11 文学者と舞踏
私と友惠が土方の舞踏講習会以来再会することになったのは、土方が亡くなってから1年程経ってからです。主に舞踏家が出演することで知られていた中野の小劇場で、ジャズのサックス奏者と友惠による踊りとギター演奏とのコラボ・ライブを観た劇場の主宰者が、自ら発刊するミニコミ誌への文章を友惠に依頼したことが縁になります。
それまで、主にジャズやクラシック・ギターなど音楽専門誌で紹介され業界に知られていた友惠ですが、小劇場のミニコミ誌への文章掲載により舞踏界にも友惠の名前が知られるようになっていました。
私は友惠と逢って、友惠が土方の唯一の後継者だということが一瞬で分かりました。体の細胞が一粒一粒勝手に喋り出すというくらい生き生きしていた。言葉は借り物ではなく、いつでも自身の体からのものでした。
土方と伴に活動をしていた時は、その時代を代表する現代詩人や小説家達と同席する機会も頻繁でした。酒席が主でした。彼等とは舞台創作を共有することはありませんでしたが、土方も彼等から多くの影響を受けていたと思います。文芸家にとっては自身は味わうこともないライブという場を即興で湧かせる土方には、羨望をも抱かされました。彼等は公演後に文芸誌などで、あたかもライブへの参加意識を共有したかのように彼の舞踏を熱の籠った言葉で脚色します。言葉の世界に辛苦する彼等の生業には、ライブ・アートは新鮮な契機を与えもしていたのでしょう。私だけではなく舞踏家を名乗る者は文芸者の言葉は舞踏のプレゼンテーションとして魅力的に思えました。
当然、文芸家の言葉に彩られた舞踏家は「その気」にもなりました。そして、自らの体を使った表現が彼等の言葉に括られもしていたとは信じようとしていませんでした。
しかし舞踏は体のアートです。言葉による表現とは根本的にコミュニケーション形態が違います。その齟齬を無視するかのように、いつの間にか舞踏は言葉が先行するアートになっていました。
これは当時の舞踏が週刊誌、文芸誌など写真と言葉で成り立つ媒体により喧伝されていたことに起因します。
明らかに日常とは相容れない、全身を白塗りして不可解なポーズをとる踊り手の写真(白黒)と、それが何なのかを、これもまた日常性とは縁遠い哲学的な若しくは不条理を匂わせるキャッチコピーとしての言葉による脚色により詩的なプレゼンテーションが為されました。
'60年代以降、少年、少女相手に興隆していく絵と吹き出しで成立するコミックの表現手法とパラレルです。この表現形態が当時の文芸家には、新たな言葉の発現法として新鮮に感じられました。コミックの中の出演者は超人にもなれますし、生死の境界線も簡単に超えられます。舞踏のグロテスクな表情、ポーズによる人物写真とタイアップさせれば新鮮な誌上フィールドとして文芸家の言葉も謳歌できたのでしょう。
舞踏家と文芸家との蜜月を演出していたのは土方でした。土方は言葉には長けていました。例えば、舞踏とは何か?との問いに彼は「命懸けで突っ立つ死体」と答えます。アルトー(フランスの演劇人1896-1948)の「死んだまま生きようとした生者たちの行進が、私の感性にまで下降してきた・・・」(『残酷劇』より)に捻りを加えた表現に思います。しかし、これに長髪で髭を生やし腰巻き一つで踊る土方の写真が伴うと、磔刑に処されたキリストをも連想させ、言葉は活気を帯び、真実味が備わります。舞踏家だけではなく文芸家も土方の特権的な存在を認めてしまいます。コミックと同じように、あるいはアイドルに群がるファンのように。ただ、言葉に知的(哲学、宗教)な色合いが含まれている故に、それを享受した者をも彼と特権性を共有した気持ちにさせました。
土方舞踏の踊り手への振付けのパーツとなる体の構え=状態を、彼は「歩行体(踊りとしての歩き方)」とか「湯気体(湯気の中に体があり、それと同化する)」など、「体」という言葉で括り、舞踏の振付けをメソッドとして提示しようとします。彼のメソッドは門外不出というプレゼンテーションがなされていましたが、外部へも幾らかは漏れていました。このことで逆に土方舞踏のメソッド、その神秘性は喧伝されていきます。
晩年の土方は雑誌社を通して、「衰弱体」という言葉を舞踏の新たな定義の一つとして広めようとします。
この言葉に土方と同世代かそれ以上の舞踏家や批評家は色めきたちます。舞踏がテーマにしてきた死という問題(身体的、精神的、経済的)を実際にそれぞれ考えざるを得ない年齢を迎えたからでしょうか。その意味では長年、舞踏に携わってきたブレインやファンへの責任感からの、若しくはリピーター客へのサービス精神の表れだったのかもしれません。自分の健康には絶対の自信を持ち超人を装ってきた土方にも年齢相応の衰えは感じていたのでしょう。
ただ、土方舞踏を担ってきた踊り手の私として、はっきり言えることは、土方舞踏に「衰弱体」なる踊りは無かったということです。ここでも、言葉が先行します。そして言葉は人を酔わせます。
12 音楽家とのコラボレーション
友惠が主宰者になると様相は一変します。国内外を問わず音楽家との付き合いが一挙に増えます。彼等は私達の公演で実際に共演する人達です。
私はそれまで音楽家と共演したことは一度もありませんでした。彼等の人となりが分かりません。今まで関わってきた人達とは毛色が違います。
当時流行り出した「即興」や「コラボレーション」も経験がありません。公演の構成、演出は全て友惠が仕切りました。
友惠は音楽家達に演奏するシーンと時間、共演する踊り手を指示した構成表を渡し、段取りを確認し合うだけで打ち合わせは終わり。「これでお願いします」「うん」。言葉数が極端に少ない彼等の会話には、彼等だけに通じる何らかの共通言語でもあるのか?と不思議な気持ちがしました。皆さん静かです。
ところが、いざライブとなると彼等は抜き身の刀を振るってくる。掛け値無しのところで向き合おうとします。
