36 舞踏は友恵しづねから始まった
友惠は、土方の舞踏の形化への熱望に個を超えたアートに対する揺るぎない芯を感じました。そのための具体的な技術開発の発想は新鮮で、未成熟でありながらも黎明期特有の活力を備えると評価します。
しかし一つの文化ジャンルが受け継がせるべき形を成就することの苦難は並大抵のことではありません。鋳型に嵌ったそれではなく活きた形を手に入れようとするなら、命から湧き続ける力が必要になってきます。私の知る限り友惠は、舞踏の可能性を追求し続けることを止めない唯一の舞踏家です。この作業が友惠の肉体と精神に強いる負担は壮絶です。命を懸けるなどというお座なりの言葉では表現し切れません。自分の命のことなど考えてないかに見えます。
友惠のギター演奏の批評に「ギターという楽器としての限界性と、音の領域を拡大しようとする衝動が破綻を臭わせつつ拮抗して、静謐なカオスを生み出している。」(ラティーナ誌)がありますが、身体アートに対する友惠の姿勢も全く同じです。拡げるだけ拡げ切り命を賭して絞り切る。友惠の体はいつでも空中分解寸前でした。「人間が己の形を定めることなど、元々おこがましいんだよ」「もう、これ以上できないという処で仄かに垣間みえた景色が、次の形への
誘
いになるだけ」が友惠の口癖、「その都度、全てをキチッとやらないとね」。
「土方は作品構成、演出法は誰にも教えていない。尤も舞台美術は有名日本画家の作品(加山又造の満開の桜を描いた『春朧』をゴム判子で作った桜を押しまくって真似る、など)の粗雑な模写を、音楽は市販のレコードで間に合わせ、劇場設置の照明、音響機材には全くの無頓着とくれば他人に教えられる技術など確立できる筈もない。
では、振付けのレベルはどうかというと、素人相手とはいえコンセプト=言葉を先行させる故に稚拙であるばかりか踊り手の体を不自然に拘束させる。踊り手は振付けを頭で理解していては駄目、体で
識
っていかないと、異様な顔の表現だけが強調され下半身どころか首から下の存在が抜け落ちる。生き物としての人の体の構造を蔑ろにした土方の振付けは基本から成ってない。
例えば、幼児の体の動きと形の純粋性、これは舞踏の振付けの一つの極致。誰もが生きるために経験してきた仕草なのに、歳をとると誰も覚えていない。
ギターって弦に触れれば誰でも音が鳴らせるけど、死んじゃうと音出すの結構難しいんじゃない。その意味が体で分かりさえすれば、創作の一つの契機になるかもしれない。
ギターは弾く人がいなければ木偶の坊然と黙ってればいい。勝手に喋らせちゃ駄目。宿縁を待つから誰でもいつでも音が出せるの。猫でも出せる。この一見惚けた佇まい、これが日本文化が示唆する無の境地とかいうもの。体も同じ」、「このギター、私じゃなければ、もっと良い音が出てるんだろうに。この私の体、扱うのが怠け者の私じゃなければ、全然素晴らしかった筈なのに、・・・そこはそこ、そこは確かな私のここだから、たぶん人生は果てしなく面白い」。
友惠が主宰者になってからの活動は他の舞踏家は言うに及ばず土方時代と違って深く多彩です。
私を主演とした土方の海外公演での悲惨な結末から、先行きが全く見えなかった亡き土方の舞踏を継承することに始まり、結成から9年目でエジンバラ演劇フェスティバルに招聘されるまでに舞踏を育てたことでも、その実力が実証されます。私達の実績に対する舞踏界の反応は壮絶なものでした。それは嫉妬を遥かに超え、それまでの彼等の舞踏観を根底から覆しアイデンティティーを奪うものでした。脅迫電話も頻繁に掛かってきます。私達は女性が多いグループでしたので借家にはSECOMを設置しました。
私は友惠に対して、主宰者なんだから、もっと上手くやってよ、との気持ちはありました。誰も信じてなかった土方は対人関係の要領だけは心得ていたのに、友惠といえば誰彼構わず喧嘩するんだから、と。しかし友惠の能力の発露はオートマティック。
「・・・ほそ草を踏みしだき・・・ふく風に髪をなぶらせて、ってランボーの詩(サンサシオン)、あるじゃない。あれって、好きね、十代からずっと」と友惠は一人飄々としています。「だって、彼等退屈なんだもん」。
友惠は舞踏の新たなる境地を拓くために実験作品にも挑み続けます。
コラボレーションでは国内外の即興ミュージシャン、現代美術家、文楽、義太夫など古典芸能、照明アーティスト、衣装デザイナー。モリサ・フェンレイなどモダンダンサー、ロック・グループ「X JAPAN」のhideとは彼のソロ・デビューから亡くなるまでのお付き合い(九州から北海道まで全国の主要都市でのドーム公演など)となりました。またNHK、フランス・リヨン劇場のオペラなど多種ジャンルの多アーティスト達とアクティブな作業を展開し続けています。
