私は当カンパニーの主宰者として踊りの舞台(振付け、演出)だけではなく音楽も担当しています。作曲がメインですが、日本の即興音楽界の嚆矢、コントラバス奏者の吉沢元治(’98年没、享年67歳)とギタリストとして即興デュオ・グループを組んでいたこともあり、その流れから踊りの公演での即興舞台創作の方法を開拓していくことになりました。
即興演奏は大変ユニークな表現スタイルです。共演者達は何の打ち合わせ(リズム、キー、作品構成など)もしないまま、即、演奏に入ります。
私などは外国語も話せませんし、普段は全く無口ですので、初対面の共演者に対しても「初めまして、宜しくお願いします」、終演後に「お疲れさま」の二言しか喋らないことが普通です。それでも演奏は滞りなく(実際には修羅場)行われます。しかし、百の言葉を弄するよりも相手が「何者」なのかが分かってしまうと同時に分かられてしまっています。これが言葉ではなく音を媒介にした即興演奏の醍醐味です。
即興演奏家達は皆、好奇心旺盛です。初対面での新鮮さを好みます。私の踊りの作品にゲストでお呼びし、作品の構成表を見せて「ここで、演奏をお願いします」と言えば、「はい、はい」で打ち合わせは終わり。ただし「こういう風に演奏して下さい」との要請は絶対に禁忌です。即興演奏には演奏内容に関しては互いに関知しないというルールがあります。お互いに音楽論などは語り合いません。相手に対する押し付けになるからです。実力の無い人は弾き跳ばされます。
演奏中は「無心」が必須になりますので、演奏に対する純粋性も過剰になると、たまに日常生活に齟齬をきたす人も現れます。いわゆる怖い人です。
こうした演奏家達とのコラボを通じ、踊り手達の体は鋭敏になっていきます。それは振付け家=演出家から指示された踊りを踊る踊り手達の生き物としての体が前提として備えるべき技術を養います。
今回の私のテキストは、まず、ざっと即興音楽と実験的(恣意的)パフォーマーとの関わりの歴史を追い、次に実際に踊り手が演奏家とコラボするために必要な方法を具体的に開示していきます。
ここからは、あくまでプロ仕様ですので、興味がある方だけお読み下さい。
’60年代ジャズ、ロック、民族音楽のアドリブ演奏から発生したジャンルに即興音楽(フリー・ミュージック)があります。’70年代に入りノイズ・ミュージック、現代音楽の演奏家を巻き込む横断的な活動はそれまでの形式を否定することで音楽概念をアクティベートさせようとしたジャンルでした。
ノン・リズム、ノン・キー、時間無制限、打ち合わせ無しで始められる演奏家達の出身ジャンルはまちまちです。
しかし如何なる表現=コミュニケーション手段もジャンルとして確立されてくると逆説的に硬直化し破綻の兆しが現れるのに時間は掛かりません。
’80年代前半こうした即興音楽の状況を打開する方法としてポスト・フリーが生まれました。
共演者同士が打ち合わせ無しで演奏することをモットーとした即興音楽は、常に袋小路に陥る(収拾不可)リスクを孕んでいます。このリスクがスリルに転化する起因になり、演奏者と観客に共有されれば一つの音楽スタイルとしての魅力をキープできます。
しかし演奏家が予見不可であった筈のリスクに無意識裡に保険を掛け出した時、最早その演奏は馴れ合いに堕し魅力を失います。中にはパターン化を避けるために強引な振る舞いをする演奏家もいますが、元々、即興音楽は先鋭的とは云えアンサンブルを重視することは他の音楽ジャンルと変わりません。共演者には彼の行為は我執に拘ったスタンド・プレーとも映ります。
そこで演奏家に規制(枠組み、ルール)を課すことで演奏を潤滑に展開させ、作品が冗長になることを防ごうとします。この規制された方法による即興音楽をポスト・フリーと呼びます。
例えば指揮者の任を請け負う音楽家に指名された演奏家だけが「止め」の指示が下るまで指揮者の指示内容(早く、静かに、リズムを合わせてなど)に沿う範囲で即興演奏を行うという方法です。このようなゲーム感覚を導入した方法は当時の演奏家や観客達に、即興音楽の新たな可能性を示唆させる斬新な試みと評価されました。しかし、その方法も確立されてしまえばマンネリ化し新鮮さを失います。