土方時代の酒席での公演打ち上げは二軒、三軒と長くなり、舞踏論を戦わせることも多かったのですが、音楽家達は軽く反省をするだけです。
例えば、「モニター(自分が演奏した音の返し音)が聴こえづらかったよ」と苦情を言う音楽家がいれば、「あっ、申し訳ない。次はキチッとやるから」と、友惠は素直に謝ります。すると「ライブだから色々あるな。俺なんかこの前、下向いたら足下にタンポ(サックスの音程を決める穴を密閉するための皮製のパッド)が落ちてやんの。焦ったよ」とサックス奏者が言います。「それって使用済みかよ?」と、キョトンと目を見張る友惠のリアクションに皆笑います。
互いにアート論を喋り合うことはありません。「皆、それぞれ事情があるから」と友惠は言います。打ち上げは皆、早々に切り上げます。「体力温存のため。サバイブ(生き残り、やり続ける)することが大事。ただし例外はいる」と。
私達が共演した音楽家達は演奏を辞めた者に対しては、皆、冷ややかなようです。誰ともつるまない。昨日ではなく今を生きる彼等のアートへの姿勢には、怪我をしたからといって誰からも助けられない野生の生き物の掟を感じます。反面、皆、孤独からなのでしょうか、節度を持った情を備えています。
言葉に紛れたアート論によって安寧したヒエラルキーを形成しようという舞踏界の流れとは一線を画します。土方亡き後、彼の言葉に廻されていた故に、自分では活動の根拠さえ生み出せない舞踏家達は、年齢別に舞踏の第一世代、第二世代と括ることで、己の小さいアイデンティティーを確保することに奔走しているのが今日までの舞踏界の有様です。
ただし、音楽家は自分が共演する踊り手は対等に看做すことを信条とします。
時に、音楽家と、それと共演する踊り手を比べ、「あなた(音楽)だけは良かった」と、知ったような顔をして話しかけて来る者がいたとしたら、「私の演奏が良いも悪いも、それは共演者の彼(彼女)が引き出してくれた事。別々には語れないだろ。私が良かったとしたら、それは共演者が良かったということ」と、瞬時に突っ撥ねます。
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コントラバス奏者の吉沢元治と友惠しづね |
当時、友惠と即興デュオを組んでいた、土方と同年輩で友惠とは親子程齢が離れている日本の即興演奏界の重鎮、コントラバス奏者の吉沢元治(音楽には年齢は関係ない、というよく訊く言葉を実証する)は、私達の公演にゲスト出演した私の元同僚を「彼は誰?」と訊ねます。「昔、小説家の○に褒められた」と、友惠が言うと、吉沢はすかさず「あ〜、だから駄目なんだ。(表現する体の)前はあるけど後ろが無い。ドラマーによくいるタイプさ」と、バッサリ切り捨てます。アーティストに対しての査定は厳しいようです
13 時代のモードと舞踏
'80年代は哲学分野ではマルクス、サルトルの時代は過ぎ去り、人間の原初性を追求する文化人類学(構造主義、ポスト構造主義)がモードとなります。舞台アート界でも身体表現がクローズアップされました。ただ、ニーチェは解釈の正邪は別として彼の「超人思想」は、その剛胆な純粋性が日本文化が包含する超越的な悟り(例えば『一心岩をも通す』、『心頭滅却すれば火もまた涼し』)へと連なる「道」思想に同調するものとしてか、人気がありました。
舞踏講習会には演劇人が多く参加します。彼らが舞踏の身体技術を自身の舞台表現に積極的に取り入れようとする動きもありました。
輸入物であるが故に海外シェアを持ち得ない日本のモダンダンサーなども、欧米で注目される舞踏の身体技術に関心を持ちます。
しかし、その段階では身体技術を提供する筈の舞踏には土方も含め確立されたメソッドを持つ者はいませんでした。
では何故、舞踏は日本発の現代舞台アートとして欧米でスポットが当たったのか?
欧米では胴長短足の裸とノッペリした顔立ちの日本人に施した意匠「白塗りメイク」により、西洋発のモード哲学が対象とする原初性を表象するように映ったことも理由の一つでしょう。
もう一つには、意匠としての裸が性的対象に捉えられもしたことが挙げられます。
日本では記紀神話の芸能の神、天乃宇受女尊の踊り以外では、枕絵(性描写をした浮世絵)もオープンには流通せず日本文化のアートコードでは性は禁忌となっていました。これは中国から輸入された仏教、儒教の影響が大きかったと思います。しかし、地域社会では必ずしも性を否定しない文化を残していたことは付け加えます。
西洋アートでは古典復興以降、男女の裸はモティーフとして一般的に取り入れられます。この文化的資質は現代の商業経済の業界でも人間の性的欲望に訴えるような宣伝法の素材として用いられていくようになります。
戦後の輸入文化のなかで、日本もその影響を受けます。舞踏はそれまで抑圧されていた性を待望する社会状況の中で生まれました。
戦後の日本経済の復興はエコノミック・アニマルとも揶揄されるほど一般企業の海外進出も盛んになります。
'50年代、'60年代から「文化交流が政治、経済協力の基盤になる」との政府と民間の支援で伝統芸から、映画、音楽、美術と幅広い分野が海外で紹介されていきます。
そうした文化交流の流れの中で'70年代から舞踏家にも海外進出を図る者も出てきます。
ただ、その活動が単に日本文化の紹介に留まらず海外に地盤を作るための契機としようとする者にとっては自国文化へのアイデンティティーが問われる課題が突き付けられます。
一般企業、分かり易い例えでは、日本料理店が海外で根付くためには相手先のお国柄、嗜好を取り入れた意匠により新たなプレゼンテーションも必要となり、そのための研究開発が必要にもなります。これに対応する日本人の姿勢には、時には形振り構わない勤勉な資質が生かされもします。グローバル時代の経済優先志向には適合するのかもしれません。
目先の欲に流されれば本来性は失われ、意地を通せば窮屈どころか、外国人の鏡に映った日本のイメージと違うと「非日本」とのレッテルを張られかねません。かといって、海外の日本人観におもねれば、同族から「人でなし」の烙印を押されもします。