友惠のディレクションによる音楽とのコラボ・シリーズでは池袋演劇祭で大賞を受賞。演出家としては2007年、台湾の伝統劇団「ガンチン・シアター」の「朱文走鬼」で台新芸術賞大賞を受賞。同作品は2010年パリ国立オペラ座バスチーユ円形劇場にて上演、絶賛されます。
また、NY−東京など20回以上行っているテレビ電話会議システムによる遠隔地2地点同時ライブ・コラボ公演(2劇場分の演出をしなくてはならないので友惠に掛かる負荷は想像を絶します)、講習会など常に前衛としての精神を持ち続けます。
土方舞踏は'60〜70年代に当時100万部発行していた成人向け週刊誌のグラビアを媒体とした写真とそれをキャプションする言葉によって広まりました。実際の公演は東京だけですが、全国に知られるようになります。女性の裸、白塗りメイクという特異な意匠が週刊誌ネタになったのでしょう。
雑誌媒体は写真と言葉から成り立ちます。編集者は写真のエロスのインパクトと不可解さ(裸をそのまま載せれば単なるヌード。読者のスケベ心をくすぐりながらも、芸術というフィルターをかければ、編集者、読者共いくばくかの誇りは堅持させられます)をプレゼンテーションするために、これを説明する言葉を欲しがります。
土方は、編集者や読者の要望に応え更なる需要を煽るために独自のキャプションを駆使します。写真と言葉によるプレゼンテーション、それが前衛舞踊から暗黒舞踊、暗黒舞踏と名乗りを挙げる一つの契機ともなりました。
しかし、実質の公演内容は即興的に作った踊りのシーンをその都度、時系列で繋ぎ合わせるというもので、音楽や音響も照明も、その場合わせでスタッフに任せるというものでした。作品としてトータリティーがとれたものなのかどうかは、土方の指示に従っていただけの私には分かりません。とにかく、当時は直截的なインパクトだけが何より求められていた時代でした。
'60年代後半、私は土方の初めての内弟子として注目されましたが、初期の頃は団員への振り付けも四つくらいしかありませんでした。舞台では主役の土方が立ち姿ですので団員達はそれを浮き立たせるために座り技に徹させられました。これが後に土方舞踏特有の「がに股」としてプレゼンテーションされます。
土方の舞台創作法は、友惠の、踊り手を一人の人間として正面から向き合い、数ヶ月、時には数年ごしで創る方法とは全く違います。
土方の場合は、例えばシリーズ公演では前宣伝のために先に全タイトルを決めてしまって、後付けで作品を間に合わせるというような方法でした。作品は2〜3日で作っていましたね。
一度こんな事がありました。急拵えの本番前のリハーサルで、土方は思い通りにならないシーンで踊り手達を怒りました。すると踊り手達は楽屋に戻り帰り支度を始めます。これには土方も肝を冷やしました。それまでは男の団員には殴ったりもしていましたが、以後、踊り手には脅しすかしながらも気を使うようになります。
土方は作品よりも情宣やブレイン達への営業に熱心過ぎると思ったことがありましたね。
'87年に予定されていた銀座セゾン劇場こけら落し公演の準備(観客キャパシティー700人×10日。チケットノルマを果たすための出演者集め)のために、当時、海外で活躍している舞踏家を横目に取り残された若手の舞踏家達に率先して近づいていこうとしていました。
土方は彼らと飲み歩き、稽古場に何日も戻らないことも頻繁になります。
私は何故、今更スタイルも全く違う舞踏家達や酒好き理屈好きの批評家に媚びを売るように営業をかけるのか理解できませんでした。十代から土方だけを信奉し続けた私は正直言って不愉快でした。
それまで土方はアートにおいては彼等とは距離を置き、安易に受け入れることはしませんでした。それ故、私も土方舞踏の主役としての自負心を堅持することが出来ていました。彼等とて土方の講習会には参加しませんでしたし、様子見に顔を出す人がいても格好を付けるだけで自分のスタイルを崩さず土方の稽古の指示には従いませんでした。
にも関わらず、土方から金と労力を懸けて接待される若手の舞踏家達の良い気になった笑い顔を思い浮かべれば、土方の行為は私にとって裏切りとも想えました。
それこそ19歳で入団し、結婚もしないでアートに懸け、食事も一汁一菜での生活を通しての舞台だけならまだしも、元藤の経営するショーダンスの仕事にも一心不乱に走り回ってきた日々が想いだされ、今まで私がやってきたことはどうなってしまうんだろうと、不安になります。しかし土方を信じていたからこそ、理不尽に耐えることなど雑作も無いことでした。
若手の舞踏家や小劇場出身の演劇人の海外での活躍に対抗し、来る'87年の商業劇場・銀座セゾン公演のノルマからくるプレッシャーがそうさせているのかとは思いもしましたが、私が懸けて来たアートの真実はどうなってしまうのかとの疑念は払拭し切れませんでした。
