ニューヨーク ジョイス・シアター公演評
“THE NEW YORK TIMES” by Jack Anderson「ビヨンド・ブトー、舞踏を超えて」
「動きは言葉より多くを語る。友惠しづねと白桃房のジョイス・シアターでの『蓮遥』について説明するには多くの言葉を要する。そしてこのイベントを歴史的、審美的なコンテキストに位置づけするにも、多くの言葉が必要である。が、幸い、ステージで起きたことの衝撃は一、二文に要約できる。
『蓮遥』では簡素なローブを着た八人のダンサーが探求の旅に駆り立てられていた。彼らの精神的な献身と情動的な強烈さには注意を引きつけられ目が離せなかった。
この舞踏団の歴史的なバックグラウンドについて、少しばかり語る必要がある。白桃房は現代日本の新表現主義舞踊様式(舞踏と云われている)の創始者土方巽が、一九七四年に東京で結成した舞踏団である。土方が一九八六年に死去した後、彼の弟子たちはそのグループを継続することに決めた。一九八七年に友惠しづね氏が監督になってから、友惠しづねと白桃房と改名した。これは長い名称であるが、カンパニーの過去を敬意をもって受け入れながらも、彼の指導のもとにカンパニーが新たな創造の道を歩むことを示唆している。
アメリカ人のダンスファンのなかには、舞踏というと、顔を果てしなくゆがめ、念入りにポーズをとる、マスクのような白いメイキャップをしたダンサーたちの、堂々とはしているが憂鬱なスペクタクルであるとみなす人たちがいるだろう。友惠しづねと白桃房のメンバーにも、時に決然たるものものしさや、そして実際に奇怪な振る舞いはあった。しかし、彼らの踊りは多様であり、仮面のような白塗りもない。舞踏が何であるか、あるいは何でないかといった狭い概念で論じるのでなく日本の現代の舞踊の実例として見られるべきものである。」
“THE VILLAGE VOICE” by Deborah Jowitt
「舞踏は十九世紀の芸術家たちを魅了した、異国趣味の倒錯した危険なビジョンの再定義として、戦後荒廃した日本のアートシーンから生まれたイコンなのであろうか?舞踏家たちは、現代アメリカのダンスからは失われ、秘かに切望されているあるものに触れている。スーザン・ソンタグは、舞踏の鮮烈さは、『否認』する性質にあるとした。私はそれを『別のところ』のものであり、『普遍的』であるという事実からきている、と理解するようになった。我々は舞踏を理解しているのか、あるいはそれをただ理解していると自分に納得させているのか分からなくなるときがある。舞踏について書かれた著作物は私にとって意味あるものであるが、『蓮遥は、・・・皮膚宇宙の可能性を実体化している』というような語句は、私を予期しない経験の切羽に突き出す。
友惠しづねの最新のより洗練された『蓮遥』は私を釘づけにし、魅惑した。普遍性を訴えるため、白塗りは廃された。明乃の魅力的な踊りがその作品の中核になっていることに異議はない。二人の男性は背景で時々具象化し、寺院の門を守っている彫像のように彼女を後援する。友惠しづねは、白装束を纏い、無表情に時折通り過ぎる歩哨である。他の女性たちは夢中歩行の合奏をしているように、また地面に呑み込まれ穏やかに吐き出されるように滑らかに沈んだり浮かび上がったりする。
その前で明乃は変容し続ける。彼女は美しく、ぞくっとさせ、ものすごい。彼女の舞踏はひたむきのようであっても、極度に複雑であり名状しがたい。細かな砂粒が神経から流れ落ちるかのように、皮膚内で不安げである。明乃の踊りには秘境的なドラマがあり、作品は夢のような輝きを持っていた。」
“NEW YORK NEWS DAY” by Janis Berman
「友惠しづねと白桃房は、これまで我々がアメリカで見慣れてきた舞踏として知られる日本の舞踊のカンパニーに比べると地味な作品を上演している。逆さにぶら下がったり、赤いリボンを吐き出したり、身体を真っ白に塗ったりしない。しかし、『静』と『動』が等しくダイナミックであるこの作品の内なる魂の旅は、ここアメリカにおいても雄弁な表現力を発揮した。
