土方舞踏の振付けの特徴に言葉の指示により踊り手に映像イメージを喚起させ、そのイメージに踊り手の体を関わらせる方法があります。
例えば「線香の煙」は直線的に立ち上るのではなく、部屋に流れる微妙な気流により揺らめきます。踊り手はこの煙の動きを、自分を取り巻く空間上にイメージ(映像、質感)し、そのイメージを自身の体に関わらせます。踊り手の体は頼りなくゆらゆらと動きますが、その動きの根拠を知らされないで見る観客には、何とも不可解に映ります。
この観客が享受する不可解さが土方舞踏の魅力に繋がります。
逆に言えば、観客が踊り手の動きの根拠を知ってしまえば不可解さは解消され(興ざめし)、土方舞踏の魅力は減衰、霧散します。
この振付け法は、指示する言葉が世界観(この場合、線香という言葉から日本人の原風景を連想させる仏教とその儀式)を含んでいることで、踊り手にその世界観を体現している気分に浸らせます。フィジカルな修練は必要としませんので身体表現の未経験者でも直ぐに出来、尚かつ観客をも幻惑し得ることで舞踏家としての充足感を簡単に得ることができます。
観客と踊り手の関係に生まれる緊張感は、踊り手の動きから観客が覚える不可解さに掛かってきます。踊り手の動きのあらましが明かされれば観客は(な〜んだ)と早急に興味を失い、彼らの関心を得られないことで踊り手は自らが味わう筈の充足感を失います。
そこで土方は自身の振付け法を「門外不出」、「秘伝」とプレゼンテーションし、舞踏の神秘性を言葉により更に脚色しようとします。そこで使われる言葉(営業上の即効性を求める故のキャッチコピー)は、それ自体で一つの独立した世界を形成していくことになります。
それまで日本の西洋舞踊界の観劇層は自らが踊りを嗜む業界人とその関係者が主で、シェアは限られたものでした。ところが踊りというアートに、文学的要素を付与することで舞踏は文科系(小説、詩、哲学)のブレイン、観客層を生み出すことになります。
観念的解釈を煽る言葉によるプレゼンテーションが過剰になるに従い、舞踏は現代アートとしての高尚さを纏いますが、実際の舞台上演での踊りの深みとは遊離していきます。
元々、舞踏はライブ、身体表現の未経験者(野心だけは一人前に持ちながらも修練という言葉とは縁が無い)を早急に取り込むことで成立してきた舞台アートです。踊りとしての技術的なコードはありません。過激さ、エロスを直裁的に演出するために出演者には坊主頭、裸(特に女性のそれにはインパクトがあった)、白塗りメイクという意匠を施し、異様なポーズをさせることで耳目を惹きました。
見た目のインパクトを優先させた表現方法もパターン化すれば力を失います。舞踏はその存在基盤を問われることになります。この動向を逸早く感じとったのは土方でした。
それまでマイナーアート界での即興的ライブパフォーマンスでは先陣をきり続けていた彼ですが、舞踏がアカデミックな評価を受けつつあるなか行われた彼の商業劇場での公演の大きな失敗(`73年渋谷PARCO 9階の西武劇場公演)が契機になり、発想の転換を強いられたのかもしれません。
時代も発表の場も変われば、いわゆるノリで作るような作品形態が通用しないことを身をもって知らされる訳です。即興的パフォーマンスという表現方法には限界を感じたのでしょう。
そこで舞踏は舞踊の一ジャンルとしての技術的な基盤(体の動きと形)を希求するようになります。
団員集めのための講習会も盛んになるなかで舞踏技術のメソッド化を図ろうとするムーブが起こります。
彼は舞踏には確かなる技術の裏付けがあるというプレゼンテーションが必須になることに気付きます。そして舞踏メソッドの開発が始まります。これを機に土方自身は踊り手として舞台に立つことはなくなり、振付け、演出に専念することになりました。
舞踏のメソッド化という新たな地平への挑戦には、それまで得た経験からの技術の適応範囲を検証し直す必要があります。
しかし人は過去の成功体験を忘れられないようです。また失敗体験を反省するよりも成功体験を反省することの方が難しいものです。
土方の場合はプレゼンテーションで用いた得意の言葉への執着を捨て切れません。そのために体表現が本意である筈の舞踏が言葉に差配されることになります。
次にご紹介する「寸法の歩行」は土方舞踏メソッドの基礎になるテキストです。このテキストによって導かれた体の状態を「歩行体」と呼びます。
土方の講習会ではプログラムの初めと終わりに組み入れられていました。
私達が日常、無意識に行う歩くという行為を改めて見直させることで、人の体の在り方を再発見させることを目的としたものです。
