16 独楽回しは自身が廻っていることに気付かない
「舞踏は誰にも括らせない」と、土方は
嘯
いていましたが、誰にしろ「括らせた」段階で自身のポジションが相対化されることを恐れていました。人にしろ独楽にしろ廻すのは飽くまでも自分の側で、廻されることには甘んじられない人です。
大学出のスレていない生真面目なエリート文学者や哲学者を
掌
で廻すことこそ彼の本領でした。オフ・ステージでも公演さながらのパフォーマンスを演じ営業に奔走します。ただ実際の公演活動での評価はそれに連動するものではありませんでした。酒の量も増えます
アートとは無縁の資産運用に躍起になる元藤(養子縁組した土方の奥さん)が購入した伊豆の別荘への小さな旅では、駅の売店に並ぶ土産物を辺り構わず放り投げるなどの暴挙を振るう土方の姿を前に、私は土方に憑く「死神」を見せられているような気がしました。それから数週間後に土方は亡くなります。
今日、舞踏は欧米からアジアへと活動範囲を広め世界に認知される舞台アートとなりましたが、広めることと野方図に拡散させることは違います。
私達も欧米やアジアで多くの講習会を行ってきましたが、伝え切れないものがある。自他の捉え方にズレがあるのでしょうか。
それぞれの国民、民族と体の関係は人間が生活の基盤とする文化、自然、社会環境と関わってきます。グローバル時代、文化交流としての舞踏アートの在り方を考える時、私達は各々の違いを個性として捉えながらも、人間としての普遍的なコミュニケーション表現の開拓のために謙虚に、そして妥協無く取り組み続けなければならないと想います。
単に興行を潤滑に廻すために媚を売るような表現は禁忌となります。
最早、人類の属性となる言葉は、その相対性を立証することで自ら墓穴を掘ったからこそ一科学としての諦念を強いられた哲学は、多様性をパラダイムとする時代精神に適合しているようにも感じさせました。
しかし裏を返せば言葉には実質と遊離する観念が付随することで使いようによっては嘘も簡単につけます。騙し騙される駆け引きにより人間関係があらぬ方向に措定されるリスクを背負い続けます。特に生物としての人間の生存に関わる恐怖と欲望に直結する感覚を麻痺させる概念が生み出す、例えば神とか貨幣の市場価値という座標軸から、野生の羅針盤たる体臭(それはタナトスまで浸潤するエロスの情報)を投擲することで、嗅覚機能はペットも含め他の動物に水を開けられっぱなしで退化するに任せているのが人類の現状です。
互いの発する感覚情報を主観的に捕らえ合う分量が多くなる体によるコミュニケーションは、その曖昧さ故に心の機微を直截的に捉えようとする切ないまでの希求によって成り立ちます。体の表現には嘘をつく余裕はありません。理屈抜きで伝え合ってしまっている確実な何かがあります。嘘は早々にバレます。嘘が必ずしも悪いと言っている訳ではありません。例えばメイクという嘘はアンチ・エイジングやジェンダーを越境しようとする人生のサバイブのための有用な手立てともなります。しかし、如何なる自己演出手段を駆使しようとも隠し切れない個々人の心根にこそ膨大なる魅力が潜んでいます。
人が本来備えている普遍的性情を素直に開示していくのが舞踏アートの使命となります。勿論、飽くまでも人に伝えるための表現ですので思い遣りがキーとなります。
時に表現者の認知的不協和(矛盾する複数の内容間の葛藤)によりコミュニケーションの境界線を逸脱することもあるかもしれません。こうした行為は市場を鳥瞰し意識的に営業方法として使う以外は、社会的には苦境に追い込まれる羽目にもなりましょうが、それもまた一興と、自身の人間としてのキャパシティーの限界を表すものとして謙虚に受け入れる覚悟も必要になってきます。翻訳抜きのコミュニケーションは何時でもスリリングです。だからこそ新鮮です。
