51 即興ミュージシャン
「日本で一二を争うミュージシャン」とジャズ批評家から評された友惠のネットワークから、私は多くの音楽家と触れ合うことになります。
彼らは舞踏界(公演後打ち上げが二次会、三次会ある。土方の公演打ち上げでは稽古場に二泊する人もいました。文学系の人が多く皆「論を語り合う」のが好きなようです)と違い、ライブが終われば車で移動ということもありますが、直ぐ解散ですから共演者同士の会話は至って淡白。
「どうも〜宜しく。・・・お疲れさま」という軽い挨拶だけということも稀ではありません。その習慣からか友惠は、舞踏公演でも主宰者として、正式な挨拶が必要な時以外は打ち上げに参加しないで帰ってしまうことが殆どです。
たまに私達がゲストで招いた舞踏公演の打ち上げでもバカ話ばかりに終始する人はいます。しかし音楽論など喋ることはありません。論を語り出したらその関係は終わりなんですね。それは相手への押し付けとなるからです。音こそ全てということなのでしょう。
新宿のピットイン(当時、新宿三丁目にあったジャズ・クラブ)で友惠がサックス奏者の坂田明さんと初めて共演した時のことです。即興セッションですから決め事がありません。楽屋で「どうやろうか?」と一人の演奏家が言います。「駄目な奴から間引きしていけばいいよ〜」と、坂田氏は笑いを浮かべて言うんですね。
その日のライブでは友惠が一番歳下。皆友惠より一回り以上年輩。共演者のなかには70歳を超えたジャズ界の重鎮もいました。
新人いじめ。音楽業界の洗礼なのでしょう。ましてやジャズの即興セッションでは異例のフォーク・ギタリスト、「何なの?こいつ」と云ったところでしょうか。
ところが、終わってみれば坂田氏は楽屋に挨拶に行った私に「彼、凄いよ」と何度も言うのでした。
音楽界は年齢、性別など関係のない世界なのだとその厳しさを知りました。掛け値が通用しない世界ということです。
この時の事を後で友惠に訊くと「これが最後だと想えば良いんだよ。取り繕おうと想った瞬間、殺されてる」。舞踏界にはカッコ付けたがる人間が多過ぎるように思いました。「死んでないから駄目なんだ」との土方の言葉とリンクします。
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大阪公演のワンシーンでの坂田明氏 |
これは私達の団体の定例ですが、友惠がライブで共演した音楽家には私達の公演に参加していただいています。勿論、坂田さんにも。「サックスって首からぶら下げて立って吹くじゃない。踊り手との共演中も舞台上を歩けるわけ。この動きが当意即妙。椅子に座って弾くギタリストの私にはとても持てない発想。凄いな〜」と友惠は感心します。
こうした音楽家には癖がある人が多く、私などではマトモに付き合えないと思うこともあります。
私が友惠の出演するライブを観に行った時のことです。ロック・ギタリストの灰野敬二さんが、即興演奏中、他の共演者から浮いてしまって、ステージの片隅で一人ぽつねんと立っているだけというシチュエーションになってしまいました。彼は「なんだ。バカ野郎」と叫ぶと自分のギター・アンプを蹴り飛ばして舞台を走り去ってしまいました。客席は騒然。しかしステージに残った音楽家達は、そんなこと意にも介さず演奏に突っ走る。
友惠に訊くと、「自分も経験があるけど、即興ライブは皆全速で走っている。高速道路から一度路肩に降りてしまうと、簡単には戻らせてくれないんだよ。・・・
あなたなんかしょっちゅう高速道路に飛び出してくるじゃない。こっちはハンドル切るのに死ぬ想いだよ・・・。あなたの『大丈夫よ』という口癖は根拠が無いのに妙に確信めいて、時には心強いけど。失敗した時のツケは全て私が払わされることになる」と。
「灰野は腹が綺麗でサバサバした人間だから、次に顔を合わせれば平気で一緒に