ここが文化交流の難しさであり面白さでもあるのでしょう。
元々、日本文化は「神仏混淆」が象徴するように輸入物を咀嚼しオリジナルとして昇華する力動性をモットーとしていました。ところが日本史上においては戦前の覇権主義のそれを除けば初めて、国際法に則った文化の輸出が起動します。
その時、日本人は己の文化観、その在り方についての議論は多くの問題を提示し続けられます。
'70年代後半から'80年代、現代アートの本家とされる欧米の一部の国では、舞踏は日本の伝統的アカデミズムとはルーツを異にし、民俗の原初性を表象する極北の文化として捉えられます。
日本の'60年代は経済的にも生活形態の上でも都会と地方の格差から生じる反目が浮き彫りにされていた時代です。東京でアート活動を始める土方は、出身地である戦前の秋田県の貧農の生活(女衒に売られる遊女。小作人)を「東北」と銘打ちアートのモティーフとしてプレゼンテーションします。これが欧米からの輸入文化に傾倒するアーティスト達には脆弱な足場=自国文化へのアイデンティティーを補完させるための斬新なメッセージとも受け取られました。
この時代、欧米先進国の潮流に倣い、共産主義思想による大学生をも巻き込んだ政治運動が盛んになります。また、日本の国際化を図る政府の方針により強引に押し進められた成田空港建設の反対運動には多くの大学生活動家が参加します。
ところが、'70年に日米安保が自動延長されると、彼等の闘争ごっこは潮が引くように終焉します。大学を無事卒業し上場企業に就職すれば新婚旅行で成田空港を使うという者も少なくありませんでした。その後、それぞれの地域社会での市民活動に緩くシフトする人も現れますが、彼等の変わり身の早さに「崩壊する日本人のダンディズム」を観せられる想いがする、と友惠は云います。
舞踊批評家の市川雅氏がNHKテレビの舞踏紹介番組で「舞踏家は学生運動出身者が多い」のが特徴と指摘するように、'70年代初めにはフィーバーしていた政治闘争が終焉すると、それまでコードレスな生活に浸り切り最早レールに戻る気が失せた者達はある時期の日本のサブ・カルチャー(時代により意味合いは変遷する)の先鞭を切る役割を担うことにもなります。
小田実の『何でも見てやろう』('61年)からバックパッカーで海外を放浪する者。阿佐田哲也『麻雀放浪記』('69年)に憧れサラ金に追われて消息不明になる者。ヒッピー的な集落を作り農作業に参加したり工芸家を目指したり・・・。
そんな行き場を失った若者の一つの集積場として学生運動と同調するような反体制の色合いを派手にプレゼンテーションする前衛舞台アート・舞踏がありました。当時の舞踏は基本的にシュールレアリズムなど西洋アートの観念を枠組みとしていました。
それまで労働もしたこともない学生がかぶれた労働運動を基本とするマルクス主義から、文芸的な色彩が強い構造主義など同じく輸入物のポスト・モダン思想へのシフトは、借り物の輸入文化の観念的な扱いに
熟
れた者にとっては容易いことでした。
舞踏サイドの受け入れ態勢は、特別な身体技術や舞台メソッドも無く、オーディションもありません。ショーダンスのアルバイトも斡旋され、「裸」に「白塗りメイク」さえすれば数ヶ月で舞台に立てますので、生齧りの文化論を弄ぶ器用さを持っていれば関わり易いアートジャンルでした。
'60年代、「金の卵」と称され東京で工業生産に従事する集団就職の中学卒業者が多かった時代、高校、大学に通う比較的裕福な層は学生運動が終焉すると舞踏に興味を持ち始めます。'80年代になると舞踏を取り巻くブレインの顔立ちも文学者から、当時、モードになっていた西洋の構造主義哲学のフィールドワーク(海外の未開地文化の生態研究)を持ち前とする大学の若き哲学教授等にシフトします。彼等にとっては日本のアニミズムを欧米の舞台アート界に喧伝する舞踏は手頃な素材でした。彼等の批評もそれまでの文芸家と同じく実際の舞台の創作技術には触れることはありませんでした。舞踏家達も彼等の批評フレームに準じるような振る舞いをします。当時の文芸誌や週刊誌の取材写真では裸に「白塗りメイク」を施し、これ見よがしに彼方の国の未開人?の祭儀的なポーズを披露します。
「節操が無いにも程がある。お前ら、生活に困ったことのない普通の健康人だろう」と、友惠は呆れます。
友惠の父親が目黒で経営する鋳物工場の職人さん達は、戦争の影響もあったのでしょう、みんな小学校しか出ていませんでした。
労働基準法も整備されていない日本の戦後では、親が一年分の給料を前借りして子供を工場に預けるなんていうことは珍しいことではありませんでした。小学校から帰ると深夜まで働かされ、病気になった兄弟は病院に行けず死にました、などと云う話は戦前の「奉公」の延長であり消えて無くなる昔話の一つ。
南北線が乗り入れ今でこそトレンドの街となる友惠が住む不動前駅は、以前、朝鮮人街(朝鮮学校があり、中学からそこに通う友惠の小学校の同級生とは「制服は違うし、顔を合わせてもお互いバツが悪くて言葉を交わすことはなかった。在日朝鮮人を虐めるチョン狩りとかもあったし」)と云われていました。彼等が経営する鋳物屋は厳しかったと、青年時代そこに住み込みで働いていた友惠の父親は言います。「彼等、不渡り手形なんか絶対に許さない。夜中に経営者を拉致してくる」と。日本の戦後が終焉するまで差別され続けた彼等の一つの自治のあり方でした。
当時の工業生産業に従事する労働者にとっては親の臑を齧った学生運動家や前衛アートとやらに浮かれている輩は悠長な趣味人としか映りません。テレビが普及する前の、白黒映画の時代の人達ですから黒沢明監督の「酔いどれ天使」や小林明主演の「ギターを持った渡り鳥」の影響からか、職人さんの中にはギターを嗜む人もいました。
