26 恰好付けない人ほど恰好良い
観客は配られたビニール袋に靴を入れて隣の客と肩を寄せ合うように座ります。
夏などはクーラーもありませんので、出演者も観客も汗ビッショリです。
踊り手と観客が一体感を味わえる、典型的な小劇場空間。何かと制約がある貸し小屋と違い、体に馴染んだ生活空間でもある稽古場劇場は私達にとっては居心地が良い処でした。
'74〜'76年、私を主役としたシリーズ公演では初めのうち、観客は客席に寝っ転がって観る方もいるくらい少なかったのですが、当時20人ほどいた私達出演者達がチケットを売りまくったことも手伝い、最終的には盛況の公演となりました。
そんな小劇場空間のなかで土方舞踏は培われました。
しかし後年、このことが逆にネックとなってしまっていました。踊り手の体の技術も、演出方法も、他の劇場への対応力を失っていることになるとは、その時は土方は元より私も観客も思ってもいませんでした。
'83年のヨーロッパ・ツアーの時は団員は皆辞めていました。
理由は前述した通り、俄集めの団員達が公演出演に釣られて利用されたことに気付いたからです。結局、出演者は私と呼び戻された団員の2人だけ。専任のスタッフもいませんでした。
照明家はそれまで舞踏など観たこともない人を雇いました。土方の文学的言葉による抽象的な指示は一般的な舞台の打ち合わせとはかけ離れ、スリリングな幻想を抱かせはしますが、具体的には伝わりません。詮無い事です。何しろ舞踏を知らないのですから。
後年、友惠もその照明家を使ったことがありますが「奥さん(彼女も照明家)は几帳面で私の細かい指示にも対応し信頼出来るけれど、彼は我が強いだけで使えない。スタッフの善し悪しは足音を聴けば一瞬で分かる」と言っています。
「私の作品では、光と闇の粒子が混在しながら静かに蠢くような日本家屋の床の間が内包する奥行き感が基調になるの。照明操作はそれ自体で美術なの。シンプルだからこそ一瞬も気が抜けない」と。
土方は創作プロセスの折々にイメージは湧き出るのでしょうが、具体的な技術その段取りは蚊帳の外に置いているようでした
土方時代、彼に言われたことを踊ればいいだけだった私は、舞台創りの段取りも構造も知りませんでしたし、その重要性にも気付いていませんでした。正直言えば、スタッフの存在など気にも留めていませんでした。そんな私がヨーロッパ・ツアーでは演出も受け持たされました(土方は、東京向けのプレゼンテーションで披露した得意の「秋田弁」による自己演出も翻訳を媒介にすれば通用しないし、知らぬ土地での未知の評価基準に怯えたからか同行しませんでした)。私の演出は、といっても自分の踊るスペースに見合うように美術パネルの位置を指示しただけで、あとは俄仕立てのスタッフに任せっきりでした。
「パフォーマンス系の踊り手なら場の流れに即興的に合わせられもするけれど、振付けにより鋳型に嵌められた踊り手の体は、やる気を出せば出すほど舞台環境から浮いてしまい空回りする」。それ程、コミュニケーション・ツールとして安定した言葉を用いない舞踏の体表現は、その中で生きる多用な環境情報との親密なる交感が必要になってくるのでした。
「土方はビビっていただけじゃない。何が「命懸けで突っ立つ…」だよ。全然、命懸けてない。誰しも人前では格好付けたいよ。でも格好付けない、ひた向きさを通してしか伝わらない何かがあるんだよ」と、友惠は呆れます。
友惠が私達カンパニーの主宰者になると、「音楽ライブの場合は、演奏家があくまで絶対の主役、ボーヤ(付き人)だけでなく音響、照明スタッフとは完全なヒエラルキーがあったし、彼らは皆、勝手に気を使ってくれた。リハーサル中に音響スタッフがハウリング(マイクとスピーカー間で無作為に増幅されたノイズ)など出そうものなら、怒鳴りまくる演奏家もいた」と言う友惠は「しかし、舞台公演は同じ舞台に出演する共演者同士に対してだけではなく、スタッフとの綿密なアンサンブルが必要になってくる」と、スタッフの重要性を悟ります。
「初めのうちは舞台創作のシステムも、彼等(スタッフ)との距離の取り方も分からないから戸惑ったよ。駆け引きしてくる奴もいたから喧嘩にもなるよ。ただ彼等は舞台の命綱」。
特に舞台照明は、天井に吊るす機材の重さや電気系統の問題もありますので非常に危険を伴う役職です。友惠は即メンバーを照明学校に通わせ資格を取らせています。
音響に関しても客席それぞれの位置によって音場(音の聴こえ方)が違ってきますから、ミキシング・コンソールとアンプの特性、スピーカー位置の音場シミュレーションには緻密な計算が必要になってきます。
「踊り手の背中を客席側に押し込むように音場を創って」との指示に、階段を駆け上りブースに戻る音響家はイコライザー、エフェクターを調整します。「もうちょっと強めに」、そうしたやり取りを納得いくまで繰り返します。友惠の音響家への指示は執拗です。
「音を見る、触れる感性を持っていない人は初めから出来ないのね」。その場合、友惠は自分でやり切ることになります。
「中には音楽家である私が、自分じゃ一生掛かっても出来ないと驚嘆する腕を備えた音響家と出会う(30年で3人だけ。内2人は外人)こともある。楽しいよね」と友惠は言います。