演
れちゃうけど。その代わり、皆、音楽を辞めた人間に対しては冷たいね。他人、見知らぬ旅人。即興音楽家に余裕がある人なんかいないんだよ」。
友惠は音楽のライブ活動を中断したとはいえ、ギターの練習は欠かしません。それこそ盆も正月もありません「ルーティーンを守ることが大切」と。
私達の舞踏の海外公演でもギターを持参し、ホテルの部屋や休憩中の楽屋で友惠の鳴らすギターの音が聴こえます。
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台湾「ガンチンシアター」公演の楽屋で |
台湾の伝統演劇団体とのゲスト公演(友惠しづね:演出、舞踏出演:芦川羊子)の時も共演する女性の役者達は友惠の楽屋の前に立ち、彼の鳴らすギターに聴き惚れていました。これが、また、ある種の人からは根強い恨みを抱かれていることに友惠は全く気付いていません。音楽家で尚かつ舞台の演出、振付け家と多彩な能力を持つことが一つの原因のようです。「冗談じゃないよ。こっちは今直ぐにでも代って欲しいよ」。
話を戻しましょう。
演奏家の中には気分が向かないからと当日来ない人もいるようです。私も他の舞踏公演でゲストの音楽家にスッポカされた人がいるとは噂で聞いています。「一日やったけど、面白くないから」が、理由です。
友惠は、その点警戒して人選していました。
私たちの舞踏公演のゲストでお呼びした灰野敬二さんにもNYに行っていたとかで、直前にキャンセルされたことがありました。
友惠は「自分も体の不調を理由に直前にキャンセルしたことが何回かあるから、他人のことは言えないけど」、音楽ライブと違い、予め段取りを全て組む舞踏公演。「これはキツかった。直前に作品を全部創り替えなくちゃならない。彼には貸しがある。いつかキッチリ返して貰うよ」と友惠は笑いながら話します。音楽家の付き合いは貸し借りの義理はしっかりしている世界のようです。
私達のメンバーがロック歌手のhideさんのステージ・ダンサーをしていたことは既に記しました。hideさんのソロ・デビューから亡くなるまで、北海道から九州と各都市のドーム球場をご一緒しました。メンバーは明るくてパワフルな彼との仕事を本当に楽しみにしていました。hideのバンドのメンバー達も皆良い人達でした。私も「X JAPAN」の東京ドーム公演なども観に行きました。
「X JAPAN」のある地方ライブのこと、ドラマーのYOSHIKIさんの体調不良とのことで当日に公演中止。5万枚のチケットは完売していたそうですが、客席にはパイプ椅子が整然と並び、既にセッティングされたステージに残されたバンドのメンバーと出演する私達踊りのメンバーは、観客と張り巡らされる筈だった無数の細い糸の幻想に吊られたように少し浮き上がった体が力無く笑っているようでした。ボーカルのTOSHIさんが叩いてみるドラムの音が空しく広い会場に響いていたそうです。
音楽家という生き物は、どうも一通りではいかないようです。
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小杉武久氏(センター) 吉沢元治氏(向かって左) |
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サックスの高木元輝氏 |
「埼玉でのライブだったけど、小杉(武久)さんにも、NYに行っているとかで直前にキャンセルされたことがあったなー。それでサックスの高木元輝とのデュオ。彼、癖強いの」。当時、NYと言うと何故だか皆、キャンセルの理由を納得したんですね。
高木さんは'60年代にフランスで怪物と云われたそうです。友惠のデビュー・アルバムにも参加して頂いたそうですが、逸話は沢山あります。ラリってサックスを持たないままステージに上がり、口と指だけは動かしている。本人には楽器を持っていないという自覚はないんですね。これがかえってウケたとも。