グリーンスタンプ(今日のポイントサービス)でやっと手に入れた憧れのフォーク・ギター。弦巻きはナイロン弦用なんだけどスティール(鉄)弦仕様、友人からは奇形児ギターとからかわれたけど(当時は日本製ギターは完成されていなかった)、「ちょっと貸してよっ」って言うんだよね。酔っぱらいだからネックがベトベトになっちゃうけど、嫌とは言えないでしょ。怖くて」と、少年時代の友惠。
14.怒濤の創作活動
戦後、裸一貫から目黒に工場を立ち上げた友惠の父親は努力一筋、善良一途の方でした。
私達のカンパニーは発足当初、稽古場も無く、友惠の自宅の6畳の部屋で深夜まで稽古することもありました。一般住宅ですので、特に声楽の訓練も受けていた友惠の大きな声は外に漏れ出ます。近所の方には多大な迷惑が掛かっているでしょうが、お父様は私達には文句一つ言いません。
1945年3月10日の東京大空襲で母親と姉妹を亡くされましたが、あれほど優しい人には私は逢ったことはありません。一言で云うと苦労人なんですね。
携帯電話もない時代、事務所もなく団員達の連絡場所が友惠の実家だったこともあります。私達の電話に対応するお父さんは、いつでも親切でした。人を見ないんですね。私なども恐縮してしまって頭を下げますが、お父さんはそれ以上に丁重に接してくれます。
'80年代は日本の製造業は大不況の時代でした。お父さんの会社も大きな不渡り手形を貰い、弟妹はまだ学生だったので友惠は家計を助けるために仕事を手伝ってもいました。「オヤジは人が良いから、アル中や入れ墨者も受け入れる。流れの職人には質が悪いのが多かった。口先だけの世渡りには長けているけど、やることは半端仕事。酔っぱらいより酔っぱらってる振りする奴の方が怖いのね。
行き場も無い老人を気の毒がって入れるのは勝手だけど、俺の部屋で一緒に寝泊まりさせるんだから。
新興宗教に邁進する母親は人助けとなると元気出ちゃうけど、家には学校へ通う妹も同居してるんだから、一歩間違えれば近松(門左衛門)の『油地獄・・・』の世界だよ」。
情味は友惠の人間性を表すのに欠かせないエレメントです。ここにこそ私達は惹かれます。友惠の音楽、舞踏作品の底流に息づく特色ともなっています。しかし、彼という人間を頭で解釈しようとしても、そこに病弱な友惠の資質にこそ芽生える「忍耐強い努力」がブレインドされると、その表現はあまりにも多彩に織り成され、とても一筋縄では捕らえられません。
創作モードに入ると友惠は加速度的に意識が明晰になります。記憶力は尋常ではなく、稽古を通しての私達との会話や表情は全て友惠の記憶の引き出しに分析、ファイリングされ創作の現場で生かされます。
話を戻しましょう。
さて、欧米での舞踏は視覚的にエキセントリックな体の表現がクローズアップされ、それを脚色するキャッチコピーと伴にプレゼンテーションされていました。しかし飽くまでも舞台アートですので、実際の舞台では美術、音楽、照明、音響などを含めた綜合的な技術が要求されます。
前述しましたように'83年の私を主役としたヨーロッパ・ツアー公演での土方作品は全カ所で失敗しました。土方舞踏の言葉でのプレゼンテーションが見事に嵌っていた日本の公演では、主役で踊る私のポジションも安定していましたし、私もすっかりその気になっていました。ですから、海外公演でも私さえ舞台で踊れば、何とかなると高を括っていました。
各地一回公演でしたので、公演翌日に出る新聞評など気に留める暇もなく、皆、ツアーの移動の楽しさにかまけていました。間に合わせの素人スタッフ達も、天下の土方舞踏その主演ダンサーの芦川さえ出演すればオールマイティーと思い込んでいました。私にしたところで、その都度、懸命に踊りましたので、それ以上のことには興味がありませんでした。
ヨーロッパ公演での虐殺的な評価を知るのは、日本に帰ってきてからです。
「演劇の場合はダイアローグを元にする脚本が根幹になるでしょ。だから彼等は共演者との協調を大事にするの。ところが土方舞踏の場合、踊り手は自分が覚えた振付けに埋没しさえすれば、それで良いと思い込んでいる。やる気とか一生懸命だけじゃ舞台は成立しないの。
舞踏は脚本という意味を持つ言葉がないから、観客の主に視覚と聴覚という感覚に直接コミットするアートなの。だから、踊り手は人間の知覚構造を熟知して、観客の知覚の入力情報と自分の体=心の関係、具体的に云えば『共演者の体=心、美術、照明操作』と『音楽、音響操作』との協調を管理する目を備えていることが必須条件になるの。
この目はノリでも陶酔でもなく、近年スポーツで云われ始めている体感「ゾーン」と同じだと想う。これは醒めた目を持つこと。体がその中で生きる環境との愛惜に芽生える境地のこと。自分の体の外から、自分が今生きている環境、それをなりたたせて下さっている観客との関係をゆったりとした醒めた心で見る目が必要になるの」。
土方亡き後、私が伴にする友惠の稽古で彼は語り続けます。
しかし当初、過去の実績にしがみついている私には友惠の箴言は耳に入りませんでした。「私が踊れば、なんとでも成る」。
土方が亡くなり、稽古場を追い出された私にはバックになる組織や助けてくれる人材はいませんでした。勿論、お金もありません。
'88年の銀座セゾン劇場での「土方追悼公演」(土方舞踏団の公演が予定されていましたが、彼の死により急遽、五つの舞踏団による公演に変更されました)のスタッフも必要でしたので、土方時代のブレインにコンタクトを取りましたが、ある美術家にはハッキリと断られました。自分は土方と五分であって、弟子と付き合うことでポジションを下げたくないとのことなのでしょう。
土方の名前を羨望する舞踏家達には立てられもしました。しかし彼等は私を囲うことで土方の継承者となる政治的な野心を抱きながらも、土方舞踏に飲まれることに過敏なまでの警戒心を抱きました。