17 節操の無い体観
友惠の舞踏技術の開拓とメソッド開発のためのその身を削ぐような稽古の厳しさとは比べられないものですけれど、それでも私と土方の二人だけの稽古はあくまで執拗で、時には残酷であると想った時期もあります。逃げ出そうとしたこともあります(私が一回だけ「辞めたい」と言った時、土方は粟を食ったように、急に優しくなったことがありました)。
その時の私には分らなかったのですが、一見理不尽で脈絡の無い稽古の様々が血流となり、創作現場とは必ずしも重なりませんが土方のプレゼンテーションの言葉にも私は自身の体で脈打つものを感じていました。
時には踊りの現場とあまりにも遊離していて気恥ずかしく想うこともありましたが、それも愛着を持って受け入れることができました。
ところが土方死後、舞踏の周辺者が扱う土方の言葉は実際の踊りの創作現場と完全に乖離し、それどころか束縛するものと感じるようになりました。
言葉で、欧米からもスポットを浴びる舞踏を括ることで己の野望を達成しようとする人(心無い批評家どころか舞踏家を自称する者も)にとっては実際の踊りとその熾烈なプロセスを含む創作現場での真実が邪魔になってくる。言葉だけが一人歩きしているように感じました。
土方の死の直後、元藤は勝手に「土方舞踏を凍結し、その資産的価値を量る」と言い放ち、私に「自分の許可なしで踊ってはならない」と迫ります。
清貧を貫きながら私の体を培い宿った私の人生そのものである舞踏をも金銭価値に還元し、当たり前のように自らの資産と看做そうとする姿勢は、友惠が言うように稽古場の名前の由来になっている、今日まで問題を引き摺る体を蝕む有害素材のアスベストの輸入業で財を成した父親の血を引いているからなのでしょうか。
「元藤が本当に土方舞踏を想うなら、土方と伴に舞踏を培ってきたあなたを、人間としても尊重すべきでしょう。それが、人の体と人生を自己資産として管理しようなどとは人権侵害も甚だしい。人間としてのモラルが疑われる。それにしても父親から買って貰った稽古場持ちのネーちゃんを引っ掛ける奴も姑息だよ」と、友惠は言います。
「一緒に生きる人を愛しきれるか、ということは人間に課せられた一大命題。人間関係に邪心を入れていた土方にも問題がある。ファザコンのお嬢ちゃんの尊大さには理屈は介在しない。土方の死後、金にものを云わせた彼の追悼公演出演など、目先の欲から絵に描いたような資本家の娘に媚びるように付き従う元学生運動出身の舞踏家達の節操の無さには改めて呆れる」。
18 人生の旨味(うまみ)
私が土方と伴に踊ってきた稽古の現場に一度も顔を出したことの無い素人の元藤に舞踏は殺されると危機感を抱いた私は20年間慣れ親しんだ稽古場を土方の元に最後まで残った弟子達と後にすることになります。
勿論、全員が私に付いて来た訳ではありません。辞めていく彼らに「裏切り者」と叫んだこともありました。
土方の死の直後、動転する私に、「これでセゾン(`87年に予定されていた銀座セゾン劇場こけら落し公演出演)も無くなったか」と、
嘯
く者もいました。
私が土方?(元藤)の稽古場を出て暫くの間、舞踏界では「姫取り合戦」と囁かれていたそうです。
私を冠に飾り、自身を土方の直流と位置付けようという野心を持った舞踏家がいました。彼等の舞踏公演に顔を出せば皆、私を立ててくれました。私も彼等とは一線を画するとの自負もありましたし、土方が一緒にいない開放感も手伝い悪い気はしません。
稽古場を出たまではいいですが、行く場所もないしお金もありません。私は親からお金を借りトイレ、流し共同の四畳半のアパートに一人で暮らすことになります。