土方は、体力だけは旺盛な若手の舞踏家や接待馴れした暇を弄ぶ批評家との酒席を媒介にした過度な営業活動が祟ったのでしょう、肝硬変から肝臓がん、転移した肺がんでセゾン公演の前年にあっという間に亡くなる訳です。
有名な写真家に踊りのポーズを撮らせ、自らを「超人」とプレゼンテーションし健康には過度の自信を持っていた土方ですが、自身の死を知ったのは入院していた病院の大部屋から亡くなる二日前に二人部屋の病室に移り、医者から「好きなものを食べて下さい」と言われた時です。土方は「鰻」と呟きながら「俺もな〜(東京には出て来たけど、美食には縁がなかった)」と笑いました。それまでも、稽古場には顔を出したこともない土方の夫人は料理など作る人ではありませんでしたので団員が作る野菜入りの生ラーメンを美味しそうに食べていました。
死の告知は今日までも本人の「終活」に関わる人生への大きな課題を提示します。土方の死は名義上の親族である夫人の元藤だけが知っていました。土方も私も直前まで知らされることはありませんでした。二人とも、じきに退院すれば、また元の創作生活に戻ると信じていました。
このことが後に土方死後の舞踏界に、元藤が舞踏家として再デビューする政治的な目論みに大きく関与するなどとは、その時は舞踏界の誰も予想だにしませんでした。
私にはそれまでの20年間、一度も稽古に加わることのなかった元藤により予め準備されていたことと想えます。
死の宣告、その受け止め方は当事者によって千差万別です。生きる上で人それぞれが養われてきた地域の歴史文化、意識的に培かった信条、人間関係も含めた具体的な生活環境が示唆する生死観によって様々でしょう。死をネガティブに捉える人には残りの人生を悲嘆にくれさせることにもなりかねない重要な個人情報です。当事者への死の告知の是非は大きな社会問題です。
ただ「終活」は、それぞれの人生の決算であり、未来への夢を繋ぐための責任を成就するためのポジティブな情報と捉える人にとっては死の告知は最も重要な情報と看做されもします。
土方は生前、ニヤつきながら「死ねば終わりさ」と漏らすこともありましたが、歴史に刻まれるアーティストとしての自分の名前には拘り続けていました。
これは何もアーティストという特殊な職種に従事する者だけではなく、現代日本人はいうに及ばず、人類の誰もが抱いてきた自然な心根かもしれません。
己のDNAを伝達する。何者かに受け持たされた使命。無償の愛ゆえに子を守ろうとしながらも淘汰されもする自然の掟に殉じる。地球で生きる体を持つ全ての生き物達が共有する優しくも残酷な宿命です。
ただ、人類を他の生き物と類別させる生存のための特質的なツールである言葉は人間の定義に基づくだけでなく、個人の承認欲求をも足場とします。承認欲求が増長すると本来、生活上の便宜から恣意的に付けられた筈の名前にも普遍性を求める者も現れます。
一匹の生き物に一つの体、一木一草に一つずつの体。このテーゼの信憑性の確認のために、嘗て日本のある大学者は「粘菌」の生体を研究します。一雫の叙情が息吹くところなら舞踏家とて同じこと。何処までもゆきます。
滅びゆく体を担った個と言葉による普遍との交友は、ややもするとルーティーン化しがちな日常からピット・インした状況でこそ際立ちもします。
やっておきたいことがある。逢っておきたい人もいる。人によっては「終活」は人生を締め括るための輝くインターバルとなる重要なターニング・ポイントになるのかもしれません。女々しいと云われれば、それまでですけれど。
それまで健康で普段と変わらず、誰とも特別な話もしない、特別にものも考えない、知らぬ間に死んでゆく。私はそんな自分を空想します。女の強さなのかもしれません。ただ生きている間は、やはり、生への怒濤の執着心を拭い去ることはできません。
入院しても尚、土方は自分が死ぬとは毛程も想っていませんでした。勿論、私もそうです。病床での土方は来るべきセゾン公演の構想を練り続けます。渋谷の西武劇場での失敗以来10年以上人前では踊っていませんでしたが、本人も自ら出演する気でいました。商業劇場は土方には合わないんじゃないかとの心配する声もありましたが、西武が出版する情報誌「ぴあ」では既に情宣もされ、土方の創作欲は嫌でも煽られました。
セゾン公演の前哨戦として企画された池袋の西武デパート内に
設