そんな彼等と対等に渡り合うために私は土方時代、一緒に公演をやってきた仲間を弟子(土方は男はいつも自分に競ってくるとの、それから奥さんが経営するショークラブで働かせるとの理由から、弟子は24歳までの女性と決めていました。それまでに他の舞踏団などを経験したことで体に妙な癖が付いてしまっていることを嫌っていたのかもしれません。そういう人に限って頭だけスレています)としました。
しかし、いつでも立てられる私と違い、彼女らへの待遇は私と一緒にいても、相手が誰であれ、いつも私とは全く違うものでした。私と同年輩の舞踏家達は駆け出しの後輩として彼女等を見下します。
彼女達はそれぞれ誇りを持って土方舞踏を選んだ訳です。土方のブロックが無くなれば、先輩面したがる年上の舞踏家達や偉そうに振る舞う批評家に対しては尊敬の念など持ち得ません。公演の打ち上げの席では彼等に
諂
わされる羽目にもなります。
土方公演の打ち上げの席(当時は一般客と招待客のヒエラルキーは明確に線引きされていました)では演出家の土方と主演の私以外の団員達は皆接待に徹していましたので、私はそれが当たり前だと思っていました。こうした私の態度も含めて、彼女達の鬱憤は溜まります。
土方の稽古場を出て身の振り方を決めかねていた私は、ある舞踏家の「一蓮托生ですよ」との政治的な意味合いを含ませた言葉に誘われて彼が山梨県に運営する農作業場に寄宿していたことがあります。とにかく私にはセレクトしている余裕はありませんでした。成り行き上、私に同行した彼女達は「何故、私達が畑仕事をさせられなくてはいけないのか?あなた(芦川)はやってないじゃない。しかも、其処を主宰する舞踏家
擬
の弟子達から虐められてまで」。
'80年代半ばに始まるバブル経済期、週末だけ田舎暮らしを満喫する都会人の生活スタイルがブームにもなっていました。主宰者の舞踏家は弟子達との農業生活を標榜しながらも、自分一人だけ公演のために海外を飛び回ります。たまに国内外から文化人を接待し社交の場としていました。
彼の弟子達は華やかなスポットに当たることも無く悶々と農作業に従事しますが、その鬱屈させられた精神が彼女達に向けられもしたのでしょう。六本木のショークラブで働く者など舞踏家ではないというのが、彼等の見識でした。しかし、彼女達にとってはショーダンスはやりたくてやっている仕事ではありません。舞踏団の経営システムから土方が斡旋したものです。
ここでの生活も欲得が絡んだ舞踏界のヒエラルキーとパラレルでした。私には個室が与えられましたが、彼女達は大部屋で雑魚寝です。其処での農場舞踏パーティーでは地元の農家の人達も呼ばれましたが、旦那は同席する都会の若い女性達に色めき立ち、奥さん達の強烈な嫉妬を買うことにもなります。
私もマイナー・アートの世界ですが有名人ということで絡まれ、胃潰瘍で入院することになります。酔っぱらった主宰者から殴られたメンバーもいます。
そして彼女達が寝泊まりする大部屋では、招待された舞踏批評家の一人から夜這いされる事件が起こります。彼女達の我慢も頂点に達していました。
「あなた達、下女じゃないだろ」。友惠の一言で私達は、その舞踏家と決別しました。
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サックス奏者のジョン・ゾーン氏 |
それ以後の私達は友惠のもと一枚岩となり怒濤の創作活動に突っ走ります。山梨の堅苦しい農場を離れ一ヶ月後には、友惠と付き合いがあったNYのコンテンポラリー・ミュージックの第一人者とされるサックス奏者のジョン・ゾーン、日本の即興音楽の嚆矢コントラバス奏者の吉沢元治とコラボレーション公演を行います。即興など私達メンバーは経験したことがありませんでしたが、友惠は急峻な山道を先導するように私達を導き、時にはどん尻に廻りながら一人の脱落者も出さぬよう懸命でした。
「即興は表現の産みの親。形を先行させたらお座なりに終始する他なくなる」。
翌月から毎月、メンバーを順番に主役に立てた公演を行い、半年後に出演した「利賀演劇フェスティバル」では、全曲、友惠のオリジナルによる作品「糸宇夢(振付け:友惠しづね、芦川羊子。構成・演出・美術・照明:友惠しづね)は「今までで利賀山房を一番使い切った」と絶賛されます。土方の創作構造をその欠陥まで含め全て見抜き、土方作品を遥かに凌駕する作品を僅か数ヶ月で成就させる友惠は舞踏の奇蹟と云って良いでしょう。土方時代とは桁違いの厳しい稽古量、内容に私の浮ついていた気持ちは払拭されるどころの騒ぎではありませんでしたが、私達の活動の成功に戦々恐々となったのは土方亡き後、彼の亡骸の分割合戦に興じる元藤を含めた舞踏界でした。
友惠の能力は彼等のアイデンティティーを根こそぎ覆す驚異と映ります。彼等の嫉妬を超えた焦燥感は尋常の域を超え、私達への風当たりは脅迫めかした電話は掛かってくるし、面識も無いラリッた舞踏家崩れが突然「芦川さん、いる」と家まで尋ねて来るなど、私達は女性が多いカンパニーでしたので、みな本当に怖い思いをしました。「(ショーダンスの)仕事の帰りに車に連れ込まれたら終わりだからね」と舞踏ゴロ(多くの舞踏家の間を渡り歩く)から忠告されたこともありました。
そうした外部からの風当たりを、媚を売ることも、どんな駆け引きにも応じない友惠が一身で受け止めることになりますが、本人は何処吹く風です。それどころか、「現代アートの狭い領域でちょっとばかり成功したからといって、良い気になってるんじゃないよ」と、私達を戒めます。「舞踏の力は、そんなものじゃ終わらない」と、利賀フェスに出演した数ヶ月後に私達は同作品を八王子の老人福祉施設で、半ば押し掛けで上演させて頂くことになります。皆さんには喜んで頂けて、私達も本当に嬉しく想いました。
今日まで続けさせて頂いている老人福祉施設、福祉作業所、聾唖学校、小学校等へのボランティア公演、講習会は、この時から始まります。
「いい気になってんじゃねーよ」。これが友惠舞踏の本随です。
15.普遍への旅