作品の主役は、オレンジ色の着物を着た明乃。彼女は明らかに舞踏の魂であり、不老で、際限なくしなやかであり作品の核心にある普遍性を具現化している。
舞台の縄のような自然主義的な背景幕は、『人間』と『石』という作品のテーマによく合っている。ここでいう『石』とは八人の踊り手たちであり、地蔵である。友惠しづねは言う。『地蔵の皮膚をめくると、溶岩が流れ出す』
踊り手たちの身体は流れと変化を示唆し、同時に長旅の末に彼らの身体に住処を見つけ本来の姿を現した『精霊の存在』も感じとることができる。他の舞踏グループと比べて落ちついた舞踏の一面を見せてくれた。
動きの様式は友惠しづね自身の長きにわたる喘息との戦いに由来する。踊り手の身体は震えているのだが、忍耐の鎧で隠している。たぶん我々自身がそうするように。
踊り手たちの表情はしかめ面から微笑みへと見る見るうちに変容する。この微笑みは、他の舞踏グループに比べて、より近づきやすく、歓待の込められたもののように見える。感動的にして魅惑的な舞踏である。」
アデレード・フェスティバル招聘公演評(オーストラリア)
“THE SYDNEY MORNING HERALD” by Jill Sykes
「友惠しづねの率いるグループの公演は踊り手たちは、地蔵が自然から感知するものを『人間を超越した存在』を表現している。そして、踊り手たちは確かに、心と魂、もちろん肉体も含め、驚くべき変容を表出する。
いくつかの来豪している舞踏団は舞台効果がスペクタクルであったのに対し、友惠しづねと白桃房は簡潔な舞台装置と洗練された照明により、踊り手自身を媒体として彼らの芸術の本質を見せた。これは私がオーストラリアで観た最も思考を刺激し、没頭させられる公演であった。」
“THE AUSTRALIAN” by Alan Brissenden
「マーク・モリスの早い部族的なビートと、友惠しづねの思慮深く練り上げられたゆっくりしたテンポとは、まったく世界がかけ隔たっている。両作品を続けて観ると、その間の対照により、きわめてはっきりと豊かな価値を見いだせる。これはフェスティバルの大きな利点の一つである。
『蓮遥』は子供たちの守護神である地蔵の皮膚下をまさぐるもので、生から死までの体験が、しばしば降る雨やちょろちょろ流れる小川の音を伴う1ダースほどのシーンで次第に明らかにされていく。ここに一つながりの節を置きたくなるのだが、構成は決して直線状にはなっていない。闇から現れるエピソードは我々をある瀬戸際まで連れていき、再び退かせ、元気づけたり困惑させ、より静かに我らの内面が変貌させられたかの状態に残していく。踊り手たちのゆっくりした統御された動きは、彼らの旅に参加できる余裕をもたせてくれる。
フェスティバル恒例の生徒のためのマチネ公演において、一時間半の間彼らを静かに魅了し続けたことに、踊り手たちの劇的表現力が見てとれる。我々を興奮させ、不安にさせ、そしてより静かに自分に向かいあわせる。」
“THE ADVERTISER” by Anita Donaldson
「舞踏は日本の伝統的な踊りと現代西洋ダンス様式両方に対抗して第二次大戦後に日本で生まれた。この芸術はそのような抗議を具体化している一方、また日本の本質的な美をその簡潔さと精神性で保持している。友惠しづねと白桃房の友惠しづねの作品は、そのような美を典型的に表している。
この作品は、最初の真っ暗闇のシーンから観客を、穏やかにしかし極めて説得的に現実の場所と時間を越えて暗影の世界に引き込んでいく。幽霊像はある意味で肉体により内面の精神を表現しているように思われる。『蓮遥』は我ら皆が何らかの方法で持っている未知なるものへの旅のひそかな誘いである。」
“SUNDAY MAIL” by James Mullighan
「ゆったりした動き、耳を傾けさせる音楽、素晴らしい照明、髪が逆立つようなクライマックスにより『蓮遥』はその豊かな象徴性や力強いイメージをもって滲みだしてくるようである。」
エディンバラ国際フェスティバル招聘公演評
