場内はシーンとしていました。私はそれまでダンスなどしたことがなく、素人の私がこんなところに居ていいのかと緊張してしまいました。
白のタイツに白の七部袖の肌着を着た芦川と濃紺の着物の着流しの土方が現れました。土方は長髪を頭の上に束ね、口ヒゲを生やし、老人を想わせる風貌でした。
私は異質空間に迷い込んだような気がしました。
私の七転八倒
私は高校卒業後通った美術大学の映像学科では自分のやりたいことが見出せず、中退し他の大学を受験し直しますが失敗します。
実家でブラブラしている訳にもいきません。家の近くを散歩などしていると、母親からみっともないと叱責されますし、取り敢えず、従業員7人の小さなデザイン会社に就職します。
中央線立川駅のマンションの一室にあるその会社は、商店の宣伝チラシなどを作っていました。時給400円で朝9時から夜10時まで働かされました。夜になるとお腹が空いてたまりません。社長は自分だけ店屋物を取りますが従業員には許してくれません。
ある日、私は早めに出勤します。まだ、誰も来ていないらしく扉には鍵が掛かっていました。従業員にはそれぞれ鍵を渡されていましたので、私は鍵を開け中に入りますと、社長は女性を連れ込んでいました。その女性は走るように帰りましたが、その日は社長と顔を合わせることも出来ず、気まずい想いに苛まれました。
友だちに相談すると「その会社、おかしいよ」と言います。
そこで私は京王線の代田橋駅にある中堅の広告代理店に、無理を承知で就職試験を受けます。
当日、駅前の公衆電話ボックスから会社の担当者に電話してから、美術大学時代に描いたデッサン帳を持参して面接に臨みました。
果たして手応えがあったかどうか、私は面接を反芻しながら元来た駅に歩きます。券売機に向い財布を出そうとしますが、財布がありません。焦りまくった私は、公衆電話ボックスに走ったのですが、そこにはありません。歩いて来た道端を探しますが、ありません。
そこで今さっき面接した会社に戻り、担当者に財布を無くした旨を喋り、1000円借りて自宅まで辿り着きました。
次の日、お借りした1000円と礼状を面接担当者に送りましたところ、後日、自宅に電話が掛かってきます。
「あなたはデザインの方よりも、コピー・ライターの方が向いているかもしれない。3年勉強すれば必ずものになる。役員には既に連絡してあるから、○日、○時にもう一度、会社に来て下さい」と。
私は天にも昇る気持ちでした。これで未来が開ける。親からも、うとんじられることもない。元気に近所を散歩する自分の姿が思い浮かびます。
新しい会社の面接時間が迫っています。
私は、今、勤める立川のデザイン会社の社長に早退を申し出ますが、社長は頑として受け付けません。
「すいません。どうしても時間が取れないので・・・」、電話での私の言葉に、これから私の行くべき新しい会社の担当者は、「そういうことでしたら、この話は無かったことで」と、無情に電話を切ってしまわれました。
私は落ち込みました。
後年、この話を友惠先生にしますと、「人生、最大の岐路じゃない。アホな社長なんか、うっちゃっておけばいいのに・・・。それで舞踏なんかに迷い込んだ訳。妙なところで律儀なんだから。一生が垂直方向に変わっていたかもしれないのに」。
友惠先生の言葉を聞いて、私は(あっ)と想いました。
結局、アホな社長の会社は辞め、また家でブラブラすることになりましたが、3つ歳上の兄が北海道の国立大学を卒業後、大手企業に就職し、北海道での下宿先の娘さんと結婚し八王子の実家に戻って来ました。ところが、兄の結婚相手の女性は雑誌やテレビで見た東京のイメージとは八王子はあまりに違うという不満を溜め、同居する私の両親とは険悪なムードになります。
そんな時、私は地元駅前に出来たばかりの八王子そごうデパートで、「オープン補充社員募集」の情報を得ます。