'70年代半ばに稽古場で行われた、私を主演としたシリーズ公演終了後「得をしたのは、土方と芦川だけ」と団員達は皆、辞めてしまいました。元藤の経営する芸能事務所が公演出演を山車に使い、ショーダンスでの彼等のギャラをピンハネ(一人1万数千円のギャラは500円しか払われていませんでした。生活は客からのチップで凌いでいました)していたことも原因の一つです。当時の地方のキャバレーのショーでは「白黒ショー」(男女の裸の絡み)がありました。それまで面識も無かった男女二人が地方に飛ばされ、帰ってきた時には女性のお腹が大きくなっていることも珍しいことではありませんでした。公演直前に呼び戻され、簡単な稽古を受けるだけでその他大勢として2、3シーン(10分程)に出演します。自分の踊りに忙しい私は彼等の顔も名前も覚えていませんでした。ショーの仕事にしても土方(元藤)のもとにいるより他の芸能事務所と直接に契約すればギャラは全額貰えます。
公演後に文芸誌、美術誌、週刊誌でクローズアップされるのは土方と私だけでしたので、公演制作の裏事情を知った彼等は面白くなかったのでしょう。私にしたところで公演出演のギャラなど一銭も貰ったことはありませんでした。
それ以後、数年、土方舞踏は公演を休止します。
'80年代、舞踏が欧米でスポットを浴び、その創始者として土方も注目されます。
しかし'83年の土方のヨーロッパ公演時には、団員は私だけという状況の裡に強引に行われました。作品は狭い稽古場公演での私のソロ・パーツを組み合わせたオムニバス構成でした。私の衣装替えの時間稼ぎのために、既に辞めてしまっていた踊り手を一人呼び戻し、その場合わせのシーンを作り、どうにか作品としての体裁を整えます。音響、照明等プロの技術スタッフなどは一人もいません。結果は前述の通りです。
「自殺行為じゃない」と友惠は言います。
「確かに'60年代、土方が即興的なパフォーマンスをしていた当時の東京では、評価の基準が緩いことも手伝い、裸や白塗りメイクなど奇抜な見てくれさえ披露すれば実演ノルマはこなせた時代もあった。
即興による身体表現の場合、美術や照明、音楽や音響が作り込まれると、それが瞬時に沸き起こる踊り手の自由な感性を規制することになるの。
具体的に言うと、照明などもフラットな基本のまま(舞台の全体明かり。細かい照明プランは用いない)の方が踊り手にとっては扱い易い。音楽にしても複雑な構成のものより、一定のリズムやムードを醸すものが良い。今でも即興パフォーマンス系の舞踏家はこれを好む。楽曲の構成が緻密になってくると、作曲家の創作意図を読み込むには、また別の能力が必要になり、それなりの(膨大な)労力も掛かる。即興ではとても対応できない。
また殆どの場合、即興パフォーマンスでは踊り手の表現技術は早急にパターン化するため、その場をこなす要領だけが身に付き、観客への直接的な効果を優先することになる。これではアート本来の目的、観客との新たな絆の生成に寄与するどころか裏切ることになる。下世話な人間に成り下がるということだ。
例えば、一本の木がそこにそのように立っているためには、樹木が生まれもって備える生き方としての形とそれが遭遇する即興が条件となる。だから一つとして同じ木は無い。
即興は形と葛藤、浸潤し合ってこそ本来性を発揮できる。自然環境と親密に同期する日本文化では即興は時に愛惜にも似た心により必然とも看做されるが、それ自体をコンセプチュアルに捕らえることはできない。彼等は何時でも、あらゆる人間的な意思を擦り抜ける機敏さを備えている。
私はけして、即興を否定している訳ではない。それどころか、即興こそが形ある生き物の個性を引き出す唯一の方法だと想っている。
踊りに於ける即興は、舞台環境(空間=美術と照明、時間=音楽と音響)と体=心との関係を熟知した振付け法を体得した者でない限り手を出せない領域だ。」と友惠は語ります。
「マクドナルドじゃないけれど一つの商品を何処ででも廻していけないと採算は取れない(友惠の弟さんはそこでバイトしていたことがある)。客への対応もその都度、心を尽くすのが本来だけれど、いらっしゃいませデニーズへようこそ、とマニュアル化していかないとアルバイト=初心者は使えないし経営も成り立たない。名人気質の兄貴のやり方は経費が掛かり過ぎる」と、友惠の弟さんがアドバイスします。
「白塗りメイク」、「裸」という意匠(実際、お金は掛からない)でパッケージングすることで舞踏は効率の良いマネージメントができたといえるのでしょう。
踊っている当人の私でも他人事のように想っていた「闇」をテーマにした土方の文学的な言葉もキャッチコピーと云われれば、妙に合点もいきます。
と、言いますのも土方時代、私は舞台で踊っていること自体が、この上なく楽しかったからです。『闇』が表徴するような暗い気持ちになったことなどありませんでしたから。
当時、三人洋子(クラシック・バレエの森下洋子、モダン・バレエの清水洋子、舞踏の芦川羊子)と、もてはやされた事もありましたが、他の二人と比べれば大した技術の修練も積んでいない私は(それまで何の踊りの経験も無かったのですが、土方に師事して半年足らずで草月ホールでデビュー。)嬉しい反面、後ろめたさも感じていました。
「話を聞いていると、土方のところも舞台では(金銭的には)廻っていかないね。ブレインとなっている文化人への接待費も随分掛けているようだし。芦川さんは有名になったから良いかもしれないけれど、面白くないと思う人もいるんじゃない」と、弟さんは友惠に指摘したそうです。
「土方は日本古来の言葉『舞踏』を自分が始めた現代舞踊(概念は曖昧)の一ジャンルとして提唱し広めようとしたが、追随する者達との関係は、踊りの技術には共通項がないことから可成り緩いフランチャイズ方式をとっていた。土方は彼等からどの様にロイヤリティーを穫るかを算段する。一方、若手の追随者達は土方舞踏の喧伝方法を模倣しようと躍起になる。
ただ、舞踏に、地球上のそれぞれの民族、国民が歴史、文化のなかで培ってきた体が備える独異性を個性として包含し得る共通言語を構築しようとの決意を秘めた者ならば、それこそ「命懸け」の覚悟が負わされる。