同じ頃、身体表現のジャンルでも即興表現を方法として取り入れようとするムーブがありました。今日とは違う意味で使われている「パフォーマンス」(当時は身体表現の一ジャンルを括る名称だった)が前衛アートとして紹介されます。
即興表現という共通志向から即興音楽家とパフォーマーは「コラボレーション」(当時はアート業界における異種ジャンルの共演という意味で使われていた)という新規なアート表現の形態が生まれようとします。
しかし元々、技術を含め既存の音楽的背景を持つ演奏家と、身体技術、表現の背景を持たないパフォーマーとは即興に対するスタンスが大きく違っていました。
楽器の技術習得に多大な投資が必要な演奏家は表現の可能性を如何に拡げるかに興味を持ちます。一方パフォーマー(多くは舞踏家を自称する)は即興が要諦とする一回性という概念を恣意的に解釈しライブに臨みます。こうしたパフォーマーの表現価値は「他人志向」(アメリカの社会学者、デイヴィット・リースマン『孤独な群集』1950年刊を参照のこと)に足場を置き、表現の意味付けを言葉によるプレゼンテーションに頼るものも多く、実質価値(実際の体表現)と遊離せざるを得なくなります。
このようなパフォーマーの行為は即興演奏家とのコラボなど新奇ということもあり、前衛アートという名目で一時的に耳目を集めはしましたが実験性に留まるものであり、ジャンルとしては確立し得ませんでした。
演奏家と身体表現者の即興ライブをジャンルの技術として提示できたのは友惠舞踏メソッドによるものが唯一無二でしょう。
’89年即興演奏家と舞踏家とのコラボ・シリーズ公演「風に寄りそう女」は第一回池袋演劇祭で大賞を受賞しています。
今尚その技術は開拓、研鑽され国内外を問わず他ジャンルの多くのアーティスト達との公演、ライブで披露し続けられています。
■基礎編
○演奏家など他ジャンルのアーティストとの即興コラボにおいても作品性を重視する友惠舞踏メソッドでは作品構成に多くのバリエーションを持つため、その都度踊り手には具体的な表現法を提示します。
如何なる作品構成パターンでも1シーン、7分以上はやらない(踊りの内容がパターン化してしまう。7分×3シーンで20分続けてできれば一流のプロ。この時間以上、即興コラボをできる踊り手は世界に誰もいない)。
上演時間を無意味に間持たせさせるような踊り手に対しては、演奏家はお座なりの演奏で合わせることになる。これでは即興コラボとは云えない。
踊り手はリハーサル時での演奏家の立ち居振る舞いと、本番での初めの数秒の演奏からその人となり、実力、その場での演奏の志向性を把握しなければならない。
私は、「取り敢えず、やってみよう」という姿勢を認めません。取り敢えずは取り敢えずを加速させ、人生そのものを取り敢えずで終わらせるリスクを背負うのは御免だからです。
踊り手は自らの体とそれがよって立つ舞台を鳥瞰する目を持っていなければならない。ただし、観客は舞台を透視図法では観ていないことを忘れてはならない。彼等は自身が照準を合わせる視線、その強度と無意識裡に入力される周辺視野の情報との関係から、光も捩じ曲げる宇宙の重力場として舞台を捕らえている。友惠舞踏では舞台のスペースは均質とは捉えません。
話が抽象的になりましたので具体的に説明します。例えば、歩道を歩くAさんの前から恋人が歩いてきます。目の合った二人の距離感は、互いの引力により実際の距離より縮みます。この時、路地裏から浮気相手と思(おぼ)しき人の姿がAさんの周辺視野に映ります。Aさんにとって、もはや歩道は真っすぐではなくなります。腕時計の秒針が腓(こむら)返(がえ)りを起こします。下手すると短針までもゆっくりと逆回転しかねない。
友惠舞踏の舞台は何時でも日常とパラレルです。