私はデパート一階婦人雑貨科のハンドバック売り場に配属されました。社員5人と派遣社員5人計10人。商品のバック、財布はレノマ、ランセル、ホワイ、クレージュという海外物。当時はルイ・ヴィトンもグッチも置いてありませんでした。私は商品にポップカードを書くなど一生懸命働きましたが楽しくてたまりません。私はその売り場では売り上げは一位を記録。
給料は14万、夏のボーナスはなんと28万円。私は今までそんな大金を触ったことがありませんでした。
しかし、私は緊張し過ぎていたのでしょう。胃潰瘍で入院することになってしまい勤めていたデパートを辞めることになりました。
また、私は自宅でブラブラすることになるのですが、そんな時たまたま読んだ朝日新聞に小さな記事で「日本発のアート」として舞踏のことが紹介されていました。
元々、私はアーティスト志望で美術大学まで行きましたし、「日本発」というのに惹かれたのかもしれません。
早速、私は有楽町マリオンの朝日ホールで上演された大野一雄氏の「死海」という作品を観に行きました。
大野一雄という名前は大学時代に「今75歳の舞踏家。これが最後になるかもしれないから観に行っといた方がいいよ」と、友人から聞いていました。
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大野一雄氏と踊る友惠しづね
大野一雄氏の稽古場にて |
友惠先生は「私達は皆、彼に騙されていた。いつも、これが最後の公演って感じで20年以上踊りやがって。毎日、店終い在庫処分市の看板を掲げて商売してるようなもんだ。
だけど、彼の身体技能は最高だったね。私が彼の晩年に彼の稽古場にお見舞いに行くと、車椅子に座った彼は私の前で上半身だけで直ぐに踊り出す。そして、私の顔を見て子供みたいにニコッと笑う。(このジジイが)と、私も嬉しくなっちゃってニコッと笑い返す。彼は女子校で体育の教師をしていて鉄棒が得意だったそうだけど、手首の動きが独特で、空中に浮かんでいるような彼の腕の骨は一緒に踊った私の体にはとても重く感じられたよ」と、語ります。
「大野一雄は即興舞踏を謳った人。だけど即興は人の人生を直接反影させるものだから他人にはなかなか教えられない。
土方は舞踏の形を追求した人。しかし、安易な技術の体系化は踊り手それぞれの個性にリミッターを掛けてしまうリスクがある。
私は、即興と形という相矛盾する宿命を担った舞踏という産まれたばかりの生き物と一緒に生き育てたかった。即興と形の昇華し続ける姿を体現出来れば。
大野と土方というアートに取り憑かれた二人の餓鬼を見てると、何だか楽しくなるんだ。」と、友惠先生は語ります。
私は舞踏を観たのは、その時が初めてだったのですが、大野一雄さんの舞台のカーテンコールでの仕草が好々爺みたいで、とても微笑ましく感じました。私は、その作品の演出が土方巽という人ということで、講習会の案内がありましたので、早速、行ってみることにしました。
初日の稽古の初めに土方は、「これからやることは、理解できないところもあるでしょうが、私を信じて下さい」と言います。
土方巽に師事、採掘現場から六本木ショークラブへ転身
10日間の講習会が終わってからのお茶飲み会で、土方と一緒に稽古を取り仕切っていた芦川から「半年やれば、公演に出られるから」と言う言葉に私は不信感を抱きました。というのは、私は公演に出たいとは思っていなかったからですし、美術大学の受験の時も予備校に2年通っていたので「半年」というのも、何か変だなと感じました。が、私はその場で入団を決めました。
芦川の他、研究生は5人いました。私と同じ年代の女性ばかりです。その講習会からは私の他にもう1人、一緒に入団したのですが3日後に辞めました。その子は他の舞踏団に入ったそうです。
入団を決めたはいいのですが、私には生活の糧がありません。
情報誌で採掘の仕事を見つけました。採掘現場は東京タワー芝公園。採掘品の保管所には骸骨とか櫛とかが展示してありましたが、私達は小さな骨のような物を掘り出しました。