目先の損得勘定に翻弄されるようなマネージメントとは相容れない。
独善的、教条的な統制は勿論、資本主義経済に心理的にも管理されている自由主義国家に於いても、上記のような想念を抱く者は少ない。何故なら、経費が掛かり過ぎる。一人分の一生では足りない。
それでも確かに云えることは、一匹の生き物には必ず一つの体があるという事実。常にここから始められるのが日本発の現代舞台アート・舞踏の魅力。
欧米からの人間観、生活様式をがむしゃらに踏襲しながらも、日本文化の自然観、生死観に根を張ることでこそ活きてくる日本人の体=心の
在処
に純朴でも真摯な明かりを当てることができたなら、それは普遍的人類への模索の旅のために一つの確かな端緒を示します。勿論、他人の個性を存分に受け入れる謙虚さが必須条件となりますが、それは翻訳を必要とする言葉ではなく、体が秘める大らかな情緒が直接的なキーとなります。
体による普遍言語の開発には、何時でも、あらゆる個々人を招き入れる
懐
の深さが肝要となるのでしょう。
舞踏を振付けによって一つの踊りのジャンルとして確立しようとの野心を持った土方舞踏のノルマは、パフォーマンス時代の即興性に頼った創作法ではとても間に合わないことを彼はどこまで知っていたのか。
振付けを施された複数の踊り手達が、それぞれの感性によって自主的にアンサンブルを生み出していくことは舞台作品が活き活きと成立するための理想の条件となります。
この場合、踊り手には舞台上で多様に生起する僅かな律動を感じ取り、瞬時に同調させていく高度で多彩な技能が要求されます。
さて、それまで特別にアート表現の修練もしたことのない素人をその場限りの公演のために寄せ集めた土方舞踏の団員達に、この技術を望んだところで詮無いことです。
団員達の中には舞踏が雑誌に掲載されたエキセントリックな写真や観客を煽るような反動的、超越的な言葉によりプレゼンテーションしてきた過激なイメージから、舞台で「一発やり」さえすれば、前衛アーティストとしての自己表現を簡易に成就できるとの妄想を抱く者もいます。
このような団員達を安易に舞台に乗せれば、作品としての収拾が付かなくなることは瞭然です。
そこで土方は自分が演出する作品に出演させる踊り手の体を鋳型に嵌め込むような振付け法を開拓しようとします。
例えば、古典絵画に描かれた人物像の形を模写させます。この方法ですとモデルが明確にありますので踊り手には振付けの自由な解釈は許されません。踊り手の関心はモデルを忠実に模写されることだけに注がれることになり、自身の体が舞台上で直接絡む共演者(他の踊り手、美術、音楽)との関係を独自の感性で構築することは禁忌とされます。
ところで、古典絵画から抜粋したタブロー内の人物の形を振付けの基本とする土方の振付け法では、踊り手は舞台上の定位置から動かずに踊ることが基本になります。
しかし、短いシーン(殆どが数分)を数珠状に繋げていく土方作品の構成は、10数シーンと多くなります。
スローな動きを特徴とする土方舞踏では、シーン転換の際、踊り手の舞台への出入りの「移動する」という行為には時間が掛かってしまいます。つまり、シーンの転換も作品構成の中で存在感を持ってしまうということです。
シーン数に伴いシーン転換の数も多くなれば、踊り手の舞台の入退場時の「移動」という行為も早急にパターン化します。バリエーションを持たせなくては作品の流れに支障を来し観客を飽きさせる要因になります。
土方も踊り手の「移動」を内容とする振付けを作りはしましたが、彼は自分の作品に出演する複数の踊り手達には、互いの動きに対して連携を図るような自主性を与えていません。それは彼の振付けの踊り手による身勝手な解釈に繋がるからです。
当然、踊り手達の互いへの思い遣りも必要になる「移動」という行為を禁忌にしなければ、彼等を思い通りに管理し切ることは難しくなります。振付けへの解釈の自由を与えられた時、中には、スタンドプレーに邁進する者も現れる。「俺は(私は)共演させられている他の踊り手達とは、『違うんだ』」と、ここぞとばかりに自己主張をする者も現れる。こうなってくると、舞台上では踊り手達の歩調は合わず、足並みも乱れる。シーンの流れが破綻し作品自体が成立しないリスクを抱え込むことになります。
そこで土方作品では踊り手を板付け(舞台上の定位置に付いている)から始めさせるために舞台転換時に照明操作による暗転(舞台上を暗くして、その間に踊り手を速やかに定位置に配置させる)を用います。踊り手達の動きに自らが施した振付けの自己解釈を許す余裕を与えないためです。とにかく出典とした絵画中のモデルを忠実に模写すれば良い。他のことは何も考えるな。これが土方が振付けにおいて踊り手に要求していたことでした。
このシーンの繋ぎでの暗転という方法は、暗い中でも鳴り続ける音楽、効果音(主に観客の体感にまで直接に伝わる低音を基調とした「地鳴り音」を使用していた)も媒介となり、舞台と客席、出演者と観客が同じ空気感を体で共有できる観客キャパシティー50人という狭い稽古場での公演では作品の構成上は支障が生じませんでした。
照明操作による「暗転」と音響操作による「地鳴り音」により、土方作品がテーマとした、当時、西洋からの輸入モードであった文化人類学思想を日本的(地震国、祭りなど地域社会に片鱗を残す、時には観光資源とする土俗的宗教がアイテムとする境界領域)に表象させるものとして「存在の闇」を効果的に演出させました。
上記の作品創作法は上演する劇場を選びます。
入り口で手渡されたビニール袋に脱いだ靴を入れ、詰め込まれた客席の隣に座る客と体温、呼吸を直に感じ合えるような、いわゆる小劇場でこそ成り立ちます。照明を落とした「闇」の中での通奏低音「地鳴り」は観客へ体感として伝わり、彼等を光と足場が確保された日常から離脱した世界へ誘(いざな)う効果的な方法になります。[※2]