「友惠さん仕事ない?」と頼まれたので渋谷の有名ライブを決めてくれば、「僕、そこ出ない」と一言。友惠は収拾を付けるためにライブ・ハウスのプロデューサーに別企画を持って謝りに行くと、そのプロデューサー、「いいですから。高木さん、これで3回目なんです」と肩の荷を下ろすように溜息を付きます。
福生のアメリカン・ハウスにお住いでしたが地方に引っ越し、風の便りで亡くなられたことを知ります。
小杉さんは土方のところにも顔を出していました。彼は海外在住が長い方でサロン馴れしていますので、打ち上げの席ではその場にいる皆を気遣って話を廻すんですね。
国立市の喫茶店での友惠、吉沢とのクリスマス・ライブでの打ち上げで同席した私達踊り手に「土方さん、何か喋っていたけど、難しくて分んなかったよ」と笑って言います。大人の対応に品性を感じます。
その日の音楽ライブもいつものように過酷で、スタッフの一人が「友惠さん指、大丈夫」と心配すると、どれどれと友惠の指先を覗き込んだ小杉さんは「俺なんか、とっくだよ」と自身の指を見せます。二人の指先の皮はズル剥けでした。
三人の演奏がループし出すと、小杉さんは首に挟んだ電子バイオリンからケーブルを引き抜き、立ち見客でギュギュウ詰めの客席の中に分け入って行きます。
友惠は「彼は共演者だけじゃなく観客も含めて、その場にいる人全てを肯定したところから演奏するの。だてに怪物と云われてないよ。でも神経イカレるよね。彼はいつも、舞台上の踊り手(マース・カニングハム舞踊団)と客席に挟まれた処にあるオーケストラ・ピットで演奏してるじゃない。音楽の共演者だけじゃなく、踊り手と観客も体ごと意識せざるを得ないんじゃないかな。それこそ全方位で生きてる」。
小杉さんは、神経の使い過ぎからか「ちょっと前に腕が上がらなくなっちゃって。バイオリンが弾けなくなったらボーカルやろうかな」と苦笑いしていました。音楽家にとっては楽器が弾けなくなることは恐怖の筈。しかし「楽譜読めないんだー」とも平気で言います。芸大のバイオリン学科を出て、世界の現代音楽シーンをリードしてる人が。彼も、いつでも始まりの人なのでしょう。
それにつけても、友惠の場合、私達の舞踏公演では音楽演奏だけでなく私達への踊りの振り付け、演出、時に自ら踊り手として出演と、同時にやるんですから・・・。
そんな人、舞踏界にはとても、いないでしょう。土方も嫉妬したと思います。
友惠と即興デュオ・グループを組んでいた吉沢氏は戦後、学生ヤクザ(中央大学)をやっていたそうです。私は映画でしか知らない世界です。
「父親が伊豆の駅長でね、率先して戦争宣揚してたのが戦後、態度がコロンと変わりやがって・・・。仏壇に空手チョップ喰らわしたら、簡単に壊れちまいまいやがんの」。
悶々とする生活。「てめえ、俺を殺す気だな」と仲間から一喝された時、落ちたナイフの音で目覚めた。「俺は何をやってるんだ」と、当時を回想していました。
その後、修練の末、コントラバス奏者としてジャズ・バンドに入ります。給料はサラリーマンの十数倍とのことでしたが、演奏中に先輩のメンバーから楽譜立てを投げつけられたこともあったと、まるで昨日のことのように憎々し気に語ります。いつでも口髭を整えたプライドの高いダンディーな人でした。晩年は生活に苦しかったようで、案内チラシに「香典の前借りを」と書き添えられたライブ当日が本当の葬式になりました。