日払いのバイトで朝9時から昼の3時までで日給7000円。これならやっていけると思いました。
採掘のバイトが終わってから目黒の稽古場に行くと、何か様子が変です。
「仕事なら、私達がやっているショーダンスの方がいいよ」と、先輩の女性団員が言ってきます。
「舞踏の修行にもなるし。これから皆が働いてるところ見に行きましょう」と私は急かされるようにタクシーに乗せられお店があるという六本木に向います。
私は六本木に行くのは生まれて初めてでした。
六本木の交差点から路地一本入ったところにある古びたビルにある扉を開けると、そこは色彩溢れた光線が彩る別世界。'85年、当時の六本木は、勿論、六本木ヒルズもミッドタウンも無い、穴蔵的な雰囲気でした。
楽屋は通路みたいな狭いところでしたが、ショーで使うのでしょう、羽飾りなどが処狭しと吊るされています。
「ちょっと化粧してみようか」と、頬紅を濃く塗って長い付け睫毛を先輩団員が施してくれました。私は化粧鏡の中に映る自分の顔の変り様にビックリしてしまいました。まるでアメリカのトーキー映画の女優のようです。
「チャイナ・ドレスも着てみて。これからショーが始まるから、あなたも出てみて」。
「えっ?」。
「大丈夫、照明が当たらない所で、立っているだけでいいから」。
ソファーに座るスーツ姿の観客の前の小さなステージの片隅に私はじっと立っていました。
光の中では上半身は裸で下半身は小さなツンというもので隠しただけの先輩団員達がディスコ調の音楽で踊っています。
ショーが終わったら接客です。「このお店は一流企業の接待客が多いから安心だから」。
私は訳も分らず、お客さんの隣に座ることになりました。もう頭は飛んで、何を喋ったのか覚えていません。
その日から私は、そのお店に勤めることになりました。次の日から稽古場で先輩団員からショーダンスの振り付けを習います。
後で、私を誘った先輩団員に聞くと、「初日が大事なの。中には拒否反応を起こして、帰っちゃう子がいるから」と言いました。土方は団員達に、「決まった仕事がないなら、直ぐ連れてけ」と言い含めていたそうです。
「八王子の自宅からだと遠いし、六本木からだと帰りも不便だから、アパート借りた方がいいよ。皆そうしてるし」と言われ、デパートで貯めたお金もあったので私は早速、目黒の四畳半のアパートを借りました。後で分ったことですが、ここは目黒駅から急な行人坂を下り、目黒川から大鳥神社方面に少し入った友惠先生の自宅から歩いて数分のところでした。
テレビも冷蔵庫も洗濯機も電話もありませんでしたが、稽古場には早歩きで15分くらいで行けます。
ショークラブでは面白い逸話があります。
ある日、父親が病院を経営しているという団員の、その父親が製薬会社の接待で娘の勤める店にやってきます。その団員は父親の顔をみとめると「あれ、私のお父さん。私隠れる」と急いで楽屋に走ります。
数日後そのお父さん、今度は一人でその店にやってきます。娘は青くなって再び楽屋に逃げ込みます。
稽古場に住みこむ 土方巽との深夜のはなし
私は土方の3月の講習会を受けてから4月にアパートを借り、3か月後の7月に「アパートを引き払って稽古場に住みなさい」と土方から言われます。私は早速、移ります。そして、稽古場2階の土方の使っていた6畳の部屋を与えられます。土方は隣の広間に移ります。
私は9月の稽古場公演、9月と12月の池袋西武デパート内の「スタジオ200」という小スペースでの「東北歌舞伎」シリーズ公演に出演することになります。入団時に芦川が言ったように本当に半年で舞台に立ってしまっていました。
これまで受験も就職も失敗し続けていた私は、本当にこれでいいのか?と訝しく思いました。私みたいな人がたった半年で舞台に立っちゃって。
六本木のショーダンスの仕事が終わり夜中稽古場に帰ると私は、週1、2回くらいでしたか、広間で一人ビールを飲んでいる土方に呼ばれ、座卓を挟んで彼と話をしました。