現在までの私達カンパニーの公演での照明、音響プランは、メンバーの浅井翔子と友惠が二人で、それこそ照明機材の選択、照明の吊り込み図面、映画の絵コンテのようなコマ割りにした場当たり(出演者の立ち位置)図、時系列毎の各シーンに合わせた段取り表(使う照明とその光度設定など)の作成を全て担っています。こうして創られた図面に細かく書き込まれた数値は、世界の劇場スタッフ間の共通用語になっています。
海外公演の場合ですと、友惠と翔子二人で作成した図面や数値を記したプラン表を予め劇場側のスタッフに送信しておきます。
踊りがやりたくて入団してきたのに済まないと、友惠は翔子に頭を下げ続けていますが、翔子は「皆のためだから、良いんです。それに踊りだけでなく舞台全部含めて舞踏ですから」と、言います。そうした舞台に対するスタッフの純粋な心根を、私も含め踊り手達はどれ程分かっていることか?ついつい良い気になって自分の踊りだけに邁進してしまうんですね。舞台上演に直接絡みながらも観客から拍手を貰うことがないスタッフ達それぞれの人生の陰影と醍醐味も知らぬままに。
先程も述べましたように舞踏の場合演劇と違い、ある程度信頼性を勝ち得ているが故にコミュニケーションの基本とされる脚本=言葉がありません。踊り手の体も含めて舞台上で錯綜する多様な知覚情報の統一的混淆を紡ぐことが作品の命運を作用します。観客との未だコード化されていない故に豊饒であるからこそ曖昧な知覚によるコミュニケーションの中に普遍的な叙情を産み出し
育
むには、時には遠い記憶を結び合う糸電話の震える糸の上を歩き渡る慎重なバランス感覚が必要になってきます。
照明も音響も舞踏作品のプレゼンテーションすべき本質が何かを分っていないと出来ません。
友惠は「劇場の大小、形状、質感で、照明、音響プランは構造的に変わってくる。踊る体にも光と闇がある。このバランスはそれぞれの踊り手が身体意識の調整によって創り出す。
美術=照明=空間構成、音楽=音響、踊る体は三位一体。それぞれのパーツ、舞台美術、音楽、振付けられた踊りを組み合わせただけでは舞踏の舞台は成立しない」と言います。
近年、地球規模での環境問題が取沙汰されていますが、人間が、生き物達が生き切るためには、それぞれ一つしか無い自分の体が生かされている環境との関係を知悉し互いに配慮し合うことが生存の条件となります。友惠舞踏の舞台も生き物達の生存とパラレルな条件を有することが基礎となります。
とは言え、舞台環境と体を浸潤、統合させるための身体意識(観念ではなく、多数の体の部位が独立して持つ意識)の調整技術を自在に体現出来るのは世界で友惠唯一人でしょう。私達にとっては稽古での永遠の課題となっています。
「東洋哲学で『空(くう)』という概念があるでしょ。これを分かり易く説明する哲学者や仏教者がいないんだよね。私の舞踏だと簡単に出来る。
まず、舞台はピーター・ブルックの云う『何も無い空間』ではなくて、潜在的に『全てが在る』ことを前提として始まるの。
そこに偶々踊り手がいて、そこに偶々明かりが在り、そこに偶々音が響く。
互いに触れざるを得ない何らかの縁を契機に結果として何らかの表現と云われる、あまりにも
自然
な風景を産み出す。そんな風景の中を互いが互いの縁=契機となり自在に逍遥し合うような味わいの場=環境=体。
私の舞踏では鳥瞰的な視座も持つ演出家=振付家=神は邪魔者なの。
『
空
』は悟りにも理念にも関わらない。生活者だれもが漏らす吐息を目一杯吸い込む微笑みに浸潤するリズム。生き物は呼吸しないと生きて行けないでしょ。
それにしても長年、地球は良く廻ってくれているよね。ご苦労様です」。
27 文化交流の行方
私を主役とするヨーロッパ・ツアーは、若手の舞踏家が西洋で注目され、その創始者としての作品が待望される最中での公演でした。ところが公演の評価は若手の舞踏家とも比べられ前述したようにさんざんな目に合います。
先陣を切って活動する若手の舞踏家達は、西洋の舞踊舞台のコードを逸早く汲み取り自前の音楽家を準備しようとする中、権化である筈の土方舞踏は「何故、それも市販の西洋ポップス音楽を使うのか?」との批判にも晒されました。
戦後以来、怒濤のように押し寄せる欧米文化から日本の流行歌は西洋ポップスの影響を受けることになります。
日本人の心を表徴するとされる演歌も、後にそのルーツが韓国からのものでは?との物議を醸します。
では日本の本来性を表現する音楽とはなにか?江戸時代までは邦楽、雅楽、地域社会に根ざす民謡であった訳です。
ところが明治維新を契機に西洋音楽の知識が大量に輸入されます。古典芸能である歌舞伎に使われる長唄三味線では、例えば「勧進帳」の三味線独奏パーツ「滝流し」は西洋音楽の影響を受けたとされ、今日でもトピック・シーンとして観客を湧かせます。
「勧進帳」の三味線独奏パーツ「滝流し」を弾く友惠しづね
大正時代、韓国で琴教授を生業にしていた日本邦楽界の珠玉、宮城道雄の、今日では邦楽の代表曲とされる「春の海」は西洋クラシック音楽の影響を受けバイオリンなどでも演奏されたことで世界的に知られています。