踊り手は演奏家の出す音(リズム、メロディー)に直接反応してはならない。猿回しに廻されるだけの猿にも観えてしまう。踊り手の音への直接的な反応は、実は演奏家にとっては興を冷めさせる。
そうならないためには、踊り手は音という聴覚情報を他の感覚情報に変換して捉える。例えば演奏家から発せられた音を自身が立つ処の舞台に描かれた風景として、或は触(さわ)れるテクスチャーとして聞く。
踊り手は舞台から明確なメッセージを生み出すディレクターとしての視座を持っていなければならない。そのためには作品創作としての構成力が必須の技術になる。
一番注意しなければならないことは、演奏家と終わり方の呼吸を合わせること。
共に同じ現場を生きることの有り難さを知らないアマチュア(逆説的だがプロは怒濤の謙虚さを持ち続ける故に永遠のアマチュア)とは一緒にやってはならない。踊り手に過剰な付加が掛かることで現場でのペースが乱されるだけではなく、作品が破綻することがある。
○演奏家一人と踊り手一人のシーン
上記のことを守ればよい。
演奏家は体を持ったパフォーマーでもあることを忘れてはならない。彼等の演奏中のアクションは踊りでもある。
○演奏家一人と踊り手二人のシーン
踊り手の一人は舞台後方で動かず、全体の場をディレクションする役割に徹する。二人の踊り手が同時に舞台上を動き回ると演奏家はどちらに照準を合わせていいか迷い、場が崩れる要因になる。二人の踊り手は一つのシーンの中でポジションを入れ替えることは可能。
○演奏家二人以上と踊り手一人のシーン
二人同時に演奏させない。踊りの場であるにも関わらず演奏家だけでアンサンブルを完成させることが侭ある(演奏家の本能から無意識裡につるみ易い傾向を持つ)。力量がない踊り手の存在は場から浮く。
複数の演奏家がいる場合、舞台上の同じ場所に配置しない。舞台上(客席も含める場合もある)に散らばらせて配置すると、演奏家の踊りへの関わり方の違いを演出要素にでき、作品構成にメリハリが付く。 また照明操作(演奏家に当てる)により演奏家への演奏開始、終了の指示が明確になる。
演奏家が主導権を持つ場(例えばライブ・ハウス)に踊り手が参加する場合、舞台への出入りのタイミングを見極める。
演奏家の備え持つ演奏内容=引き出しの数(テクスチャー、色合い、軽佻・重厚感など)は誰しも限られている。そのために一つの演奏内容は一定時間キープするのが基本となる。これは一度行なった演奏内容を繰り返すと演奏の進行に澱みをきたす怖れが生じるからである。
これは踊り手にも当て嵌まる。自身の持つ踊り表現=引き出しの数を把握し時間配分を意識し続けなければならない。ただ、一度舞台に体を晒した踊り手には演奏家と違い無音(居ない)という表現手段が無い。踊り手は余程の力量と構成力を持っていない限り20分以上出演するのは危険。それを超える出演が要請される場合はインターバルをとる。能楽のコンセプチュアルな作品構成・複式夢幻能も観客を飽きさせないための実践的な方法として出演者の衣装替えの時間を組み込んでいる。
たまに1時間以上出演し続けるパフォーマーもいるようだが、技術的キャパシティー(引き出しの数)の限界から、半分以上の時間は意味持たせをした動きの無いオブジェ(演技)として振る舞う他ない。共演する演奏家にとっては興を剥ぐ行為としてしか捉えられない。
※コンセプトを骨子にもし得る欧米の「インプロビゼーション」と日本文化を表徴する一期一会の「即興」との違いに、輸入文化に馴れ親しむからか、向き合おうとする日本人の演奏家は意外と少ない。
では欧米人の演奏家に日本の「即興」が理解できるのか?私の体験から云えば、互いの文化的差異を一瞬で乗り越えられてしまっている。これこそが言葉の壁を霧散させる音楽=踊り=体を駆使したライブ・コミュニケーションの魅力です。その時、意味持たせのコンセプトなどは肴のツマに成り下がります。食べ残しのツマは随分と使い回しされてもいるようですが。
○演奏家二人と踊り手二人のシーン