友惠の音楽ライブ・セッションの仲間であり、ゲストで呼んだ私達の舞踏公演の打ち上げで、私に自分にもしてくれと「白塗りメイク」をせがむような、剽軽で誰からも愛されたドラマーのジョー水城さん(即興ジャズの他、日本最高のグループ・サウンズ「寺内武とブルージーンズ」にも参加。友惠とのライブでは実際に顔に「白塗りメイク」をして出演したこともあった)。ある日、駅のホームで切符を落としたの。拾っても拾ってもズーと落ちてるんだよ・・・。気が付いたら駅員室に呼ばれた奥さんに平手で殴られていた。彼が拾おうとしてた切符はホームの白線でした。
彼は土方と同じ57歳で亡くなられましたが、写真誌に死に顔が掲載されるなど即イベントになるような土方の死と違い、一人の部屋で亡くなり、遺体が発見されたのは死後3週間経ってからでした「酒かな。ジョーさん、俺の3倍位飲んだから(友惠もボトル一本くらいは飲んでいました。私は土方と二人で飲みにいったことは一度もありませんでした。『小さい頃から父親の膝の上で飲んでいた』と誌面で酒豪をプレゼンテーションしていた土方は普段は全く飲みませんでした。私が酒の味を覚えたのは友惠と付き合ってからです。目蒲線(現・南北線)の不動前駅のおでんの屋台に初めて行ったのですが、意識も半分朦朧とした私が日本酒半分下さいと言ったら、屋台の店主に大笑いされました)。
地方でのライブ・イベントなんか接待が多い訳、本番ライブの次の日もね。朝起きるとビールが出てきてね。こっちは次の予定もあるんだから接待もそこそこにして欲しいよと言いながら彼、ワイン、日本酒と出されるもの途切れなく飲んじゃう。そして、そのまま車の運転するんだもの」。
今、聞くと犯罪というか物騒な話ですが、土方が実は酒は強くなかったのに対し、ライブ演奏家の中には普段から酒の海で泳いでるという人も珍しくありませんでした。演奏中は極限まで神経を研ぎすましますのでクールダウンが必要だったのでしょう。今は健康志向の人が多いようです。
即興音楽家というのは、自分をインスパイアーさせるために旺盛な好奇心を持っています。また、野生の動物のように用心深いが適応力が高い。普通、友惠のディレクションで私達の舞踏公演にゲストにお招きした演奏家とは本番当日に段取りの軽い打ち合わせをするだけです。勿論、作品構成、照明、音響などこちら側の準備は怠りません。
吉沢氏とは私達のカンパニーは50回程ライヴを伴にしましたが、彼の場合は稽古の段階から付き合ってくれてもいました。
土方と同年輩、私より一回り友惠やメンバーとは二回り以上年上で、多彩な修羅場を潜った吉沢の体はコントラバスを構えるとドスを放ち、私達踊り手にとってはやはり恐い存在でした。友惠は「当たり前だよ、一緒にポエム創るんだもの。相手だって恐いんだよ」。
全ての生き物にとって「一つの命に一つの体」という命題は算数と同じ様に純然たる公理。生きることはライブ・コラボレーション。永遠の今があるだけなのでしょう。
52 「あなた、何で踊っているの?」
再三述べてきましたように'60〜'70年代、土方舞踏は彼がブレインとする文学者のアート誌等への批評文によって現代アートとして喧伝されてきました。
当時の文学者にとっての批評文は、単なる批評を超えそれ自体を文学作品として自立させようとする文学者の野心を窺わせます。当然、批評文学の作品としての魅力は、その対象との関わりよりも執筆者その人の魅力に直結するものでしょう。文学者の舞踏批評は美術における学芸員、音楽における解説者のスタンスとは自ずと違ってきます。彼等は舞台アートの実質的な技術には一切触れていません。ライブ公演の創作構造を知ることは文学の創作範疇から抜け出なくとも賄えるものと感じていたのでしょうか。それとも自身の創作の契機にでもなれば良いと思っていたのでしょうか。
彼等のお陰で土方舞踏は前衛アート業界で先鋭的に喧伝されました。
その頃、劇場経営を手掛けようとしていた、自身小説家でもあった西武デパートの社長も追随してくれました。