また音楽教育での小学校唱歌は西洋音楽メソッド、それまで日本にはなかった五線譜による譜面に法り作曲、編纂されています。
戦後の小中学校の音楽室にはバッハ以降の歴代の西洋作曲家のイコンが飾られていました。
戦後、振興される海外への文化交流事業では華道、茶道など伝統色の強い業界が嚆矢になりますが、日本の高度経済成長に伴い一般企業がメセナを行うことで輸出文化の幅を拡げていきます。文化の輸出に経済分野が絡んだ時、投資効果の即効性が求められることから、殊更「日本らしさ」を偏重しようとするものも現れます。
西洋での日本文化に対するイメージは、実質とは掛け離れたものになるリスクを抱えることにもなります。
ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団に参加した日本人の女性ダンサーがプロモーション映像で自国の特色を問われ、「芸者」と叫んだ時、私は唖然としました。
戦後、私の母は新宿で美容院を経営していましたし、友惠の母親はお茶の水の洋裁学校の教師でした。私も美容師の資格を持っています。母の手伝いで現代的(西洋的)なカットもしますが、依頼があれば正月には着物の着付けもしますし日本髪も結ってさしあげます。
日本橋三越の専属で浪花町に和装学校を経営し皇室にも式事の着物を納入していた友惠の祖父は戦前、戦後と着物文化の興隆と凋落を経験します。日本文化の変遷を体で味わっていました。
オペラ「蝶々夫人」の影響もあるのでしょうが、今更、欧米では伝統的知性に彩られながらも性的対象としてのニュアンスを含み持つ着物姿の「芸者」を自国のイメージとしてアピールする日本人の在り方には疑問を感じます。
欧米で舞踏が紹介された時、外人の持つ日本イメージに同調する「らしさ」をプレゼンテーションしたことは否めませんし、彼等が取って付けに用意した舞踊音楽も同様でした。
それまで日本で行われた舞踏公演は土方だけでなく他の舞踏団も市販のレコードの音楽を使っていましたが、海外進出を企てる若手の舞踏団は、欧米の舞踊舞台のコードに倣うべく専属の音楽家を起用します。
舞踏作品と音楽(市販物)との合わせ方には幾つかパターンがあります。一つには踊りを先行させ後付けで楽曲を選ぶ方法。先に選んだ楽曲に合うようにポイントとなる踊りを決めてから作品の構成を整えていく方法。外部の音楽家をフューチャーする場合は、上記の方法の他、予め作品全体のラフ・イメージを作曲家に伝え、余分に作品を提供して貰い、その中から作品構成に見合うように楽曲をセレクトする方法がとられます。舞踏家から注文を受けた作曲家は振付けとの関連よりもシーン・イメージを基に作るのが一般的ですので、楽曲と振付けとの関係はアバウトにならざるを得ません。
既に古典とされた舞踊曲への再振付けが目的なら別ですが、市販の楽曲(それ自体が既に音楽作品として完結している)に振付けを施すのは詮無いことです。
また即席で雇い入れた作曲家に己の舞踏作品制作への理解を求めることには限界があります。近年では日本の西洋モダンダンス、ジャズ・ダンスでもコンピューター音楽の普及によりプロ、アマ問わず自前の音楽家を用いることは珍しくありませんが、彼等の場合、振付け法とそれに合わせる作曲法はリズムを基本とすることでコミュニケーションは容易に図れます。しかし、踊り手の緩慢な動き(何らかの哲学的メッセージを込めようとする故にか)を特徴とする舞踏では、その関係性は一様ではありません。
舞踏と音楽(作品構成、振付けと楽曲)の親密なる関係を構築出来たのは、自身が舞踏のための奇跡的な体を備える踊り手であり、何物にも捕らわれない独異性を謳う振付け=演出家であり、同時に謙虚な音楽家でもある友惠だからこそ初めて成し得た大事業でした。友惠の作品は全て自身の体から自然に涌き出たものでした。
友惠は舞踏の権現として運命付けられた唯一の人間なのでしょう。その発祥は「地涌の菩薩」を感じさせます。尤も友惠は「自分は、草むらに隠れた小さなお地蔵さんが、いいな〜」と呟き続けます。
土方の提唱した「暗黒舞踏」は、生活者としての一般的概念(境界線)からはみ出したエレメントにスポットを当てることで独異な身体アートをアピールしました。踊りの素材は理不尽に拘束された遊女や、心身障害者の体に向けられます。
天上的な美を追求する西洋ダンスの規範から逸脱した彼の作品は前衛アートとして世間の耳目を集めました。
土方自身はいたって健康でしたが、病弱の友惠や先ほど御登場頂いた教授は、「暗黒舞踏」の素材とされる側の人間でした。
「身体的なハンデを持つと、それは精神的にも社会的にもプレッシャーが掛けられていく。多くの場合、就職は制限されるし結婚もハードルが高くなる。自己に突き付けられた現実をポジティブに受け入れようとしながらも、どこかで隠蔽したいという心情が働くの。子供の頃から『あんたは普通の子とは違う』と言われ続けると、尚更『普通』に憧れるんだよね。所謂『普通』の生活を望むことにさえプレッシャーが掛かっちゃってる。