日常生活での体(仕事、アルバイト、学校)を引き摺ったまま稽古場に来る講習生の意識を、非日常的な演出(例えば「この稽古場の建っている場所は以前ライ病院があった。そのために建物の下には敷石が張ってある」。勿論、嘘八百)を凝らした舞踏の稽古に対する心構えに切り替えさせるには効果的でした。
土方の数人の女性の弟子達(彼は男性の弟子は採らなかった)の中には、このテキストを生真面目に毎日1時間以上自習していた者もいます。それは言葉によるテキストとしての完成度(舞踏の入門者=それまで舞台に立ったことの無いものには、頭で理解し易い無理の無い展開。1クールが時間的に適度な長さ=7分程)にもよります。また土方舞踏の他のテキストに繋がる基本にもなると想わせたからです。
講習会では土方によって読まれる詩的な色合いを持つテキストの言葉の流れは、踊り手にスムーズにイメージを喚起させます。また稽古を見学するギャラリー(批評家、文学者が多かったブレイン、アート系雑誌編集者)にとっても「舞踏とは何か?」、その表現のプロセスを説明するための分かり易いプレゼンテーションとなっていました。
寸法の歩行
普段私たちは目的を持って歩いていますが、ここでは寸法だけになって目的のない歩行をします。
天界と地界の間を一本の寸怯となって移行する。
身長が160cmとしたら、160cmの寸法となって移行する。
腹がさくっと割れて魚が泳ぎでる、形があとから追いすがる。
背後から大きな手で押し出されて、額から一本の糸が紡がれて、歩くのではなく移行している。
ガラスの目玉、額に一つ目をつける。
天界からの糸にからだは吊られている。
からだのあらゆる関節から糸を出して天界から吊られている。
頭のてっぺん、/耳の後、/首のつけ根、/腕のつけ根、/あばら、肩、肩甲骨、背骨、/骨盤、/肘、膝、/手首、くるぶし、/手足の指の関節。
これらの関節に糸をつけて身体は天界から吊られている。
からだは、地上から30cm浮いている。
膝はややリラックスさせます。
足下はすでに床ではなく、カミソリの刃の上を渡っている。
頭の上に水盤を乗せる。その中の液体がこぼれないように、からだを運ぶ。
足下のカミソリの刃、頭の上の水盤。
目はすでにものを見ない。
見るよりも、映ってくる速度の方がはやい。
二つの目玉は空洞になリ、額に大きな一つ目。この目はすでにものを見ない。
視界は拡がり、まわリの景色が映ってくる。
額の一つ目。
見る速度より映ってくる速度の方がはやい。
足裏にカミソリの刃、頭上の水盤、糸で関節が吊られている。
歩きたいという想いが先行して、形が後から追いすがる。
歩みの痕跡が前方にも、後方にも吊り下がっている。
ガラスの目玉、額に一つ目。
体は500枚にスライスされて、その間を風が通り抜ける。
歩行の軌跡が部屋中にぶらさがっている。
この歩行体は、一人で歩いているのではなく、
前方にも一人、後方にも一人、左にも、右にも一人
5人が一緒に歩いています。
回る時には、本当にこちらへ行こうとする、本当に行こうとする、その結果として回っていた 。
このように(動きでは)回らないように。こうして回ると、額からの糸や、お腹の魚が、見失われますよ。
奥歯に糸を付けて天界から吊られる。胃袋にも糸。からだの内部にも天界から吊られる糸がある。
既に眼は見ることを止め、足は歩むことを止めるだろう。
そこにあることが歩む眼、歩む足となるだろう。
寸法となって歩行する。
このテキストの踊り手の動き(歩行)への指示は、「腹がさくっと割れて魚が泳ぎでる」「背後から大きな手で押し出されて」「額から一本の糸がつむがれて」があります。踊り手は自分の意思で動くのではなく、言葉により喚起されたイメージにより動かされるというスタンスをとりますが、これが他の身体表現ジャンルとは違った土方舞踏の特徴を際立たせます。また「舞踏とは何か?」の問いに、実際の踊り手の体を媒介として示唆し得たことで、他の舞踏家達とも一線を画します。
踊り手の体の状態を管理する言葉は多彩です。幾つか検証してみましょう。
「天界からの糸に体は吊られている」。さて「天界」とは仏教で仏のいる「天上界」をいいます。この言葉から踊り手は自分が立つ地上の遥か上の世界をイメージし、そのイメージと自身の体を実際に結びつけようとします。
※注:パントマイムの場合は、例えば無い筈のコップをイメージし、それを掴むという体の行為が表現の基本となります。土方舞踏の場合はイメージする対象が抽象性を多く含みますが、イメージした対象への体の関わり方の指示は具体的です。踊り手に喚起させるイメージが普遍的世界観を前提とする場合、イメージと体とを合一させようとする踊り手は、所謂悟りの境地をも意識します。