“THE SCOTSMAN” by Don Morris
「第五十回フェスティバルは間違いなくMcMaster(フェスティバル・ディレクター)の保有する驚くほど素晴らしい日本の友惠しづねの舞踏が初参加したことで記憶されるであろうし、またその価値がある。
髪をばらばらにした白衣の予言者風の友惠しづねが流れるように舞台に登場する。指先から足全体にいたるすべての筋肉がコントロールされているように見え、目の瞬きさえも、驚くべき集中と強さを表現する。舞台後方には二人のダンサーが歩哨のように立ち、残り四人のダンサーは最高の尊厳をそなえ、夢幻の光の中で静謐の女神のように立ち、正にこの作品のこの世のものとも思えぬ平和と美を表現する。」
“THE HERALD” by Mark Fisher
「このパフォーマンスは簡単ではあるが、粛々として実行された。心の不安を表現し、まっすぐに伸びた腕は見る人の慰めを求めているようだ。情感は、ほとばしる水や激しく叩くドラムのサウンドトラックで否応なしに高められる。かと思うと、次の瞬間には、静謐な禅の世界を思わすシーンがあり、すべてが平穏で静かで、大きく開いた腕はなごやかな動きとなり、人を受け入れる仕草に変わる。
主役ダンサーの明乃は、オレンジ色の着物をまとい、見る人を魅了するパフォーマーである。筋肉の一本一本までに彼女の意志が伝わっている。蓮の位置でそんきょの姿勢をとったとき、彼女が望むなら、そのまま一陣の微風とともにふわりと浮いて、空の彼方に消えてしまいそうな風情であった。」
“INDEPENDENT” by John Percival
「新しい方法のルールをやっと覚えたかと思うと、ほかの人がやって来てルールを変えてしまう。一九六〇年代に考案したダンス演劇の一形態である舞踏の演芸家たちは、セミヌードで、肌や顔を真っ白に塗るのが通例であった。そんな状態を一気に吹き飛ばしたのが舞踏団友惠しづねと白桃房の創始者である友惠しづねである。」
“FINANCIAL TIMES” by Alastair Macaulay
「キングス・シアターではRenyo - Far From The Lotus の九名のパフォーマーが演じていたが、多分間違いなく、私が今まで見た日本の演劇集団の中では最高のパフォーマーたちである。そこには十分に計算された効果、快活さ、そしてゆっくりした動きがもたらす魅力が満ちている。」
第四回松本現代演劇フェスティバル公演評
松本演劇フェスティバル・パンフレットより
「白桃房の舞台から立ち登った、あの懐かしい感じは一体なんだろう。
わたしたちは、こきざみに震える奇妙な仕種に撹乱され、中空を見すえる不気味な半眼に吸い寄せられ、かげろうのように揺れ動くおどり手たちの移動に引きずられ、次の瞬間すべてを静止させる硬直した死体に縛り付けられる。つまり、決して穏やかな舞台を見ていたわけではない。なのに、観終わった後、痺れるような感覚の奥に、ふっと湧き上がる柔らかなものを実感した。それは厳しさと優しさに包まれ、冷たさと温かさに支えられている古い記憶にまつわる情感だ。懐かしさのようなもの、アイデンティティーの零点といってもいいのだが、白桃房の舞踏のオリジナリティはこの地点から出発しているように思われる。
そういう意味では、これまでの現代演劇フェスティバルで上演された三十六作品のなかで最も強烈にオリジナリティを発揮した舞台であった。現代表現の特徴はオリジナリティの喪失である、というレベルを遥かに超えて、それは独創性と正当性を主張していたと思う。あの懐かしさはそのような確信を伴って今も生きている。」
利賀フェスティバル公演評
朝日新聞 「息づく生命 いとしさじわり」
「温かな感触の、美しい舞台だった。時の流れの中に立つ、老いた木と、若い木の、誕生、生長、死、再生が、表現される。背景の壁は樹皮を思わせる微妙な色合い。破れた布を重ね合わせた衣装も、森の中から選び出したようなやさしい色で、しなやかに演者を包んでいる。柔らかな日差しの中で伸びやかに育つ若木。容赦なく襲うあらしに倒れる老木。自然の中に息づく生命のいとしさが、胸にじわりと広がる。演じられる場と、舞がぴたりと合い、劇場は不思議な小宇宙になった。舞台が作りだす空気を呼吸するうちに、見る者の心も異空間を漂っていた。」