実際には、国家や共同体による差別は全く無く、福祉政策が整い地域社会の人々の善良な心で成り立つ現代日本では、心身障害者であろうとも人権は守られている筈。
でも、中にはプレッシャーを引き摺っちゃう人もいる訳。そういう人達は自身のアイデンティティーを確保するために『普遍』を求めるの。常に切羽詰まった日常の生活から浮き彫り出される切実な想いがそうさせるのかもしれない。流行のポスト構造主義哲学が云う『境界線』『結界』など聖と俗を区分する用語を観念で捉える暇がない人は今ここに実際に幾らでもいる・・・例えば、学校での虐め、とか。
土方の身障者の真似をした踊りを見せられても、恥ずかしくて観てられない。
何故なら、その踊る姿態は身障者の上っ面を不器用に模写しただけで、形を押し出すところの力が欠如しているから。この程度がアート表現として健常者にはウケているのか、・・・他愛も無い。演る方も観る方も恥ずかしくないのかな?例え自身に課せられた『暗黒』に説得力があったとしても、私は自分のハンデを売り物にしようとは絶対に想わない」と、友惠は語ります。
話を舞踏の音楽に戻しましょう。
'60〜'80年代、当時の日本人の観客には土方舞踏の西洋音楽(市販物でしたがクラシック、ポップスを含める)との組み合わせは、欧米からの輸入文化に彩られ、それを憧れのモードとし取り入れることに躍起になっていた日本の文化状況の内では前衛的と看做されました。土方のブレインの文学者や西洋舞踊の批評家達は、音楽に対しては体質的に馴染みが薄く、劣等感さえ抱いていたことも反映されていたのかもしれません。
しかし土方作品に対する西洋での受け止められ方は全く違ったものでした。彼等の嗜好は「日本らしさ」に求められました。
一流とされる現代舞踊団がオリジナルの音楽を用いることは欧米では一般的でした。
既製の西洋音楽を使うことへの批判から、'80年代の土方の晩年の作品では、10年前に成功した稽古場公演での西洋のポップ・ミュージックを半ば強引に効果音「地鳴り音」に切り換えました。しかしリズミカルに彩られたシーンからは軽快感が奪われ、暗いだけの押しつけ的なものに終始しました。
彼は言葉によるプレゼンテーションでテーマとして掲げていた自らの出身地、戦前の寒村・秋田を前面に押し出そうとします。秋田出身の舞踏家など土方しかいませんので若手の舞踏家に対しては、舞踏の創始者としての独占的なポジションを確保できた筈でした。
時はバブル経済直前、トレンディー小説を読み、ルイ・ヴィトンのバックを抱える観客との間には、同じ稽古場公演でも当時('70年代)の熱狂を呼び起こす事はありませんでした。
しかし、土方は、ここで終わりません。来るべき「銀座セゾン劇場」での構想では、劇場の天井から宗達の風神雷神と見立てドラマーを二人吊るす。舞台に100人のギタリストを集めるなど夢の構想を喋っていました。そのためには、舞台の出演メンバーが足りない(少し前まで土方舞踏の団員は私一人しかいませんでした)。メンバー集めのために講習会も行いました。チケット販売や舞踏の創立者としてのポジション確保の根回しのために、それまで行き来もしなかったスタイルが全く違う舞踏家への酒席での営業活動も始めます。
土方に全身全霊を懸けてきた私をほったらかしにして、何日も稽古場に帰らないような、若手舞踏家へ媚を売る彼の行動に疑問を感じた私は、「死ねばいい」と想ったこともあります。
そして、酒が元での肝硬変で土方は亡くなります。人前では酒豪を演じていた彼ですが日常では酒は飲みませんでした。私もお酒は全くといっていいほど飲みませんでした。一度、稽古場で馴れないお酒を口にし朦朧としていると、「芦川さん酔っぱらっちゃった。芦川さん酔っぱらっちゃった」と、土方は酷く狼狽えていました。
私がお酒を飲むようになったのは友惠が創作に関わってからです。最後にロンリコ(度数75.5度)を一杯引っ掛けて「次、行こう」というのが友惠のスタイル。私はブラッディー・マリー(ビールのトマトジュース割り)。
目黒、恵比寿、代官山。五反田、六本木、新宿2丁目が友惠のテリトリーです。不動前駅の屋台では「お酒、半分」と注文して店主(ポーカーゲームの借金で一家離散、夜逃げしているとのこと)から笑われました。五反田や2丁目のオカマ・バーのママとは友達にもなり、彼等は女装のまま公演も観に来てくれましたし稽古場にも遊びに来ました。友惠の場合、日常と非日常が
匆々
にリンクしているようです。
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稽古場に遊びにいらしたキャベツさんと |
土方は自らを「両性具有」と演出していました。世田谷の馬事公苑に、私と同世代で現代詩に造詣を持つご夫妻のお宅に土方と2人お邪魔した時のこと。話も弾み夜もふけ、泊まることになりました。奥さんと私、旦那さんと土方はそれぞれ同じ布団で寝ました。朝のコーヒーを飲み2人で帰る道すがら土方は「あいつ、触ったら、アヘアヘいいやがんの」と笑います。土方は完全なノン気(同性愛者ではない。こういう言葉も友惠と付き合って知る)ですが、土方の営業は何時でもサービス精神旺盛でした。しかし、
連