演奏家Aと踊り手a、演奏家Bと踊り手bという2組が、それぞれ一つのシーンで同時にコラボする。
演奏家AとBは直接には絡まないが、演奏家という生き物は聴こえてくる音に自分の出す音を無意識裡に同期させてしまう習性を拭えない故に、不思議とシーンが乱れることはない。
○演奏家の即興演奏と振付けを施された踊り手とのシーン
踊り手は自身の動きの「間」と体の質感(奥行き感、滲み感、擦れ感、抜け)を演奏家の繰り出す音から彼等の資質を直感的に把握し、場を俯瞰した上で同調させる。
上記のパターンによるシーンを組み合わせて一つの作品とする。
尚、舞台照明の切り替えは舞台上で繰り拡げられる物語の意味を大きく変えられる。しかし、これを事前の相談もなく演奏中にやられると演奏の流れを一貫させることができなくなる。一回性のライブに臨むにあたりギリギリのテンションまで自身を追い込む術(すべ)を常套とする演奏家の中には一生恨みを持つような人もいる。かく言う私もその一人です。未だにフラッシュバックがある。原則として演奏中は舞台照明を切り替えてはならない。
音響(イコライジング、エフェクター、ボリューム)はリハーサル時に演奏家が納得いくまで調整する。踊り手はこの様子を客席から観て舞台上の音場を捉える。演奏中はハウリングなどの突発的事態が発生する以外、リハーサル時に決めた音響に固定し任意な音響操作は一切してはならない。これをやられると演奏のスタンスが根底から崩れる。コラボは互いに相手の身になることが基本となる。
■中級編
○演奏家、踊り手に美術家も加わった場合。
普通、美術家の作品は美術館、画廊で発表されますが、鑑賞時間は数秒から数分と短い。1時間を超えるライブ舞台に対応するようには作られていない場合も多い。
そんな美術家の作品をライブ舞台で一人の出演者として或は風景として演出するには照明の吊り込み(設置)等段取りと操作がキーとなる。多様な照明の当て方で美術作品が内包する多彩な魅力を引き出せるからだ。
これには劇場とそこに設置されている照明システムを熟知した上で舞台創りをしていくことになる。美術作品からインスパイアされた創作は、踊り手側の作品の構成力と演出技術に掛かってくる。段取りさえキチッとしていれば、即興演奏家は如何なる状況への対応力も備えているので心配ない。
踊り手には美術作品の形状、テクスチャーに自身の体を浸潤させる技術が要求される。この作業を潤滑に行うには踊り手は美術作品を預かり、自身の生活空間の中で一緒に寝起きしてみるのも良い。作家の人となりが直に伝わりもする。
○演奏家、踊り手に詩の朗読が加わった場合。
発声訓練もしていない詩人は元より役者の詩の朗読でも、即興ライブに対応する技量を持った者は殆どいない。何故なら一度意味に還元する言葉の伝達速度は、視覚、聴覚を媒介にする知覚伝達より遥かに遅い。それでもライブ公演が成立するのは殆どの場合、演奏家が現場の状況に合わせてバック演奏に徹するからだ。
踊り手は、即興のアンサンブルの何たるかを知らないが故に独善に浸り易い朗読者とは適度な距離を持つべき。コラボ公演では朗読者の朗読する詩を事前に熟読し、彼等の技量、人間性を把握した上で彼等を立てる心構えが必要となる。
踊り手は朗読者の発する言葉の意味に直接反応してはならない。朗読者の言葉の意味と声を混淆物と捉え、風景として還元し直し、自身の体の質感を浸潤させることが基本となる。
一見、曖昧とも想える感覚情報で成り立つ音楽、踊りと、直接的な意味を備える言葉との関係を模索することは人類のコミュニケーションの、より原初的な手段を提示する可能性を秘める故に開拓すべき沃野は広い。朗読者が個性的なボーカリゼーション技能を有している場合は、言葉と知覚を隔てるコミュニケーション上の壁はより浸潤し易くなる。
○作曲作品による振付けシーンと演奏家とのコラボ・シーンの組み合わせで構成される作品の場合。