しかし、これは不可能です(現実の人間の体を抜きにした観念の上では容易いかもしれない)。踊り手が言葉によりイメージした「天界」は頭の中だけの空想の域を出ることはありません。
「歩行体」の場合、言葉からの指示により踊り手が、自身の体の感覚で実際に意識できる空間の大きさは、下半身に力を掛けない棒立ち状態の構えからは精々頭上1mまでです。
所謂「地に足を付ける」分量分だけ体がリアルに触知し得るテリトリーは確保されますが、踊り手が自身の体が「浮いている」管理をしている限り、如何に深遠な指示が言葉で下されようがイメージは絵空事に終始し、ましてや自身の体と関わらせることなどできません。
「天界」という無限の高さを示すイメージと人の体を直接関わらせることは、コミックの世界ではありませんので観念に終始する他ありません。踊り手が体で管理(意識)し得る空間が頭上1メートルでは、8〜10メートルの舞台高の中大劇場は勿論、小劇場でさえも対応することが出来ません。
踊り手の体は広い舞台空間との関わりを持てず、言葉による振付けの指示が多過ぎ、それに捕らわれるために主体性が奪われ、演出家=振付家に操られるだけの等身大の人形として舞台上に配置されるに留まります。
このテキストは自在であるべき人の体の在り方(本来性)を阻害し、言葉だけで世界を完結させようとする文学表現に囲われます。
ところが自分の体をライブの現場で検証する
術
を与えられていない踊り手達はテキストの言葉に埋没し、そのことで充足感に浸る人も多いようです。
人は時に主体性(リスクと責任)を放棄することで、ある種の法悦感を得られるのかもしれません。
しかしテキストが指示する言葉により変化する踊り手の体(例えば、緊張による顔面の不随意筋の微妙な動き)から「舞踏とは何か?」、その実態を探ろうとする当時の文学系ギャラリー(あくまでライブ、身体表現を基とする舞踏を言葉で収斂しようとする)を納得させるには効果があるものでした。
言葉には実際には無いものも在ると想わせる力があります。
体=ライブ、言葉=観念の関係の齟齬が示唆する問題は人類の背負う永遠のテーマなのかもしれません。
※注:言葉をフィールドとする人が体との関係を研究、模索するには実際にご自分で体験してみるのが何よりの手立てとなります。土方の文学系ブレインの中でスタンドの招待席からグラウンドに出たのは三島由紀夫ただ一人でした。彼は、その提唱者より遥かに舞踏家と云えます。
踊り手の体の状態を指示する言葉としては、「あらゆる関節から糸を出して天界から吊られている。頭のてっぺん、耳の後ろ、首のつけ根・・・手足の指の関節に糸をつけて身体は天界から吊られている」があります。
踊り手が、これだけ多くの指示を全て同時にイメージし体現することは不可能です。
それでも踊り手は指示された言葉に従順になろうと努力しますので、与えられた指示を一つ一つチェクするための意識をあくせくと体のあちこちに駈けずり廻らせます。その行為は余りにも忙し過ぎるために、舞台に於いてもっとも大事な事が眼中に入らなくなります。それは、あらゆる生き物達が生存のために共通して備えるルール、環境、他者との協調、共存という生の基本的な理念です。
このテキストは踊り手が自分の体が依って立つ舞台空間との関係、例えば舞台の大きさ、形状、質感、そこに一緒にいる共演者との距離(位置的、精神的)を計る視座を失わせます。
「二つの目玉は空洞になり、・・・この目はすでに何も見ない」「ガラスの目玉」「額に一つ目」というように、目の表情も振付けとして指示されていますので、踊り手は自分の体が置かれている舞台の状況を自身の視覚情報から把握することは難しい。踊り手は舞台を形成する動的で多彩なエレメントと主体的、創造的に関わることが出きません。
一部の見識者から土方舞踏の舞台に出演する踊り手達は振付け=演出家から廻され操られるだけの「猿回しの猿」「操り人形」と揶揄される原因はここにありました。
土方は踊り手達を自身のアート・コンセプトをプレゼンテーションするためのパーツとしてしか看做していないとも想わせます。
「足下はすでに床ではなく、カミソリの刃の上を渡っている」では、日本の武道の世界、その名人が体得した境地を思わせます。
「体は500枚にスライスされて」は、イギリスのコンテンポラリー・アーティスト、ダミアン・ハーストの作品(輪切りにした動物をホルマリン漬けにして展示)を連想させながらも「その間を風が通り抜ける」では、それに終わらない日本的な究極の美概念(例えば俳人・芭蕉の『夏草や兵どもが夢のあと』。解体と叙情=オリエンタル・ニヒリズム)をも感じさせます。
それにしても、自身のスライスされた体が「500枚」という言葉を実際にイメージ出来る人はいるのでしょうか?