んで飲み明かしながらもいつの間にか消える術を心得てもいました。
友惠は生来の素直さ故か、相手がオカマだろうと梯子の末、拉致されるように彼の家で飲み直し、そのまま泊まります。「あのやろう、無理矢理キスしてきやがって。むせて吐いたら、銀座だったら大変よ、とか言いやがる。誰が、頼んだ。勝手にパンティー脱いで舐めてとか言うの。イボがあってさ〜、真珠埋め込んでやんの。嫌だと言うと」、・・・71%の緊張と笑えない静寂。
ピンクのカーテンを透かして差し込む光の粒子たちが奏でる音楽。そこに日本人の体があれば、「なにもフェルメールや高尚な清少納言を待つ必要もない、それも一つの確かな叙情」。
早朝、友惠から電話が掛かってきます。
「次のグノーム(私達の講習生による団体・批評家の市川雅氏命名)の渋谷ジァンジァン公演。みんな知ってるよね、あのオカマ。ゲスト出演して貰うから」と。
後朝
を
突
く鶏鳴 後ろめたさに絡みつき 冷や汗甘露に昇華する。
稽古場での束の間の仮眠中に「あのシーンは、××」と寝言を発っしたと思えば、目覚めの微睡みのなかでシーンは仕上がっています。友惠は睡眠中も創作します。「夢は親切だよ。本音を教えてくれる」。
友惠のあまりの創作の速度の早さに付いて行けず「暗黒街の友惠」と想わず口走れば、「あなたは暗黒舞踏の舞姫とか云われている。その役柄に嵌れば楽だろうけれど、形は早急にパターン化し初動の力は失われる。いつでもマージナルな足場に身を置いてないと。下半身、大事だよ」。
「私の作品は子供でもお年を召している方でも、世界の誰もが楽しめるの。現代アートで御座いますと踏ん反り返っているとアカデミズムに囲われる。王朝貴族相手に創っているんじゃないでしょ。目先の欲得に搦め捕られると品性が亡くなる」と、逃げる隙を与えてくれません。
「命は懸けるものじゃない。誰にとっても懸かってしまっているもの。生きている自分の顔を直接は見ることができないように、生に浸潤して寄り添う自分の死もまた同じ。だけど生と死、二つの生は互いを担保に仕合うことで、人生の切れ切れ、その最期の端々までも織り込もうとする情動を忘れることはない」。
地球が丸いのは生きとし生ける物の
技
。情緒こそは確かなる物差し。時に冷酷に時に親しげに、・・・いつまでも茫茫と。
「体だけは大事にしましょう。弱き者は弱いなりに、強き者は弱き者の性情を思い遣り」。
28 人生もアートも不渡り手形は通用しない
土方の振り付けの開発では、日本だけでなく西洋の古典絵画、著名写真家の作品に描かれた人物、動物などの形を踊り手の体で模写する方法が取られました。
色々試みましたが、例えばイギリスの画家フランシス・ベーコンの人物像の顔の模写ですと、大きくデフォルメされていますので正確な描写は不可能です。踊り手は出来る範囲で必死に似せようとします。歪んで見えた顔が面白ければ採用されることになります。
観客には踊り手が模写したところの出典は分りませんから不可思議にも異様にも映ります。
今日では、お笑いタレントの物真似でポピュラーになっているムンクの「叫び」などもやりました。体による模写によって古典画家と自身をダブらせることは踊り手にとっては充実感を得られますが、観客に出典がバレだすと恥ずかしくもなりました。
ただ、タブロー、写真という平面に描かれた額縁中の人物、動物の、立体である踊り手の体への模写は奥行き感が無いことから、後に土方舞踏の限界を露にすることとなります。
上演する場所が極端に狭い稽古場劇場から、広いスペース(一般的な小劇場も含む)に移った時、問題が生じます。
照明設備も充実し舞台天井にも仕込めることから、舞台空間は奥行き感を備えます。
こうした当たり前の舞台上に土方舞踏の踊り手達が配置された時、その体は室内射撃場に吊られた紙の
的
のように頼りなく薄っぺらに観えます。
モティーフからの平面模写に
止
まる土方の振付け法の当然の成り行きでした。
遠い客席には、細かい振り付けのニュアンスは伝わりがたく、真摯に懸命に観ようとする観客のフラストレーションを招くことになります。
友惠率いる私達の海外公演では前任者の土方に敬意を払うことから、本作品の前に土方振り付けの私のソロの踊りを一番組み入れたことがありました。しかし、大掛かりな舞台美術で舞台空間を仕切るスペクタクル性の強い若手の踊りと比べられ、舞踏史の一資料と扱われるに留まりました。
勿論、友惠はそうした状況を読んでいましたが、「何としてでも土方の踊りを一番でも、より純粋な形で披露したかった。ただ、この舞台、普段あなたが踊っていたスペースの10倍以上、天井高も3倍はあるでしょ。振付けが同じままだと場当たり(踊り手の移動の軌跡)も踊りの速度も変わってくる。音響との兼ね合いもあるからシーンとして成立するか危うい。」と、言い「これは性格上のことからだけど、あなた(芦川)、観客への自己アピールの技術、歌舞伎でいう『見栄を切る』ことを(観客キャパシティー400人の渋谷西武劇場公演で)覚えてしまっている。その手を使えば、短い時間だったら何とかクリアー出来るなと思っていたの。