えた小スペース「スタジオ200」の10回シリーズ公演は、土方の公演制作のブランクと急遽集めた間に合わせの団員のせいだけではなく、舞台ライブを一つの情報と捉える観客('60年代と違い、彼等は一回観れば知識としてファイリングできたことで満足し切る故、2回は来ない。これも多彩でデリシャスなソフトを発振する情報誌の影響でしょうか)の嗜好にそぐわない状況を知らされます。観客動員数は回を重ねても増えていかないのが現状でした。土方の焦りは彼の舞台で主役を踊る私にも切々と感じられます。このシリーズ公演は土方の死により4回で打ち切りとなります。
「好きなもの食べて」との医者の言葉から己の死を間際に知らされることになった土方は、「舞踏は芦川に、金のことは元藤に」との遺言を残します。
しかし、その遺言は、土方の死後早々に、その夫人によって反故にされることになります。
「土方舞踏を凍結し、その資産的価値を」と宣言する元藤は、私に対して自分の「許可なくして踊ってはならない」と命令します。
自分の人生を託してきた土方の突然ともいえる死。土方享年57歳、私は39歳でした。20年間も当たり前の様に一緒にいてくれていた先生が不意に、いなくなってしまった。
当初、私は動転していましたが、暫く時間が経つと嫌でも元藤の言葉の意味が分かってきます。土方の意向は蔑ろにされた、と。
死んでまでも他人を差配することは簡単なことではないのでしょう。何しろ、自分の死後の世界を検証するための五感を備えた体は焼かれ、無いのですから。
「歴史に名を残す」などとの特別な欲望を抱く人はアーティストには多いのかもしれません。舞踏は飽くまでも体を基にしたライブ・アートを本領としますが、アーティストの行為、作品を言葉で括ろうとする批評家の中にも「名を残す」ことに野心を持つ者もいるようでした。
本来、彼等の仕事は難解とされる現代身体アート・舞踏を如何に一般に分かり易く紹介するか、文化史にどう位置づけるかが基本となる筈ですが、自己顕示欲を満たそうとする俄批評家が土方の死後、舞踏界には蝟集してきます。彼等は処構わずビギナーのファン相手にも舞踏論を
打
ちまけます。
彼等には創始者とされる土方の死により、舞踏は言葉で概念化し得る対象物と映ったのかもしれません。しかし、彼等は舞踏の舞台制作の構造や土方が志半ばとはいえ探求し確立しようとしていた身体表現の技術を知る者は一人もいませんでした。
つまり、土方と伴に先も見えないながらも、その都度、発見の喜びを共有した私との稽古の現場。これも土方の情宣上の戦略なのでしょうが後に「門外不出」と銘打たれ喧伝される土方メソッドのあらましなど、彼等にはハナから関心がありません。振付家と踊り手、その二人しての、余りにも雑多な実験作業のプロセスに興味を持つ者はいません。作業中は、私が一方的に悪者にされることも侭ありました。「ペニョペニョの蛙足」、「新宿の浮浪児」などと
貶
されることは茶飯事です。しかし私は土方を信じ尽くしました。時には暴力も揮われもし辞めようとも想った事もありましたが、それでも私は土方とは何時でも一緒でした。
確かに土方は、ライブ活動の情宣では当時の文学界でスポットが当たっていた現代詩人など文芸家の意表を付くような詩的な言葉を披露することで彼等の関心をかいます。文学者がブレインとなることが舞踏の一つの特徴ともなっていました。舞踏のファンも身体表現よりも文学に興味を持つ人が多かった気がします。逆に同じ身体表現でも西洋舞踊に関心を持つ人達には「裸に白塗りメイク」など、世間の耳目を惹くために観てくれだけ過激で実質の表現技術は曖昧との理由から嫌う人も多いようでした。
生老病死を宿命とする体、その表現の純粋性を提唱するためか、はたまた、プレゼンテーションの核心を隠すことで表現の神秘性を演出するためか?生前の土方は「舞踏は誰にも括らせない」と
嘯
いていました。
しかし彼が集めた文学系のブレインの選別はブランド価値も含めてかもしれませんが、営業には余念はありませんでした。その付き合い方は相手の顔色を見ながらのヒエラルキーのもと半ばサロン化していました。接待には充分過ぎるほど気遣う
人誑
しの土方でしたが、締めるところは締めています。特に舞踏に隣接する身体表現をプレゼンする演劇家への批判は厳しく、彼等とは距離を保ちました。例えば「白石さんは二流ですよ」と公然と喋ります。暗に私(芦川)は一流と云われているようで、嬉しくもなりました。寺山修司氏には「芦川、貸そうか?」との喉元への提案に、彼は引いていました。
「自分が相対化されることが許せないんだろ。特に東京の一流大学出身の奴らとは」と友惠は言います。
場の仕切りに関しては常にイニシアティブをとっていた土方でしたが、彼の死後は舞踏に関わる者それぞれの思惑から、創作現場を離れた言葉による思い付き的な舞踏論が曼延したまま野方図に放って置かれることになります。舞踏界は体を蔑ろにした「言葉の叛乱」に歯止めが利かなくなります。収拾する者を亡くしたことで、舞踏は無節操に拡散していきます。