一緒に稽古場を出た踊り手達の中でアパートを借りられない者は友人宅を泊まり歩いていました。身の置き所も将来の指針も持てないまま私達は、ある舞踏家が主宰する山梨県の農場に身を寄せていたことがあります。
その舞踏家が主宰する団員達が共同生活をするその農場で、ある日、海外からの舞踏の取材がありました。
その場で私はたてられ踊りもしましたが、送られてきた記事を見ると私はその場を主宰する舞踏家を喧伝するための出しに使われていただけでした。
前にも触れていますが、私には部屋が一室与えられたりと特別扱いされていましたが、私に付いてきてくれた仲間達は無碍に扱われました。主宰者の弟子達からの苛め(舞踏には畑仕事が必携と信じる?彼らは、土方からの指示で夜の六本木でショーダンスを生業にする彼女らが気に入らなかったのでしょう)、大部屋で寝させられた彼女らの布団の中には、現地に招かれた批評家が忍んで来る始末。
このことを聞かされた友惠は激怒する訳です、「あなたが彼女らを守らなくてどうするの。自分を捨てて掛からなくちゃ、彼ら、救われないよ」。
私も土方から守られて続けてきた人間ですから、経験のない風に晒され緊張もし続けていたのでしょう。胃潰瘍で入院することになります。
「しかし、その主宰者も筋の通し方知らないな、皆欲絡みで。舞踏界に真っ当な奴はいないのかね?見え見えの政治じゃない。土方も『彼のは舞踏じゃない』とはっきり言っている。あなただったら、そいつが本物かどうか一瞬で分っているでしょう。それとも妙な欲でもあったのかい?
土方の世渡りの泥臭さが毒としてだけ舞踏界には踏襲されているようだ。勿論、個人個人をみれば根は正直な奴もいるんだろうけど、彼等は群れたがるからね」と、友惠は疲れたように吐息を漏らします。
その始まりから本当に純粋な舞踏家は友惠しづねだけではなかったかと想います。
友惠の持病である喘息を治すために母親が信仰した宗教色の強い家庭で育ったためか、底抜けに善良な友惠ですので付け込む人も出てきますが、裏切りと嘘と駆け引きは徹して嫌います。では警戒心が無いのかといえば、抜けているところもありますが全て知っているんですね。「外泊先で喘息になると、驚いて気遣ってくれるけど二日、三日続くと、皆胡散臭がる」。
友惠は20歳代の半ば、こつこつ貯めたお金で6畳のアパートに籠り年間4000時間ギターの練習をしたといいます。「自分だけで律していかなくちゃならないから地獄。だけど地獄には子供の頃から馴れているから。メトロノームのゼンマイがバカになっちゃって。5000円しやんの。そっちの方がビビった」。
そんな生活を一年送った頃、「ギターを抱けば指は勝手に動くんだけど、一度置くと次は触れないんだ、怖くて。人間の出す音は恣意性を免れない。外から勝手に聴こえてくる他人の足音の無意識の必然性に追いつけない」と、自殺未遂をします。その後、ライブで作曲作品を演奏しますが、日本の即興音楽界の重鎮・コントラバス奏者の吉沢元治から天才と評され彼と即興デュオ・グループを結成します。
当時、即興音楽とのコラボをやり出す舞踏家が現れます。
ギターで何が出来るのかを探求する友惠は興味を持ち、まず踊りを習います。友惠の場合は何をやるにしても徹しています。
友惠が私達カンパニーの主宰者になってから、音楽家と共演するのであれば自分が音楽家になれば相手の表現内容と心が体で分かるとキーボード、ドラム、ブルース・ハーモニカ、ホーミー(民俗音楽)を。舞踏の形を追求するのであれば他のジャンルも知らなければと日本舞踊、茶道、華道、香道、礼法。体の使い方(下半身の力点と上半身の脱力)を学ぶために空手、和舟(船頭になって子供の客が川に落ちて助けられなかったらどうするのと)=水泳、(土方時代にはひたすら走ることが稽古前のウオーミング・アップでしたが、歳をとると膝に負担が掛かるし、前景しか捉えていない。踊りは体の全方位を意識しなければと)卓球を、それぞれ習うことになります。舞踏表現と直接に関係することから日本顔学会、石仏協会では発表もしています。友惠は他にジャズ・ギター、声楽、竜笛(邦楽)、三味線、能。現代詩だけだと粋と色気が表現出来ないからと都々逸を、舞台美術の勉強になると華道では師範の資格も修めます。