しかし、踊り手が自己アピールをすると、その体は舞台環境から切り離されてしまうの。踊り手個人は観客の視覚を集中させることで一見、存在感を感じさせるけれど、舞台上で紡がれる多彩なエレメント(聴覚、体感、視覚情報に於いては観客の視点とその周辺視野の関係が重要になる)が醸すハイブリッドな感覚刺激によって生まれる観客との自然でより深いコミュニケーションが破綻する。面相筆(穂先の極めて細い画筆)で彩なす画面にペンキを塗られたように。
要は演るのか演らないのかだけど。どんな手を使ってでも、やはり演っておくべきだと想った。踊り手にしても舞踏表現の本質が分かった上でならば、そこからはみ出すような苦肉の手立ても、作品創作のディテールに於いては技術として有効に活用できもする。
土方も、もっとキチッと創っといてくれれば、みんな楽できた筈なのに。不渡り手形を背負い込まされた人間は大変だよ。他人からの借金を返していっても誰からも感謝されない」。「元藤は土方巽記念アスベスト館とやらで金を使いまくり、挙句に自己破産して債権者に多大な迷惑を掛けた。私の父の経営する鋳物工場も何回も理不尽な不渡り手形を掴まされたけど、人様に迷惑を掛けたことは一度もない。私もタダ同然で仕事を手伝った」。
元々、土方の振り付け法である小さな額縁の中の人物、動物の模写は、画面の背景との関係は考慮に入れていません。
ところが作品を上演する場合、劇場により舞台の大きさは違ってきますが、踊り手の体の寸法は変わりません。
また美術館や画廊でタブローを観賞するのと違い客席の位置は左右、遠近、上下(客席は前に座る観客の体で見切れないように雛壇上にせり上がっている)と千差万別です。
土方舞踏では、踊り手は各々主宰者の土方と直の関係にあり、踊り手同士の横の関係というのは認めていません。舞台全体のアンサンブルはあくまで土方の演出で差配していました。
踊り手は互いに干渉せず自身に与えられた等身大の振り付けを全うすることだけを考えます。自身が立つ舞台環境(スペース、舞台美術、音楽、音響、照明など)との関わりを自ら考える余地を与えません。
踊り手は作品の全貌も知らされませんし、自身が出演しないシーンで共演者がどんな振り付けを施されているのかも知りません。ましてや演出上のことに関わることは僭越な行為とされます。
ですから踊り手は自身の等身大の体に土方が施した振付けに専心するだけで、大きさ、質感などがそれぞれ違う劇場の多様性に対処する技術を持っていないどころか、その必要性さえ知る由もありませんでした。
踊り手の作品上演に於ける主体性は不要となります。
何らかの保証さえ確約されるのであれば、上からの指示に従うことで、後は労無く人生のアイデンティティーが得られもする。
踊り手達はそれぞれ与えられた役割に没頭することで、ある時代ブランディングされた土方のアート世界を担う特別な存在と、舞踏を始めて数ヶ月の、それまでに特別な身体訓練も表現活動もしたことのない人も含めて感じることができました。
主体性を持たないで創作活動に参加させられることに抵抗を感じる人もいるでしょうが、逆に楽だと思う人も多かった。
土方舞踏の踊り手達が「猿回しに廻される猿だ」と揶揄された所以もそこにあります。
廻されている本人は、自力で廻っていると自分を思い込ますべく必死に、自分がそれによって魅了された土方のプレゼンテーション用の言葉を借用し振り撒き続ける。そこには、けっして自分の言葉は無いとも気付かずに。
友惠は「踊り手は舞台創作の全貌を体で見渡して。一緒に舞台に立つ共演者の呼吸を体で感じとることが大事」と言い続けます。
「例えば、舞台で二人の踊り手が踊っている。その二人が同時に(振り付けを)間違えれば、それは間違いじゃないんだよ」と。
2010年、103歳で亡くなられた即興舞踏を謳う大野一雄さんが友惠の公演リハーサル時の演出の映像を観て、「(私の弟子は)皆、自分、自分で・・・。やる気があれば出来ると思っている」と嘆いて「まだ、自分は準備が出来ていない。準備が出来たらご一緒できるのに」とおっしゃっていました。
個性が重視される現代アート表現では自己主張することがアーティストの条件と看做される風潮があります。前衛と名付けられた業界、特に己の身を直截的に人前に晒すことを作品とする当時の舞踏には自己顕示欲の強い人が集まります。
しかし具体的な表現方法を知らぬままの彼等の野方図な野心を宥めすかし使いこなすのに、土方の発案した「裸に白塗りメイク」という意匠の施しは有効な手立てとなりました。
始めは誰しもこの奇異な意匠を受け入れることに抵抗感を持ちますがイニシエーションとしてクリアすることで、それまで自分を閉塞させていた壁を乗り越え前衛舞踏という特権性を持った物語に参画する登場人物に成り得た実感を得ます。実際に舞台に立ち観客の拍手を浴びれば、アイデンティティーになる。そして一度味わった開放感に浸り続けようとする者が今でも多く見受けられます。
公演リハーサル時の映像の中で友惠は踊り手に「(舞台に)指一本出たら、始まっているんだよ」と注意を与えます。これは自分を出すより先に体で舞台の全貌を把握しなさい、という意味です。その上で、舞台全体のアンサンブルを創り出すために自身の体の管理を怠るなと。