私が土方の弟子でいた20年間、一度も稽古に参加したこともない元藤が主役として踊り講習会まで開きだします。元藤の経営するショークラブの事務員が我が物顔で土方舞踏を牛耳ろうとするなど破廉恥な行為が横行していきます。
土方が生きていたならば到底許す筈もありません。
もし土方に「終活」を享受する余裕があったのならば、実存に課せられた生死の命題を乗り越えることをアートの理念にしていた彼のことですから、自身の死後の世界までも緻密に演出する手立てを抜かり無く考えようとしていたでしょう。舞台を降りてからも主役は常に自分。そのような
性
を持ち続けていた人です。彼に惚れ込んだ人達のその後の行く末にも健康的な糧を与えられていたのかもしれません。
例え、体を亡くすことで操作不能になり、彼の楽しい思惑が外れることになったとしても、その一瞬に臨む清々しさは忘れない人でした。大事なのは他人への想いの寄せ方です。
体と言葉、歴史と個々の人生。その親しい間柄を、戦後、怒濤のように輸入される西洋の世界観を混淆、消化しようとする日本文化の資質、その一極北を舞台アートで開示した舞踏は、土方の言葉を借りるなら「産まれたばかりの赤ちゃん」です。
'83年、寺山氏、'86年土方が死去し、彼等が前衛として創成した小劇場運動の様相もテレビ文化を反映したバラエティー色が取り込まれ広く一般にも浸透するものとなります。
土方の死後、舞踏ブランドの覇権争いに奔走していた、私と同世代の舞踏家の中には舞踏「的」イメージを活かしたキャラクターでテレビドラマや映画に役者として活動し出す人も現れます。彼等にとって舞踏とは何だったのか?私は寂しい気持ちになります。
'80年代半ば、政治塗れの舞踏界に現出したのが、友惠しづねという存在でした。友惠によって舞踏には新たなフィールドが切り開かれます。
友惠の資質を一言でいえば「名人」です。私達とは次元違いのところを生きている。
一級の努力家であるにも拘らず自己顕示欲が全く見受けられない。本人は「下手な欲は速度を得るためのハザードになるだけ」と。
他人と自分を比べないから嫉妬という感情を知らない故、嫉妬されることに気付かない。
自分への厳しさはとことん執拗だが、行動の規範は「情」。「情が
基
に無ければ人間の意味を培う条件、ポエムがすり抜ける」と。
私達が羨むほどの天啓に恵まれた身体表現感覚を持ち、若くして老成した天才でありながらも善良でお人好しともなれば、初めは、友惠の無防備ゆえの巡り会いに雀躍しながらも利用しようとする者も出てきます。私もその一人かもしれません。
打算で人生を斟酌しようとする者には、彼の無垢さはバカにも映るだろうと想うこともありますが、友惠の意識は何時でも恐ろしいほど明晰であったりします。中には憎み出す人も。
「宮沢賢ちゃんているじゃない。雨にも負けず風にも・・・って言ってるけど、37歳で亡くなった彼の病弱な体でとても耐えられないよ。一日四合の玄米をと、健康のために玄米食にチャレンジしたけど胃腸が弱い彼は消化できない。それで勧めた人を『素人の癖に生意気です』と悪態付く。
私も玄米は駄目だった。それで麦にしたんだけどね。元祖押し麦とか七分づきとか、種類も色々あって楽しいよ。直ぐお腹空いちゃうけど。『雨にも負けず』はノートに書き残しただけで正式発表した作品じゃないけど、彼にとっては一つの夢見る境地であったのかもしれないね。そこにポエジーを見いだすのは読者側の
心根
」。
土方は「酒さえ飲まなければ、俺も宮沢賢治になれたのに」と言っていましたが、「彼は無理。だらしないよ」と、友惠。「詩は、要領の悪い人にこそ芽生える微笑み。計算外の幸せ」。
37 海外公演のオフは家庭麻雀
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海外公演の合間に卓を囲む |
絵に描いたように政治闘争が終焉する'70年台初め、酒とプロトタイプのディベート、自由恋愛と麻雀を覚え、勉学を忘れ行き場を失った学生運動家が目を付けたのが、前衛をコンセプトに反社会性をプレゼンテーションする身体アート・舞踏でした。
「麻雀放浪記」[※4]のリスクを請け負う度胸もなく、かといって今更、レールに乗ったサラリーマンになる気もない。「何でも見てやろう」(小田実、1961年)のバックパッカー(世界一人旅)になる勇気も金(1ドル360円時代、フルブライトに選ばれた小田とはハードルも違う、が)も無い。
[※4]:阿佐田哲也の小説。1969年著。主人公はギャンブルに人生を費やすアウト・サイダー。友惠の家の隣に住む親戚の学識優秀なお兄ちゃんは、封鎖した学校で暇を持て余し元金も持たずに雀荘に通うのが日課。終いにはサラ金に追われ友惠の親も巻き込み家族会議が開かれるが、本人は消息不明となる。