作品構成には「前半に演奏家とのコラボ、後半に作曲作品による振付け」「前半と後半に作曲作品による振付け、中盤に演奏家とのコラボ」「両シーンの入れ子構成」など幾つかのパターンがある。
作品構成は共演する演奏家と、踊り手の人数とそれぞれの個性(体の資質、技量)、劇場の照明、音響などのシステムと劇場の形状、テクスチャーを総合的に考慮に入れて創られる。
踊り手の一人が作品の構成、演出を兼ねる場合は作品全体のディレクションを優先させるために、自身の踊りはフォローに徹する。
作品構成が作曲作品による振付けと即興シーンとの「入れ子構成」の場合、演奏家と踊り手のコラボ・シーンは成り行きが読めず、続く作曲作品による振付けシーンに巧くバトン・タッチできるとは限らない。
作曲作品による振付けシーンの前(演奏家とのコラボ・シーン)に出演する踊り手は、作品の流れを俯瞰し全体をディレクションできる力量(時間構成、空間構成、踊りの間と色合いテクスチャーが醸す意味を自在に調整する役割を担う。当カンパニーの作品では殆ど私が受け持っていた)を持った踊り手が担当する。
○他の身体表現ジャンルと踊り手のコラボの場合
踊り手には場を俯瞰する目が必要となる。
飽くまでもアンサンブルが重要になるので、相手を全肯定したうえで自身の独異性をもった技術で現場をディレクションしていく。
アンサンブルの意味を知らないアマチュアとはやらないことが基本となる。それでも心があると想える人に対しては育てるという姿勢で臨む。
○伝統音楽(邦楽)と踊り手のコラボの場合。
倍音成分が多い和楽器の音は場の空気感に自然に浸透していく性質を持つので、踊り手はピッチだけでなく音のテクスチャーを意識し体に浸潤させていく。
不思議なことに和楽器同士のアンサンブルはピッチが多少ズレていても成立してしまえる。これは邦楽の独異性であろう。
※三味線の一の糸(一番太い弦)には倍音成分(西洋音楽ではノイズとも解釈される)を意識的に生かすために上駒(弦楽器の0フレットを定位するナットにあたる部分)が無い。
○西洋クラシック音楽(オペラ)と踊り手のコラボの場合。
作曲作品でも歌手、演奏家の表現する質感の違い(声、音、体)により踊り手は体の質感(奥行き感、滲み感、擦れ感、抜け)と踊りの間を変えていかなくてはならない。
振付家は西洋音楽メソッドによる楽曲譜面に合わせるだけの振付けで事足りると思ってはならない。飽くまでも環境(生き物が生きる場としての劇場と多くの共演者達)と共存する人間(=環境内存在)の体と心への配慮が要諦となる。
プロデュース公演の場合、評価は個別(例えば、コンダクターは『ああ』で、ソプラノ歌手は『こう』で、演出は『そう』で・・・)に成されるが、その評価基準に準じる必要は全くない。友惠舞踏は常に作品全体のアンサンブルを第一義と考える。間違っても、自身の表現を強調しようなどと思ってはならない。作品全体を鑑み、やるべきことをやるだけ。それが生きる意味に直結する品(ひん)というものだ。虚栄心丸出しの者もいなくはないが、下愚は下愚、放っとけば良い。
■応用編
○テレビ会議システムを用いた遠隔2地点ライブ公演の場合。
「2地点」それぞれの劇場(例えばNYと東京)には、互いを映すモニターが劇場内に設置されている。それぞれの劇場には演奏家と踊り手、即興ライブに戦々恐々とする技術スタッフ(どうしたらいいんですか?との彼等の問いに、私は『命懸けで遊べ』との指示を出してみたりする)がいる。
こうした状況で互いが共有し合う一つのポスト・フリー・コラボ作品を創るには、二劇場(照明、音響、カメラ・アングル、映像エフェクト)とそこに出演する複数の演奏家、踊り手の技量、スタッフの人間性を把握し尽くすことが必須となる。全て構成演出家の力量に掛かってくる。
作品上演においては管理、操作しなければならないパラメーターの数とその組み合わせ数は桁違いに多くなるため初級、中級編の技術を身に付けた者のみが対象となる。
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