「舞踏の稽古はどうですか。講習会とは全く違うでしょ」。
土方舞踏はイメージから体の動きを引き出します。講習会での稽古は、一つ一つ動きを引き出すためのイメージの説明が為されていました。例えば、鼻先で
蠅
の動きを追うとか。鉄板の床にカミナリが落ち電流が走るので足の平はペタンと床に付けられない。
また、『この稽古場が建っている場所は、昔、ライ病患者の病院が建っていました。皆さんは癩病患者です。体が痛くて自由に動けない』、『ここは地下のボイラー室です。壁や床には水がポタポタ落ち、染みになっています。皆さん、その染みに成ってみましょう』。ホラー映画でしか見たことのない世界でした。
私は訳も分らなかったのですが、何か特別な空間に転送されたようで、新鮮な気持ちになれました。これが踊りなのか、私なんかでも出来るんだ。それまで持っていた踊りというもののイメージが全く違っていて、これをもっと深く知りたいと思いました。
しかし研究生になると、動きの説明など全く無く、ただ、細切れになった振り付けのパーツを順番に並べたものを覚えさせられるだけで、「何で、こんなことをやらされなくてはならないのか?」、と不信感を抱きました。
私は土方の言いなりに動かされているだけの自由を奪われた人形ではないかと想いました。
「あなた、迷ってますね」と、土方の問いかけに私は何も答えませんでしたが、正直言って、辞めようかと思っていました。
私がここに入ったのは、「講習会の内容をもっと深く学べると想ったから」でしたが、分らないまま土方の言いなりになっているだけです。土方は「踊り手はバカになるのがいいんですよ」と言いました。
深夜、大広間の座卓を挟んで土方は私に取り留めも無い色んなことを喋りかけます。
戦後、田舎から東京に出て来て、有栖川公園の木賃宿に住んでいた頃、友だちになった隣に住む男娼。そいつがヒロポン(当時は薬屋で売っていた)とかやっていて、私もやったけどアブナイと感じてそこを抜け出した、とか。
芦川にも随分と酷いことをした。棒を持たせた踊りで何回も芦川の手を、その棒で叩いた、とか。
仁村(仁村桃子、芦川の同僚)のソロ公演の時は、不安な彼女を自分のもとに住まわせ四六時中一緒にいた。
その人は芦川が公演で主演を独占するようになると辞めてしまいます。芦川は土方に新潟の彼女の実家に訪ねさせられたそうですが、ご両親は彼女を隠し逢わせて貰えなかったということです。
後に私達の東北ツアー('90)、新潟公演を観に来た仁村は、当時芦川が実家にまで訪ねて来たということを両親から知らされていなかったそうです。
実家に帰った仁村は盲目の方と結婚されたそうですが、ご主人は勘が鋭いらしく、「お前。また、東京のことを想っているだろう」と、何回も訊かれます。
私達の公演後、芦川は仁村の家に泊まります(ご主人は既に亡くなっていたそうです)。
仁村は「土方舞踏公演('70年代前半)の私の裸の写真が、今でも雑誌に使われている(土方の奥さんの元藤が提供)けど止めて欲しいの。田舎は東京と違うから」と困惑していました。
しかし彼女は「外人(その公演には海外からの講習生も参加していた)は駄目ね。私達の時のような覚悟が無い」、そして「私も、このままでは終われない」と、呟いたそうです。
友惠先生は「どうしようか?」と、苦笑いします。しかし数年後、彼女はガンで亡くなります。
「うずみさんは親友の仁村と同じ」と、芦川は言います。「ひとがいいくせに、意地っ張りのところ?」と、友惠先生は上目使いで笑います。
ショーダンスの仕事が終わって、私がいつものように稽古場2階の広間で土方と座卓を挟んでいると、土方は私に「恐いよー、恐いよー。皆が舞踏とは何ですかって訊くんですよ。あなた、替わりに答えて下さい。舞踏はまだ、赤ちゃんなんです」と言います。私が何も喋らないと「あなた、私を愛していませんね」と突然、分らないことを言います。