プレビューセレクション 立木Y子
「この舞踏は二本の樹の姿に託して、生成、死、そして再生という生きとし生けるものの生命の時間が描かれている。樹々や花々、動物達が登場、踊り手達はこうした自然界に息づく生命を繊細な動きで丁寧に心をこめて表現していく。陽の光に喜び、風雨に耐え、生命を燃やしていく生きもの達の姿が感動を呼ぶ心優しき舞踏である。宇受美が大木の豊かさと優しさを、芦川羊子が嵐に倒れていく老木の姿を印象的に演じている。土方亡き後、現在友惠しづねを中心に創作に打ち込む白桃房の舞踏の中に、土方舞踏を継承しつつも、新しくより普遍性を持った形で発表し始めた舞踏の可能性を見る思いがする。」
友惠しづね 音楽評
スイングジャーナル 小川隆夫
「本作を聴いて彼が演奏家として以上に、音楽全般に対する構成力に優れた才能を発揮する人だと感じた。メンバーからもわかるように、ここでの演奏はフリー・フォームで展開されていくが、こうしたアプローチにおける構成力の巧みさは、より強いアピール度を持って聴き手に訴えかけてくる。ここではアコースティック・ギターを演奏していることもあり、クラシック・ギター的アルペジオや、邦楽にも通じる音階が多用され、彼を独自のギタリストとして位置付けている。それにしてもスピード感溢れる彼のギターは鮮烈だ。」
ラティーナ
「その演奏には音楽に対する切実で根源的な問いかけが内包されている。具体的には音楽によって何が可能か?を果敢に試みている。ギターという楽器としての限界性と、音の領域を拡大しようとする衝動が破綻を臭わせつつ拮抗して、静謐なカオスを生み出している。テクニックには目を見張るものがあり、邦楽の宮城道雄に捧げた曲、異端的ブルース・フィーリングを漂わせた曲など、聴きどころは多いが、とりわけボトルネック奏法を駆使したラストのスロー・ナンバーが印象に残る。」
ジャズ批評
「極めて独自の音楽観を持ち、それを実践し続ける友惠のギターは制度化されたスタイルを超え変化し続けるという稀に見る行為者であると言える。友惠はあらゆるジャンルを通過して今日に至り、またこれから先も変わり続けてゆくミュージシャンである。メロディアスなものの追求から一転して破壊に至るまでの全方位的なレンジの広がりを有し、自己の一部だけを切り売りするという事から脱却し、感情、そして生活、さらには思想的背景までを音楽の中に盛り込もうとするその姿勢は、まさしく一人一派たらんとする見事な態度といえる。」
ギターミュージック
「ギターの常識をつき放し、自らの思想でギターを切り刻んでいるのだ。だが、それは付け焼刃の竹光とは違う。並のギタリスト以上のギター・テクニックをつきつけられてドキッとするのである。」
アルバム「孤山」 ライナーノーツより 今井正弘
「長年、尊敬の眼差しを向けて来たという、宮城道雄へのオマージュは前述したように見事な構成と演奏により、友惠と宮城道雄との関係が浮き彫りにされ、また何よりも驚いたのは『世紀末』での演奏だった。この曲が一番多くのテイクを重ねたのだが、それはそのはずで、ワンテイク増す毎に見違えるように変化していったのだ。けだるく、無力感に満ちたこの無垢な世界こそは友惠の持つ音楽美なのだ。この曲を聴くと安易な聴きごこちだけ良い環境音楽がいかに見せかけだけのものかが良く分かる。一切の余裕を取り去ったところで、こうした『世紀末』のような優しくエロティックな演奏が出来るという証明でもあろう。
私はこの名付けようのないギタリストである友惠の音楽を考える時、従来の言葉の中で言い表す術を知らない。たった一人の世界を築いてゆこうとする男の音楽を例えば『孤山』という名で呼んでみたい気がした。」
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