しかし、友惠の言を借りればライブ・パフォーマンスにおいては「一流のボードビリアン」的資質を備える土方の手に掛かっては、ライブを知らない大学出の一流のお坊ちゃま達を掌で廻すことぐらい、日夜接待費で遊ぶ大企業の重役連相手のショークラブの仕事(男性の金粉ショー=全身を金色に塗ってのダンス)でプライドの高い観客の嗜好を熟知した土方にとっては、お手のものです。
どちらに対してもポイントとなるのは「女性の裸」でした。体に塗った金粉を白色に換えれば、それは未開人のアニミズムを連想させ、アート作品と早変わりもします。
斯くて文学批評家達の助力から、舞踏は土方の出身地である戦前の秋田の寒村の悲惨(売られていく遊女、身障者、作男)と、当時、西洋哲学でモードとなっていたフィールドワークの求めていた原始性を表象するものとしての文学的世界観を獲得します。
これは新宿育ちで特別に生活に困ったことのない私(美術大学に通う)とは縁遠い世界観でしたが、人前で「裸になり」異様さを演出する「白塗りメイク」をすることで前衛アーティストへのイニシエーションを乗り越えているとの自負心を持つことも出来ました。またショーダンスの仕事に駆けずり回りながらも、寝泊まりする稽古場では清貧(一汁一菜)を貫くことで、舞踏の世界観を体現しているとの意識も堅持していました。
土方の稽古では(役柄上立ち姿の土方をクローズアップするため?座り技が多かったのですが)、土方から「蛙足」と揶揄されても、不貞腐れることなく陰でも一人で稽古していました。踊り手にとって、日々の体の管理は欠かせない課題です。今も変わりません。
実際の創作現場で必要とされる修練による体の実質感覚を抜きに、観念的な文学家の批評によりプレゼンテーションされた舞踏のイメージは、踊り手としての私には遊離するものと感じられました。
ただ、当時の私としてみれば土方の指示に従ってさえいれば、社会的な評価も得られていましたし、それが土方への信頼の根拠ともなっていました。
土方の存命中は、踊りの動機も含めて土方に任せっきりでした。しかし土方が亡くなってからはそれでは済ませられません。
そこのところを友惠は鋭く突きます「あなた、何で踊っているの?」。
'70年以降、それまでアドリブ的パフォーマンス(私達弟子へ指示する踊りの形も三つ四つしかなかった)で公演を行っていた土方は、踊りとしての舞踏を確立するために振付けに専心するようになります。
しかし、新たに舞踏家を志そうとする者は、それまでに著名な文学者によって言葉で喧伝された舞踏のイメージに心酔し、その定番化した世界観の登場人物を演じようとします。「白塗りメイク」さえすれば簡単に役柄は手に入れられる気にもなりました。小学生が愛読するコミックのキャラクターに成り切ったような。
彼等は他の舞踊ジャンルや演劇等舞台アートに必須となる身体訓練、振付け、演出等の技術(そんなものはありませんでしたが)は時間と労力が掛かり過ぎる故に関心を示さず、既にプレゼンテーションされ保証もされていた文学的フレームの中で自身の体を展示することに専念します。結果、舞踏はコンセプトアートの色合いを深めることになっていきます。
これは'70年代以降、舞踏を踊りとして確立させようとしていた土方とは逆行します。私にしても、技術の裏付けがない踊りには自信を持ちきれませんでしたし、また人前での「女性の裸」も年齢的な制限も感じていましたので、土方との新たな振付けの模索は私に踊り手としての誇りを持たせるものでもありました。
「白塗りメイク」を施した舞踏に対して差異化を狙う者は「黒塗り」にし彫刻的な人物像を装ったり、余情を漂わせるための表現技術など不要な猥雑なだけの表情[※5]を造り野外パフォーマンスを演じる者が氾濫します。彼等の奇を衒っただけの表現も体を抜きにした文学者の観念的批評をフレーミングすることでアートとしての保証を得ることになります。