私も演劇からの共演依頼があった時には発声と演歌(半分は趣味)を習いに行きました。健康と日本人の自然観に親しむために山野草の会にも通っています。
踊りと夫唱婦随の関係にある音楽への理解は振付け法を身につけるための条件になることからコンピューターによる作曲法は友惠がメンバー全員に直接指導します。
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ヴァンダナ・シバと加賀谷早苗 |
また友惠は、直感的にこの人は凄いと想ったら直接逢いに行った方が良い。思想や技術だけでなくそれを実践する者の人となりを知る事が大事との友惠の提言により、実家が米屋のメンバーはインドの環境活動家のヴァンダナ・シバのワークショップに現地までも足を運びます。
「舞踏家は殆ど駄目ね、稽古しない。稽古しようにもテキストが無い。そんなもの無くても良いとさえ思っている。土方だけには可成り無茶だけど形=必然への憧憬と執拗なまでの
拘
りが感じられる。人間的には愛着も持てるが、彼のテキストの言葉と実際の人の体とに生じる齟齬に対しては無責任。でも着想は魅力的」。
友惠の怖さはその能力に掛け値が一切無いことです。無防備なまでの優しさとは裏腹に、他人に対して嫉妬心を抱いたことが無いから、人が当たり前に持つ妬み、嫉みの怖さを知らない。「無垢」を活力にし得る者。上手く使いこなせれば積年の夢がかなえられると想う者もいる。しかし、実際に触れたが最後、自家撞着に陥ることを思い知らされることになる。普段はペットみたいに可愛らしいのに、未知の創作の壁に突き当たる私達に手本を見せ、「あれっ、何で出来ないの?」と、キョトンと向ける無邪気な表情は残酷でもある。殺意を抱く人もいるでしょう。畢竟「純粋」とは、こうしたものなのかもしれません。
「俺、地獄を生きてきたもの」、「私は程々楽しく生きたい」、「えっ、あなた暗黒舞踏でしょ?」。結局、終わりなき勉強を強いられることになります。それが本来、舞踏家に課せられた生き方なのかもしれません。友惠の日々の稽古では一切の妥協がありません。ハイブリッドな課題が尽きる事無く押し寄せて来て、私のプライドなどはとっくにズタズタです。しかし不思議なことに、舞踏をやり続けていて良かったという清廉な気持ちは健在です。他のメンバーも同じです。
「(演奏中)ちょっとでも油断すると一気に押し込まれる。友惠は(自分の)追い込み方、上手いよ」と語る吉沢(コントラバス奏者。友惠を29歳で自殺した伝説のサックス奏者・阿部薫[※3]以来の天才と評する)ですが、友惠の体は何時でも襤褸襤褸です。体は超弱いのに何故こんなにパワフルなのか?不可解ですが、本人は「馴れてるから」と、喘息の気管支拡張剤を銜えながら、すらっとぼけます。
[※3]:阿部薫はその破天荒な生き方から舞踏界でも知られていましたが、私は、友惠と同じ喘息持ちであった彼の音は「死にたい死にたい」と叫んでいるようにしか聴こえません。ある種の予定調和を感じさせます。一見同じように常に死に隣接しながらも友惠の音楽には人類の生の尊厳を謳歌させようとする、いたいけないまでの優しさを感じます。「即興だけだと生き切れない。形、人間の形を求めてこそ味わえる旨味が人生にはある」と友惠は言います。
19 暴挙