[※2]:消防法により、このような上演手段をとれる劇場は現在ではありません。キャパシティーを超える観客数の入場は規制されますし、「非常口」と記されたライトの設置は義務づけられ「完全暗転」は望めません。
しかし、観客キャパシティー200以上のホールともなれば、舞台と客席は象徴的に言うならばプロセニアム・アーチで仕切られ、観客が各々座る椅子の安全は確保されます。
「暗転」になっても誰も恐怖は感じませんし、天井の高い劇場では地下から響く筈の「地鳴り」は虚しく
空
に彷徨います。体感でのコミュニケーションが抜け落ちると、作品自体が成立しなくなります。「ドス」を持ち味にした土方作品が狭い稽古場の仮劇場以外での公演で失敗した理由の一つです。土方はその理由に気付いていない。
過去の成功からの過信と経験不足から自身の演出技術の汎用性の限界を知りませんでした。
本来、劇場、舞台空間への作品の適応法は演出技術の他に、踊り手の体には空間への複雑な適応技術が必要になってきますが、これは難しい。単に、画の中の人物の形を模写しただけの振付けに充足している踊り手には望むべくもありません。「白塗りメイク」さえ施せば事足りるとして、踊り手の体を創作の1パーツとしてしか看做していない土方舞踏では、この身体技術を持つ踊り手は一人もいませんでした。
踊り手の体を土台から創り出さなくてはならない舞踏表現におけるノン・バーバル・コミュニケーションの基礎になる身体技術の習得には明確な修練法と多用な舞台での実践経験が必要になってきます。余程才能がある人は別として近道はありません。
言葉をコミュニケーションの媒体にする演劇では、共演者とのアンサンブルをとるため、そして客席まで届かせるための声量と確かな滑舌が一つの必須技術になりますが、これを舞踏では体でこなさなくてはなりません。
しかし、土方舞踏の踊り手達は共演者同士の心の連携も不要とされ、切ないまでの観客への気遣いから表出されざるを得ない体の表現法も知らされず、単に土方から与えられた振付けに埋没するだけでは、表現することの意味を根本から問い直されることになります。
確かに出演者全員が「白塗りメイク」を施すことで、そのエキセントリックな意匠を共有する踊り手達は、集団の凝集性が高まり一つの「連携」をアピールできます。また顔、体に塗った「白」という色は膨張色ですので、観客への存在感も増します。
しかし、この画一的な意匠に頼っていたのでは表現内容のレンジは大幅に制限されますし、出演者それぞれが本来表出すべき個性を消し去ることにもなります。
公演のために集めた素人を俄仕込みの舞踏家に見せかけるには手っ取り早い方法でしょうが、「土方のところの踊り手は猿回しに廻される猿」と揶揄された原因もここにあります。
一人の人間を作品創成のエレメントの1パーツとして扱う土方の創作方法は効率性を優先した現代日本の資本主義を表象しているように思います。
実際の作品上演では、出演者の誰もが舞台創作家の基準をクリアしているとは限らないこともあります。その場合、作品の正否は創作家の演出手腕が負うことになります。ただ、劇場図面も丹念に精査せず、照明回路も音響システムも知らぬまま、素人や外部スタッフに丸投げするような演出家では、傷口を拡げるようなものでしょう。
これは何も土方舞踏だけに云えたことではありませんでした。
当時、舞踏は技術とその効用に対してもっと謙虚に取り組むべきだったと思います。
「ドス」を効かせた直截的な効果だけを狙う身体表現と、テキ屋の口上の胡散臭さを舞踏をプレゼンテーションする言葉に感じた他ジャンルの舞台人は、'90年代になると見切りをつけます。
舞踏家の中には公演で養った独異の自己アピール法を生かし演劇人として活動する人も出てきますが、自立出来ない舞踏家達は、相変わらず土方の残した文学的色合いの強い言葉によるプレゼンテーションに己のアイデンティティーを確保しようとします。
日本で舞踏にスポットが当たった'80年代は、西洋から輸入された文化人類学、ポスト構造主義が哲学のモードになっていました。その中で取沙汰されたアイテム「アニミズム」「異端」を表象するものとして、「白塗りメイク」というエキセントリックな意匠により舞踏は注目されます。舞踏は舞台アート界でモード哲学を象徴的に表現するジャンルとして独占的なポジションを得ます。
流行
り
のフィールドワークに勤しむ大学の哲学教授の中にも舞踏に関心を寄せ批評の対象とする人も少なからずいました。そうなると、批評の対象たる当の舞踏家達にも文化人を気取り出す者が頻出します。
しかし所詮は借り物のイデオロギーの上っ面で意味付けしようとする彼等の実際の舞台は、技術的な裏付けがない故に思い付き的な表現に終始する他なくなります。
土方の場合は、テキ屋の元締め然とした強烈な灰汁を持っていましたので、バッタ物を珠玉に見せかける手立ては心得ていました。騙される方も縁日の昂揚が伴えば嬉しくもある。土方も楽しい。「暗黒」をアートのテーゼにしながらも末っ子(9人兄弟)特有の茶目っ気からか本人の資質はいたって明るい。誰にでも真似できる営業ではない。
土方の秋田の生家は半農で蕎麦屋を営んでいたということですが、実際には蕎麦屋の経営は半年程でした。自身の出自が全農であるというイメージに抵抗があったのかもしれません。都内の有名蕎麦屋で私達に「うちは蕎麦屋だったんだ」と大声で講釈する土方は店から追い出されます。満員だからと入店を断わられたこともありました。土方のアート営業も場所を選ぶようです。昼間から飲めるからと年に100回以上蕎麦屋に通う友惠に伴われて私も随分と蕎麦には親しみました。「蕎麦屋では酒は2合まで。静かに喰ってさっさと帰るのが嗜み」と教えられました。「えー、あなたデザートまで食べるの。食い意地が張っている人は、きっと長生きするよ」と笑われます。
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