言葉においては文学という土俵で精査された修辞学を身に付けていない舞踏批評家達(殆どが西洋舞踊批評家出身)が文学者の批評法を模倣しようとしたことで、上記の舞踏家達の恣意的な行動を助長し、舞踏を迷妄させることに拍車を掛けます。
舞踊批評に哲学的、文学的方法を用いるなら充分な下地が必要なのではないでしょうか。
[※5]友惠しづねと白桃房は2010年「日本顔学会誌Vol.9」に「舞踏の顔」と題する論文を寄稿しました。当カンパニーの顔表現は、踊り手の体とそれを取り巻く舞台環境との密接な関係から創られるものですので、本来それ自体を抽出して扱われるべきものではありません。しかしながら、踊り手の顔表現の写真をふんだんにサンプルし、その表現技術の仔細を解説した当論文は、私達の舞踏表現の独異性を表象させるものです。
単に奇を衒う表現を快しとしない友惠舞踏の顔表現は、質と量は言うに及ばず、その意味に於いても他の舞踏家とは一線を画します。ご興味がある方は「舞踏の顔表現」(日本顔学会)の寄稿論文を添えたDVD「蓮遙抄」(2016年発売)をご参照下さい。
そもそも、土方と彼のブレインであった文学者達との関わり方(体と言葉)は創作者同士の真の交流=コラボレーションになっていたのだろうか?と友惠は疑問を発します。ライブの体と文学の言葉に共通のフォーマットを見出すことは容易いことではない。土方舞踏が彼の創作に何れ程の影響を与えたのかは安易には語れませんが、三島由紀夫だけは「体と言葉」の関係を独自に展開した稀な例だと思います。彼の存在によって他の文学者達が土方舞踏に関心をよせる契機にもなっていたのでしょう。
土方と三島の付き合いは、土方の舞踏家デビュー舞台となった三島の同名小説「禁色」をモティーフ?にしたことは、先に発表した友惠しづねの「舞踏、その体と心 友惠舞踏メソッド」にも触れられています。
'61年に土方の舞踏写真集が出版され評価されますと、'63年、ボディービルで鍛えた体により三島も同じ写真家により写真集を出版、映画等にも出演します。
それに留まらず自衛隊の訓練に参加し、その最期は文学的な脚色に彩られます。彼の小説「憂国」にエロスを感じる読者もいるようですが、三島は「体と言葉=ライブと文学」のコラボレーションの形の一つの極北を提示しているとも捉えられると、友惠は言います。「彼は文学者であると同時に一流の舞踏家。言葉とライブの間に齟齬がない」。
三島の最期の行為に対する「体と言葉」をテーマとする視座からの批評は文学者側からも舞踊批評家の側からみられません。結局、言葉を生業とする人間の本来性はライブとは簡単には馴染み得なかったということでしょうか。
三島事件の報道がされたその日、何人かの文学者が土方の稽古場に集まりましたが、土方はただ居るだけで何も喋らず、自然散会していきました。
53 奇跡の舞踏メソッド「友惠舞踏メソッド」
土方は講習会などでは、設置した一間物の戸板(美術パネルとして使用)の前に立ち、「自分の体が戸板に入り、戸板に成る」というようなことを講習生達に語ることがありました。体が物と同化し物と成る・・・講習生達は固唾を飲んで土方の言葉に耳を傾けます、まるで禅宗の悟りの講話を聞くように。それは土方の舞踏の目指す身体技術の理想だったのかもしれません。
しかし実際の公演の稽古では、私は教えられたこともありませんし、土方本人がそれを踊っている姿も見たことはありません。彼の求めていた理想ではあったのかもしれませんが飽くまで観念に留まるものでした。振付けは古典絵画からの人物模写が主な素材となります。
ところが友惠はこれ(物に成る)を平然とやってしまいます。私達メンバーの前で自ら手本を見せます。
土方舞踏の美術では使用する戸板(雨曝しにされ、くすんでいる)には文学性の主張(田舎屋のイメージ)を盛り込もうとしました。それ故に、戸板を純化した物自体として取り扱う必要はなく、入手した時の侭の物を並べていました。