`87年、銀座セゾン劇場こけら落しに予定されていた土方舞踏団公演(`84年に企画された時点では土方の弟子は私一人しかいなかった)は、`85年の土方の死により急遽「土方巽追悼公演」に変更になります。舞踏5団体による一日ずつの5日間公演。
追悼公演企画の段階からセゾンのプロデューサーを交えての出演者の選考など各団体牽制し合っていました。
当日仕込みの当日本番というキツいスケジュールの上、商業劇場の経験者も殆どいなかったことから、どの団体もごたつきます。
元々、舞踏は演劇などと違い小さな業界ですので、複数の団体を掛け持ちするスタッフや俄ブレインも出て来きます。各団体の準備状況は噂話として
具
に伝わり、以後、舞踏に寄生するコウモリが大量に発生する要因にもなりました。
この企画にセレクトされたある舞踏家は弟子も少なく稽古場も無いことから元藤と絡みます。そこで真逆が起こります。六本木、赤坂のショークラブ経営他、ダンサーの派遣業に浸り20年以上踊りの世界とは関わることが無かった元藤が、自身を作品の主役にたてさせるために舞踏には素人の演劇の演出家を雇い入れます。
その公演にはセゾンの選考から漏れた十数人の若手(30歳代後半)舞踏家も参加し、まるで宝塚劇団のトップ・スターを彩るように彼女を囲みます。それまでの不節制な生活からでしょう存分に太った彼女からは舞踏の体は全く感じられません。
当然、主役を盗られた看板の舞踏家と、元藤とつるんだ素人演出家との間に悶着が起こります。出演を途中キャンセルした誇りを持つ舞踏家もいたと聞きます。この前代未聞の破廉恥な公演を否定する批評家が一人もいなかったという事実が、互いに顔色を見ながら自身のポジショニングの確保に奔走する当時の舞踏界のありさまを物語ります。
公演後の打ち上げの席で、演出家が呼び入れた暴力団が暴力沙汰を起こしたとの噂が広まります。しかし、舞踏界はこの不祥事に知らぬ顔を装います。土方が生きていたならあり得なかったことです。生前、土方はその素人演出家を「彼は死んでないから駄目なんだ」と認めていませんでした。
この事態に憤慨し事の真意を当の演出家に直接問い糾したのは舞踏界で友惠ただ一人でした。
「やった(暴力団員に拳を揮わせた)のは奴(看板となっていた舞踏家)だけだよ」と、その演出家はニヤつきます。私もその場にいたので、はっきり覚えています。
「舞踏界ってところには節操という言葉が無いのかね。皆ビビって見て見ぬ振りだ」と呆れる友惠ですが、「俺もいつ
殺
られるか分からない」とボヤけば、「しょうがないんじゃない」と、友惠の弟さんは
突慳貪
に応えます。「どこの世界も同じだろ。外資系(会社)は特に外より身内が怖い。成功し過ぎると足下を掬われる」。「兄貴は芸術家のくせに全然、泥臭くないなー。でも皆さんは、本当に頑張っていると思いますよ」と、私達には微笑みかけます。
セゾン劇場での土方追悼公演で看板に立てられた舞踏家を差し置き、元藤が主役然と観せた踊り?はといえば、それは私と土方が20年かけて培った舞踏を蔑ろにし、泥を塗る愚挙でした。もはや犯罪だとも思いました。勿論、「踊りのことは芦川に。お金のことは元藤に」と病院の差し迫ったベッドの中で遺言を残した土方なら、踊り手としての彼女など全く認めてもいませんでしたし、公演の出演など絶対に許す筈はありません(フェアを期して、敢えて言いますが、ベッドの中の土方は私の顔をつくづく眺め「女はな〜・・・」と、苦笑いしました)。
彼等のこのような常軌を逸した公演は、舞踏を初めて観る観客には無礼なことです。その後の舞踏アートを大きく歪める起因ともなりました。
土方の死後、明確な指針を持てない舞踏界はそれぞれの欲望が絡み迷走し続けることになります。
20 光速のメリーゴーランド