既にヒエラルキーが確立し、修練が必要となるアカデミック・アートを志す気力を無くした者が、簡易に自己実現もできて、エリート意識さえ保持できる観念アートとしての舞踏に興味を寄せました。
ある時期、私が住む土方の稽古場にも、寝泊まり自由ということからか、警察に目を付けられたと思い込んだ学生運動家が頻繁に出入りしていました(土方は彼等を男女ペアーで地方のショーダンスの仕事に派遣し荒稼ぎします。地方に派遣された女性にはお腹が大きくなって戻った者もありました。その後、結婚したのだから問題はありません)。
公演では、それまで身体表現どころかアートになど関わったことがなかった俄舞踏家達が全身に「白塗りメイク」を施し、人前で己の体を露出します。
観覧席に鎮座する文化人に煽られれば、その気にもなり、思い付き的発想をシュールレアリズムと称しさえすれば、舞踏は何とでもなると思い込みます。土方がブレインの文学者と伴に打ち上げた借り物の言葉を振りかざし良いように捏ね廻せれば、それでやったつもりになれると。
中には「日本のアニミズム」を装うショーとしての体裁を整え海外にシェアを拡げようとする者も出始めます。
ビジネス上の成功如何は自身の表現をどれ程「嘘」として認識するかの度合いに比例していたように思います。学生運動出身者よりも高校出、運動部系の方が割り切り方が徹していたようです。
その頃、私は土方から「蛙足」(下半身が弱い)と揶揄されれば、一人でも稽古をし続けました。「あなた、よく稽古するねー」と、この点は友惠も関心します。「負けず嫌いは良いけど、
他人
と競うと踊りに『抜け』がなくなるよ」とも。
38 土方の唯一の後継者
土方は自身を被写体にした写真によるプレゼンテーションには非常な拘りを持っていました。キリストをモデルに長髪に、ハリウッド俳優ユル・ブリンナーを真似ては坊主頭にと意匠を施し、稽古場に写真家を呼んで撮らせていました。
そんな踊りともポーズともとれない写真の中の土方を真似して悦に入る男の弟子の姿を横目で観る私は気恥ずかしくもなりました。似てないんです。
土方は作品では「男は俺一人でいいよ」と、男性にソロ・パートを持たせることはありませんでした。晩年には男の弟子は採りませんでした。
土方舞踏の公演では男女含めて郡舞は出演者の歩調を合わせるために簡単な振り付けでした。主役であった私のソロ・パートの振り付けとは時間の掛け方も違いますし密度に格段の差がありました。
'70年代前半、弟子の中で才能、魅力を感じさせる男性は一人もいませんでしたね。土方と比べれば皆そういうことになりますが、だからといって、彼らが人間的にどうこうということはありません。勿論、純朴で真面目な人もいました。団員は皆、清貧でしたので、朝方、当時でき始めたコンビニ店の前に納品されたサンドイッチを箱ごと持ってくるなど(完全に犯罪です)、忙しい中でも和気あいあいと楽しみ合った時期もあります。
土方の舞台では舞台美術として、「東北」を連想させるためかリヤカー(二輪の台車。自転車かバイクで引く)を置いたこともありました。
40年以上前のことですから時効ということでお許し願いますが、これも朝方、路上に放置されていたラーメン屋の屋台を「これは舞台で使える」と、皆でトラックに運び入れて盗んでしまったこともあります。当時の若者の前衛劇団のことですので、くれぐれもお許しを願います。屋台は舞台美術として使えないということで早々にお返しいたしました。
土方舞踏団はショーダンスの仕事も絡んでいたことから女性が多かったので、中には別の目的で入団してくる男性もいたようです。また、土方というレッテルが欲しいだけの人もいたようです。土方はグループ名を与えて体よく辞めさせていました。
舞踏のメソッド化を標榜していた土方です。入団してきた者をインスタントな舞踏家として脚色し、本人をもその気にさせる術には長けていましたが、「才能だけは教えられない」と疲れたように言うこともありました。
唯一の例外は、土方晩年の講習会で「どちらかが死なないと、舞踏は継げないんだよ」と、友惠の顔を覗き込むように土方は言います。土方には感じるものがあったのでしょう。その土方の言葉から友惠は「この人はアートに観念ではなく、命の景色を観る目を持つ人」と想ったそうですが、その時点では音楽家の友惠は舞踏家になる気は全くありませんでしたから、「この人は、今なぜ、私にそんなことを言うのだろう」と土方の言葉を受け流していました。
尤も講習会終了後の深夜までの飲み会では、普段は全くの無口の友惠が主宰者である土方をさておき、場のイニシアティブを取り始める(酒が入るといつものこと)と、友惠の首に手を廻し頬を寄せた土方は「35歳で決まるよ」と耳打ちします。