しかし友惠は「吐き気がする(友惠の場合、この言葉は比喩ではなく純粋な生体反応。意識は醒め切っている)」と、一枚一枚の戸板を焼き入れし水洗いさせます。
こうした気遣いを施すことで当てられた照明の光は、木材本来の肌と年輪が浮き彫られた戸板表面のテクスチャーにゆっくりと飲み込まれ、光の粒子達を
嵶
やかに放射させます。人の体も畢竟、物それ自体。無防備に受け入れた照明光は肌に染み込み、四季を知る踊り手の
心根
に感応し淡い光を滲ませます。両者の想いが親密に触れ合う時、物と人の体は浸潤します。
「八百万(多彩)の神」との営みの中で培われた日本文化には、「一木一草皆悉く・・・」という世界を一括の生命観で心=体を捉えようとする思想が息づいています。
友惠舞踏は、主客を対峙させることに違和感を覚える日本人の
体観
の独異性を表現技術に落とし込むことで普遍的なコミュニケーション手段として確立することを目指しています。
舞踏表現の特徴の一つに顔表現があります。
欧米人と比べるとノッペリとした顔立ちの日本人の表情、その表現は時に曖昧であると指摘されますが、このことについて「日本顔学会」の原島博氏は「日本人は表情のコミュニケーションが少ないのではなく、表出するのが小さい割に、読み取る能力が高いから、むしろ豊かな表情やコミュニケーションをしているのではないか」と述べます。
土方も日本人の表情表現の特質を「漆器」に例え、その奥行き感を醸す光彩を舞踏の身上と位置づけますが、実際の彼の舞台、プレゼンテーション用の写真での表現は直截的な表現効果を優先するキャラクターナイズされたものに終始します。その理由は、土方がそれを表現する素養を備えていたか否かは別として、多種の表現型を揃えながらも、そのファジーな差異を明確化する技術の習得は簡単ではないからです。
舞踏を生齧りした外部者に一朝一夕で教えられる技術ではありません。
繰り返しになりますが、ある時代、「舞踏は世界に・・・・」と武智鉄二氏が批判するような状況から、今日では海外に欧米人による舞踏研究所なるものもあるようですが、私にとっては永久に無縁なものです。
日本のアート表現に「見立て 」という技法があります。これは古来から日本の地域社会に根付く神々と輸入思想である仏教との生活文化における親和法「本地垂迹」から自然に生み出された形であると、友惠は言います。ここら
辺
の理解を、まず自身が極めていくことから始めないとグローバル社会において心と文化の交流は時節の政治、経済が主導するに任せることになります。
顔表現に限らず、それと連動し合う身体表現、作品構成、振付け、美術、音楽、演出(照明、音響)、即興コラボレーションなど総合的な舞踏技術の開発、習得のために、私達メンバーは30年以上共同生活を送っています。
「友惠舞踏メソッド」は舞踏唯一のメソッドです。
私達は舞踏の精髄を生き抜いている奇跡的なカンパニーだと自負しています。最近は路上で
躓
き転んだだけで骨折してしまう私ですが、骨の髄からそう想います。これも友惠という不可思議で真正直な存在がある故でしょうか。
土方の稽古場を出て少し落ち着いた頃(40歳半ば)、私は自動車の免許を取りました。友惠の地方での音楽ライブにも高速道路に乗って付いて行ったこともあります。車好きの友惠の共演者の音楽家達には笑われながらも随分と心配されました。今は電動自転車で街中を闊歩する毎日です。友惠からは「お願いだから三輪のものにしてくれ」と頼まれますが、私の生き方を止めることは誰にもできません。パラメーターの数は少なくても自転車の速度は結構、信用できます。
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