「自分など出そうと思わなくても勝手に出ちゃうものなんだよ。逆に消す方が難しい。
既に表現されてしまっている自分の体の自在な操作にこそ、踊りの意味が芽生える契機がある」と言います。「共演者も含めて舞台の中の多彩な要素(例えば、音楽や美術など)との関係の中にしか自分はありません」。
友惠が主宰者になってから思うことは、土方舞踏は失敗するべくして失敗したんだということでした。いつも突貫で作業していました。体制と反体制、都会と地方、白と黒の確執が闡明となっていた時代では、両者の折衷領域でのゴタゴタ感がスリルを呼び込みます。戦前の宗教弾圧からの反動も手伝い勃興する新興宗教は新しい価値創造を謳います。
しかし日本人が生来備える生真面目さが日本経済の高度成長を結実させていることに気付いた時、あちらか、こちらかという対立は終焉を迎え、日本人の志向は資本主義政治思想に収斂していきます。'60年代前半、大学・短大への進学率は10%程度でしたが10年後には25%程に、情報を全国ネットで共有化するテレビの普及率は50%から100%へ上昇します。それに伴い日本人一般の文化意識は向上し、アートは前時代の一部の知識人のための専有物ではなくなります。大量消費社会のなかで客呼びのために新興デパートなどが劇場や美術館を経営するようになれば、興行=商業活動との兼ね合いからアートは多角的な相貌のもと展開されます。
29 紙の上の体
土方舞踏晩年の公演の稽古で、土方は他の俄団員を前に私を汚い言葉で貶しまくりました。若いうちと違って、その当時は私も踊り手としてのプライドを持っていましたので、プイッと稽古場を飛び出してしまいました。
残った団員達に土方は「次の公演は芦川抜きでやります」と言い放ったそうです。この時のことを友惠に訊くと、「土方も新米の踊り手達には想うように振り付けが伝わらないし、本人もその理由が分らないから苛ついていたんだと思うよ。メソッドを作ったつもりになっていたとしても観念が先行していたんじゃ実践では役立たない。
一つ言えることは、経験を積んだ踊り手でも私という自負心に依存している限り灰汁だけが前面に出てしまい、振付家が企図する踊りのメリハリが得られないの。踊り手の体が舞台で共存する多彩な要素(共演者、音楽=音響、美術=照明)とも簡単に分離しちゃうしね」と言います。
「土方は確かに即興舞踊家としての身体能力は一流であったけれども、振付家に転じた時に用いた方法は踊り手を視覚的に対象化することから始めた。要するに自分で体現していないことでも踊り手に求めていた。これは踊りの振付けだけでなく、身体性を謳う演劇家にも当て嵌まることだけど、自分が出来ないことは他人には教えられないんだよ。見た目だけの形を先行させれば踊り手の体には負担が掛かるし、表現内容も押し付け的な不自然さを伴わざるを得ない。それを観念=言葉でいくら正当化しようとも」。
友惠は土方が残したこれらの問題(負の遺産)に一から取り組みます。友惠の作品は視覚(美術、照明)、聴覚(音楽、音響)と踊り手の体が三位一体になることで成り立ちます。そのために踊り手には舞台に主体的に関わることが要請されることは言うまでもありません。
しかし、友惠が踊り手に要請する身体技術は、踊り手を独楽のように扱う土方のものと次元違いに高度な技能、身体感覚を要請されます。
また土方の、絵画や写真からの形(人物や動物)の模写という振り付け法は他の舞踏家に比べるとディテールは繊細ですが、タブローという二次元の表現からのものですので、踊り手の実際の表現も二次元的なもの、具体的には体の前の部分、主に上半身と顔に関心が寄せられ、体の横や後ろは管理する意識が欠如します。踊り手の体への意識は舞台空間全体の中で統合的に捉えられた時にこそ、その表現は自在さを得られます。
自身の体の一部分に意識が特化した場合、踊り手の体は鋳型に嵌められたように柔軟さを失い舞台のムーブから遊離してしまいます。例えば、顔の造型表現だけに意識が捕らわれるとトータルな体の管理ができなくなります。そして、舞台上の多彩なエレメントとの関わりなど気にも留めず自身の充足感にのみ浸り出すようになります。
踊り手は自身の体の隅々まで管理していかなければなりません。
土方舞踏が世間に知られるようになった週刊誌のグラビア写真のように雑誌の編集者にフレーミングされ購買目的にプレゼンテーションされれば、裸の踊り手の白塗りメイク、異様なポーズが醸すオドロオドロしさは、「肉体の特権的表現」として見る人を幻惑させる魅力を放ちもします。
しかし、舞台では同じという訳にはいきません。特に広いスペースですと、西洋ダンスのように動き回るわけではありませんので、よほど演出に念を入れなければ観客は踊り手という人形が、それぞれ単独に、ただ細かい訳の分らない動きをしているだけとしか観てくれません。
30 異文化交流の意義
海外で成功している若手の舞踏家には、踊り手の体をオブジェと看做し西洋の遠近法に基づいて舞台上に配置する人もいます。オペラ・ハウスの多くは額縁舞台と云われるように舞台を一枚の絵としてプロセニアム・アーチで括るように出来ています。また日本では「八百屋(客から全ての商品が見渡せる陳列様式)」と云うのですが、絵画的遠近感を演出するように舞台は奥にいくに従いせり上がっているものが多い。