友惠先生にこのことを話すと、「アートを出しに使って女を口説くなよ。しょうもないオッサンだよ」と笑います。友惠先生は講習生とは2、3年は直接に喋ることはありません。優しそうな見た目とのギャップに皆緊張します。「ミュージシャンにはそういう人、多いよ」と言いますが、一回打ち解けると幼なじみみたい想えてきます。
ラーメンのCM(「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割分業をより定着させるもの」として批判される)をなぞらえて土方は、「先生(土方)は作る人、芦川は私食べる人って。芦川は、もっと『くれくれくれ』言うんですよ、芦川は食べるばかりで、・・・芦川とはもうやりたくないんです」。
「互いのアイデンティティー確保のための依存関係は非生産的。(芦川を)その気にさせたのは自分だろう。食べられればいいんだよ。喰えるものなら喰ってみろってね。実存の闇をテーマにしていた暗黒舞踏も、生活に余裕ができれば浮気心も起きてくると」、友惠先生は苦笑いしながら言います。「逃げ道がない孤独っていうのは面白いよ、保証がないから。誰も助けてくれない・・・だけど、やっぱり誰かが助けてくれている。だから今、生きている。その条理を体で知ることが人生という創造的アンサンブルの基本。死んじゃえば楽だよね、孤独の原材料となる寂しさを一々吟味する必要もない。今時は商品加工された孤独にも値札が付いている」。
「個人に附せられた言葉による名前、名称ではなく、一人に一つだけある確かな体を持った生き物としての人間。この事実を素直に受け入れ直してみようという発想から舞踏アートは始まります。ですから観念が先行するような単なる現代アートの一分野では終わらない」とは、友惠先生の理念というよりも、日々の稽古の心情になっています。
「私は今まで誰に媚びたことも誰の傘下に入ったこともない。酒席で営業したことも一度もない」と言います。その通りです。「不器用な人の方が伸びるよ。彼等はある臨界点に達すると意表を付いてくる。勝てるもんじゃない」、とも。
土方の稽古場にはテレビは私が与えられた部屋にだけありました。私が仕事から帰ると土方は私の部屋で深夜放送のアメリカのテレビ番組「アンタッチャブル」や、アニメ、確か「マッハ555」などを観ていました。
一人ビールを飲みながら「トイレに入っている時だけ、自分は安心出来る」と呟く土方に、この人のやっていることは全てが演技なんだ、と想いました。
「男の舞踏家は、いつも競ってくるから、団体名を挙げて辞めさせちゃうんですよ」とも言っていました。
死の予兆からたった2か月での逝去
'85年11月のある深夜。私は赤坂のショーダンスの仕事が終わり、夜中に稽古場の自分の部屋で寝てると、土方が寝ている隣の大広間から「痛いよー、痛いよー」と言う声が聞こえました。初めは下手な役者みたいに声色が大げさで態とらしかったので演技だと思いましたが、あまりにも長いので、私は扉を開けて様子を見に行きました。
土方は座敷テーブルの前で「痛いよー」と震えながら体をくの字にしたり、ひっくり返ったり、急に正座になったりと大変早い動きを繰り返していました。これも私には、どこか舞台での踊りの動きのようで演技だと思っていました。
しかし私が側に寄ると土方は「背中が痛い」と叫び悲痛な表情です。
私は急いで稽古場の近くに住む芦川に電話しました。
数分後に芦川が駆け付けた時には、土方の苦痛は嘘のように収まっていました。
「びっくりした。何だったんだろう」。土方は何事も無かったように言います。
酒席でのブレインや後輩舞踏家達への過剰な営業活動(飲み屋を渡り歩き一週間、帰ってこないこともありました)が祟ったのかとは不死身を装う土方に、身内の人間は誰も思いませんでした。
それから一か月後に土方は入院することになります。肝硬変です。
そして、翌年'86年1月21日帰らぬ人となります。
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