そんな土方を友惠は「随分、冷たい人だな。何故なら周りには35歳以上の人も何人もいるのに、よく平然と付き合ってる」と。友惠の人の良さは一級品です。周りの人から嫉妬されているのにも気付きもしないで。
それから一年も経たずに土方は亡くなるわけですが、実は、友惠の宿命は、この時、決められていました。
当時、女性の私が主役を勤める土方舞踏の公演を観て、作品の熱狂とは別に「ここでは男は育たない」(男性は脇役の群舞のみ)と、他の舞踏団に入団する男性も多かったようです。振付け、演出に専念し舞台に出演していないとはいえオフ・ステージでも派手なパフォーマンスを怠らない土方は何時でも主役でした。厚かましく絡んできた者にはビール瓶で殴ったこともあります。
「産まれてきた人は、みんな主役。舞台のフレーミング内の役割は方便に過ぎないのに」と友惠は唖然とします。「どっかでみんな余裕があり過ぎている」と。「それより稽古内容を早く決めろよ。やること、山積みだろ」。
39 テキ屋の元締め
私は稽古中も日常でも、土方と舞踏論を交わしたことは一度もありません。いつでも踊りを通して体で会話していました。
土方は他の弟子に対するのとは違い、私だけには熾烈に接しました。
「カエル足」と下半身の軟弱さを貶された私は、深夜、稽古場近くの目黒不動尊の境内で悔しさに苛まれながら一人練習しました。
真言密教の古刹、目黒不動尊の境内は友惠の子供時代からの遊び場です。そんなことからも、友惠とは体に漂う空気感が自然と同調するのかもしれません。
舞踏公演ではお金になりません。接待費の方が掛かります。ショーダンスからではなく金銭的に自立しようとした土方は境内仁王門の前に小さな氷屋を経営していたことがありましたが、直ぐに潰れました。
目黒不動尊では毎月28日には露天商で賑わう縁日が開催されて、当時30〜40円で売っていたB級グルメ、お好み焼きやたこ焼き屋の他、バナナの叩き売りや、今なら誇大表示、偽装で取り締まりを受けそうな健康食品屋や胡散臭い口上で呼び込む占い師、射的場、丸太を組んでその回りをグロテスクな絵を描いた布で囲った「ヘビ女」の見世物小屋もありました。「小学校低学年の時だったかなー、子供20円。3列の立ち見だけの客席に棒で仕切った向こうの、地べたに茣蓙を敷いただけの舞台には襤褸(ぼろ)着物の中年の女が一人座る。テキ屋姿の司会者が『蛇は油が多いので・・・』との口上に合わせ、女はまず半紙大の紙を細く裂き食べる。そして鰻と泥鰌の中間くらいの長さの蛇を顎を上に向け口を尖らせチュウチュウと吸い込むように飲み込む。人さらい(サーカス団に売られて、体を柔らかくするために毎日お酢を一升飲まされる、が当時の都市伝説)を恐れる子供にとってはミラクル・ワールドだよね」と友惠。
来るべき銀座セゾン劇場を見据えた土方最晩年、池袋西武デパート内の公演のリハーサルで、彼は「可哀想なのは、この子です。幼い頃に親を亡くし・・・」とのテキ屋の口上を真似てみますが、「まさか、(今を時メク)舞踏の主宰者がな〜」と、苦笑いします。
境内の一画には僧侶の修行のための滝があります。その滝壺は夏にはプールとして近所の子供達に開放されていました。私も境内での深夜の一人稽古が終わるとそこで泳いだりしていました。滝壺の隅には僧侶のための着替え所がありましたので、そこに干してある僧侶の白い浴衣で体を拭きました。喉が乾けば、境内の湧き水を側に置いてある柄杓で飲めばいい。自動販売機など無かった時代です。今日ではパワー・スポット・ブームで潤ったのか様変わりし、滝壺を囲む石造りの柵の入り口は施錠されて、境内では少年達の野球も禁止になっています。
それでも'80〜90年代には、まだ取り締まりもファジーで、目黒の公民館などを借りての友惠との稽古帰りには、よく皆で散歩しました。施錠された柵を乗り越えて滝壺で泳ぐ私に、「怒られるよ」と辺りを警戒する友惠。「大丈夫よ」と私。「あなたの大丈夫は、恐いんだよ。悪者にされるのはいつも俺じゃない」。
友惠は、土方とは対極的で営業などしないどころか営業をかけられることも嫌います。対人関係では駆け引きはしません。
今、此処の体しか信じません。一緒に路を歩いていても突如、そこが即、稽古場になります。
友惠にはいつでも始まりがあるだけです。私には老獪であった土方の政治手腕より恐ろしさを感じさせます。純粋さとは厄介なものです。時に脅迫的でもある。
友惠が路を歩きながらウキウキして踊りの手本を見せます。「みんな、やってみて」・・・「何で、出来ないの・・・?」と、キョトンとした友惠の子供の
眼
は私達をゾッとさせます。
40 舞踏メソッド産まれる?