友惠は私達に共同生活を提唱します。当時、借りていた知り合いの舞踏家が経営するバラック建ての稽古場が、中央線の国分寺駅から支線で一つ目の恋ケ窪駅の天然の防音設備となる畑の中にありました。その周辺ということで国立駅から歩いて25分のマンションと2DKの一軒家を借りました。
アメリカでは既に定着していましたが日本でも最近流行り出したシェアハウスのはしりでしょうか。
一軒家の方には庭もあるので駐車スペースにもなり、舞台美術の制作もできました。
たまたま、その一軒家の路地を挟んだ斜向いに、友惠と即興演奏デュオを組んでいたコントラバス奏者の吉沢元治氏が住む同じ間取りの家がありました。そんなことから、自然と彼と私達の交流は深まりました。吉沢はコントラバスを携えて私達の深夜の稽古にも付き合ってくれました。即興演奏家である彼は常に演奏の契機になる発想を求めていました。
シェアハウスにはメンバー全員が集まった訳ではなく、自宅組やプライベートも楽しみたいと自身で借りたアパートに留まる者もいました。友惠は「こんなド田舎、小学校の遠足で来る処」と笑いながらも苦にせず目黒の自宅から通いました。
稽古は恋ケ窪の貸し稽古場(他の人も借りていました)だけではなく、友惠が住み、私達にも馴染みがある土方の稽古場があった目黒の公民館なども頻繁に借りました。ある公民館の部屋では、設置してある長テーブル、椅子を移動しますとクレームが掛かり、部屋の隅で稽古したこともありました。友惠が持参したギターを弾くと、音楽は禁止だとクレームが掛かったこともあります。
メンバーは国立の住まいと稽古場、六本木のショーダンス、その都度予約した目黒のあちこちの公民館と、移動時間だけでも大変でしたし、体力的にもキツい思いをしました。
しかし、カンパニーとしては金銭的にも楽になり、今後の公演活動のメドもつくようになりました。
何より、それまで不安を抱えていたメンバーが舞踏に没頭することができ、私達は新たに一つになることができました。
土方は最晩年に「舞踏はまだ赤ちゃんなんだよ」と語りました。友惠は「いつでも始まりがあるだけ」と言います。
友惠は私が知る中で泥臭さとは最も縁遠い人間でした。人が訝しがるほど老成していますが、いつでも丸裸の赤ちゃんでした。
本物か偽物かは出会い頭で分ってしまうものです。そして資質とは生涯、変わりようがありません、宿命を担わされているかのように。土方も「才能だけは教えられない」と言っていましたが・・・。
「それを言っちゃオシマイよ、踊りのメソッドなど創る意味がなくなる」。友惠は「今は昔『臨終只今に在り』とか、昔せっかちな坊さんが言ってたけど。これ大事ね。人類に有るようで無いのが余裕。当てにできないよ」と苦笑いします。土方は講習会で、彼の詩的ですが不可解な言葉による踊りの指示に戸惑い躊躇する講習生に「人生に予行演習はないんだよ」と煽ります。
余裕はあらゆる生き物達の文化の源泉。其処には何時でも親しげに寄り添ってくる何かがいる。それが神なのか狸なのか?誰ぞ知る。
以後、私達の団体は怒濤の創作に(それぞれ個性を担った一人に一つだけある)体を呈していくことになります。
友惠は次元違いの天才でした。体が備える機能と感性、その受容力と消化力、エネルギーへの変換力は並外れています。これらの能力はオートマティックに作動します。
私達は光速のジェットコースターに乗っているようでした。
友惠とメンバーと一緒に後楽園遊園地に行ったことがあります。ジェットコースターを見上げ「あなた、乗る?」と友惠が訊きますので私は「絶対ヤダ」と言います。「俺もヤダなー。お金出して何で怖い思いしなくちゃなんないの」と友惠。メリーゴーランドが一番楽しかった。
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