(身体の平均的な横幅を50cmとするとスライスされた一枚の厚さはそれぞれ1mmとなります。しかし人間の体には凹凸があります。真上から直線的に裁断した場合、鼻、胸、腹、臀はその部位だけ突出し得体の知れない物として宙に浮くことになります。身体に合わせて裁断したとしますとスライスされた一枚の形状は横から観るとその人の体なりに歪みます。しかしスライスという言葉が内包する直裁的なイメージとは齟齬を来しもします。この言葉による指示をイメージし、実際の表現行為の技術として有用たり得るのは10枚がそこそこです。5枚でもしっかり出来る方がいれば天才舞踏家として、私は認可します。
怖いのは、言葉からの指示でやった気になる者と、言葉が介在すれば、それを観た気になる人がいるということです)。
ましてや、それを体現しろとは?
「カミソリの刃」にしろ「500枚のスライス」にしろ観念でのみ捉えられる詩的な言葉としては確かなる世界観を表象し得たとしても、実際の生身の踊り手の体とは明らかに遊離するものです。
テキストの言葉による指示を受け入れながらも自分の体を俯瞰できない踊り手には、それが観念に留まるものか実際に体現し得ているのかを検証する術はありません。
踊り手はテキストの指示内容が自らの情報入力のキャパシティーを遥かに超えているにも関わらず言葉が発する詩性に幻惑されます。
踊り手は自身の様(体と、それと連動する精神構造)を検証しようという意識を芽生えさせる余裕を持たされぬ故にアートの本領である個の主体性を放棄し、指示者にアイデンティティーの全権を委託しようとします。そして自身の行為の保証を、指示者のみが独占する世界観に依存することで安心感と自信を得ます。
こうしたテキストで作られた踊り手を実演舞台に乗せたとしても、作品の1パーツとして扱われている踊り手(作品の全貌も、自身が出演するシーンの意味もライブという動的な場を抑える術さえも知らされない)の体を舞台上で組み合わせただけでは、生きた舞台作品は創れません。
実の成る作品を創るには、舞台に立つ踊り手が今ここで確かに生きる人間であることの実感(それは時に、大いなる不安を伴うことになる)を味わい切ることが必須条件として求められます。
土方の作品の創作法(それが確立されていたとしたらですが、実際には彼自身シドロモドロの状態であった。’83年ヨーロッパ公演の大失敗で露呈される)は彼の独占領域とされていました。踊り手には創作の解釈は許さず指示された振付けにのみ集中させ、自分の出演シーン以外の共演者の振付けは知らされません。
そのために同じ舞台に立つ共演者同士の関係は極めて希薄でした。
踊り手の主体性を著しく奪い、パーツとした体を組み合わせていくような創作法には早急に限界が生じます。
何故なら形は常に生の内奥からの力との葛藤によって成り立つものだからです。
‘86年土方の死以後、彼の弟子と称し土方の名前を前面に押し出すことで活動する舞踏家が多々います。
そんな彼等のいじましい行為は、自らの中に創作の動機を見つけ得ず借り物の世界観を根拠に己の人生のアイデンティティーを確保しようとしているようにも映ります。
地球上に生存する多くの生き物達の生の理念、「共に生かし合う」ための最も魅惑的な糧となる身近な他人を、目先の功利性を利用することで成り立たたせるようなメソッドは一時的に有用に思えても所詮は虚しいことです。
人類が編み出した最強のツール=言葉はいつでも諸刃の刃です。時に人生の行く末を誤らせる悪戯(いたずら)をしでかしもします。
忘れてならないのは今を確かに生きる、一人が一つだけ備えた体の切実なる想いを感じ穫ることの嬉しさです。そこにこそ舞踏のアート・ジャンルとしての意味を芽生えさせる沃土を開示させます。
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