「体で空間の奥行き感までも表現しようとする舞踏には合わない。そこで舞踏の体の本来性を表現しようとする場合、体の技術の力で舞台を一旦、平板に戻さなくてはいけない。しかし、この技術は体に掛かる負荷を倍増させる」と、友惠。演出だけでは賄えない場合、全体の作品の調整のために自ら出演する友惠は「もう、体バキバキ。あなた達、もっと踊り、上手くなってねー・・・」と、青色吐息でぼやきます。
作品のドラマ性は一つの方法として舞台美術の大転換などスペクタクル性を取り入れることで作り出せはします。ただ、額縁舞台という西洋の舞台アート・システムに合わせることが良いか悪いかは、また別問題です。
これは異文化交流の意義を考える上で大きな課題を提供します(日本の食文化、例えば寿司はアボガド入りのカリフォルニア・ロールとしてアレンジされ、逆輸入されたりもしています)。何れにしても、劇場という器の主張、設備などのシステムを理解するなかで作品を上演しようとする姿勢が大事になってきます。ハードとソフトは切っても切れない関係にあるということです。
他文化のシステムに単に合わせるのではなく、自文化から培われた本随を貫き通すためには、踊り手の体を含めたより広がりと深みを備えた表現技術の開拓が求められ続けます。
しかし、土方の場合、狭い稽古場公演で養った踊り、舞台美術、音響、照明操作をそのままの形で西洋の広い劇場に組み入れた訳です。舞台と客席が一体化したようなキャパシティー50人の小スペースならば押し切れることも、会場が少しでも広く、またアニミズムと通底するような土方舞踏の世界観に合わない近代的なテクスチャー(例えばメタリックな)の空間ですと、舞台内で統合すべき多様な要素がそれぞれ野方図に主張し合い、観客と共有すべき世界像を創り出せません。
土方舞踏は土台から崩れてしまった訳です。
友惠はこの原因について、土方舞踏は多様な劇場での上演経験が少なかったこと。土方自身が海外に行ったことが無いためにそれぞれの国の文化状況を肌で知らなかったこと。照明、音響操作などを他人任せにしたことで、そのシステムを軽んじていたことなどを挙げますが、失敗の一番の原因は過去の成功体験に取り縋がるというライブの実践者としては、あるまじき傲慢さがあった、と言います。
公演というライブは、創作者が完璧に計算し尽くしたと思っても、状況は日々、変化し怒濤の問いを投げかけられ続けるものです。頭の中でパーツを組み合わせたからといって成立するものではないのです。
また、土方の振り付け法は初心者でも簡単にできるという利点はありますが、踊り手に主体性を与えない、作品の単なるパーツとしか看做しません。
土方の他の弟子とは振り付けの密度も違いますし、それなりに舞台経験を積んだ私の踊りですが、土方舞踏の構造的脆さから免れることは出来ませんでした。そのことがヨーロッパ・ツアーで露呈してしまった訳です。
舞踏作品は舞台上の全ての要素が混淆(葛藤、浸潤)することで初めて命が吹き込まれるということを私は友惠と知り合って初めて知りました。
「視覚情報と聴覚情報が混淆することで起きる化学反応(音を見る。風景を聞く)。具体的に言うと舞台美術、照明操作と音楽、音響操作の織りなす妙なる場と、踊り手の体の関わり方を体感として知らないと」、と友惠は言います。しかし、これが難しい。
普通、視覚と聴覚などの入力情報は生体維持の必要度に応じ、優先順位が換わります。例えば美しい景色に見とれている時、突然、爆発音が鳴る。あるいは恋人に手を握り絞められれば、見えている筈の景色は認識されない、またはその意味合いが変質する。ビジュアル情報自体は数値データとしては同じです。
生き物の生存に関わる、この多彩な知覚情報の認知に至る構造は知覚情報心理学の発展を待ちたいところですが、私達は待ちぼうけを喰わせられるのは真っ平御免です。何しろ今、此処が生の渦中なのですから。吹けば飛ぶような頼りなくも切実さに芽生える感性を信じる他ありません。
アート・ワークは概念ではなく、日々の生活コードの中に埋没したかにみえながらも強かに息吹くプリミティブな触覚を足場にすることで生の郷愁を抱擁しようとします。
多彩な知覚情報間の生成構造が分っていないと生存環境と己の体の関わらせ方も知らぬ間に、その都度モードとなる雰囲気に絡め取られることに終始させられる。
踊りの振り付けが、それを与えられた踊り手を縛る鋳型になるのか、契機として作用する創造的媒介になるのかは、生き物の生存の条件となるアンサンブルを知悉する度合いが反映してきます。
雷同することで得られる安寧と脆弱な足場による不安定な自己顕示との狭間で繰り広げられるのが私達の人生なのかもしれません。それも生活に余裕があっての物の種。余裕とは、それを手に入れることよりも、それの処理の仕方の方が難しい。
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