私達のカンパニーでは振り付けは友惠が担当しますが、結成当初は講習生公演や外人を中心にしたグループも主宰し、またゲスト(オペラ、ロック、ジャズ)で呼ばれる仕事もありましたので同時に三作品創るなど多忙を極めていました。
初期のうちは、一つの作品でもシーン毎に友惠と私で分担して二人でやっていました。最終的には友惠が踊り手達の個性や作品構成を見据えて
鞣
していきます。
そんな秒読みのような活動のなかで私の振り付け方法も土方とは違った独自のものとして確立できたと思っています。それは何より友惠の作曲する音楽との関係から導かれたものでした。
しかし、踊り手それぞれの体の資質を瞬時に見抜き、常にその場で産み出される作品世界とのアンサンブルから導き出す友惠の振り付け法は、舞台上演に関わる複数のエレメント(美術、音楽、照明・・・等)を組み合わせ式で作る土方のそれとは自ずと深さが違ってきます。何しろ友惠の体は24時間、それこそ夢の中でまで創作します。
友惠の創作に対する感性の過敏さは尋常ではありません。例えば、友惠は初対面の講習生でも、その背中に一瞬目を流しただけで、「ここまでは早いけど、それ以上は難しい」と、その人間の成長曲線を見切れてしまいます。
もはや特殊能力といっていいものでしょうが、メソッドの汎用性を否定する「才能」という言葉を嫌う友惠は、相手をオートマティックに見極めてしまう自身の能力に罪責感を持っていたようです。自分の後ろめたさを打ち消すように「当人がやる気があるんだったら何とかしてやりたい」と。
私などは、そこまで他人に入れ込む必要はないでしょうに、と思いました。誰もが一生、アートなど、やり切れるものではない訳ですし、適度に手を抜いて時には煽(おだ)てないと怨まれもする。私自身は入団数ヶ月で舞台に出演しましたが、経歴を重ね、それなりに分かってくれば「舞踏は10年掛かる」と言いたいところですが、アート表現のジャンルが多様化し受給者が自由にセレクトする時代「10年」などと口にしたら、誰もついてきません。引っ張っても精々3年なところでしょう、・・・しかし当時、流行り出していた短期ワークショップという講習形態から成り行き上、彼等のための公演を創ることになります。私達の公演の合間を抜い年に3、4回。場所は小劇場のメッカ・渋谷ジァンジァンなど上演ノルマも高い。しかも全部新作。そして経費はこちらの持ち込みともなる。しかし土方の元を出た私は走る他なかった。これ程の数の公演を打っていた舞踏家は他にいませんでした。
音楽家として業界人からは天才と評され音楽雑誌でも注目されていた友惠は、それまで土方の舞踏を習い、自ら踊り、音楽では他の舞踏家とも共演経験を持つとはいえ、舞踏作品など創ったことはありませんし現場に立ち会ったことも無い。舞踊、演劇とも共有する劇場上演のシステムも全く知りませんでした。
尤も私も言われた通り踊るだけで上記のことは土方に任せっきり。スタッフとも直接関わったことはありません。勿論、作品を創ったことなど一度も無い。
「音楽ライブだとスタッフが音響とか丹念に気を使ってくれるじゃない。舞台だとこっちが彼等に気を使わなくちゃいけないんだ」。「劇場の借り賃、貸し稽古場、美術、衣装、大道具、照明、打ち上げの飲み代、金も手間も掛かる。出演者も仕事休んで、凄い赤字じゃない」。私は土方時代、一円もギャラを貰ったことはありませんでした。時代的にも反体制=反商業主義こそ前衛アート=純粋アートの本随だと思わせる雰囲気がありました。特に戦前の東北の寒村をモチーフにする土方舞踏では踊り手の清貧は必携とされていました(裏では私達のショーダンスで稼いだ金を自身の贅沢な生活のために吸い上げていたという構造がありました)。
舞台創作に関しては何も知らない素直な友惠は「そういうものなの」と全て受け入れます。
私も含めて作品上演までの段取りの必要性を知る者など誰もいませんでした。
ここから舞踏カンパニー「友惠しづねと白桃房」は始まります。
当初は私だけは全てを知悉しているとの幻想を、身内だけではなく土方以来のスタッフも観客も批評家なども、そして私自身も抱き切っていました。前述したように私は作品など作ったことはありません。作り方も知りません。
現場に立ち会う土方以来の美術スタッフは「土方はこう言っていた」などと舞踏論を語りますが、具体的な案を出せる者はいません。私も踊りの音楽のセレクトなどしたことがないので音響スタッフは流行のミニマム・ミュージックを掛けたり、「音を解いて下さい」との私の抽象的な指示から、舞台上でカセットテープの中身のテープを引っぱり出すなどのパフォーマーを演じたりしていました。
観客キャパシティー5〜60人程の狭いスペースでの裸の女性による公演はエリート相手のショークラブを思わせ、六本木、赤坂に縁遠い舞踏の観客の好色心をくすぐりもしましたが、土方舞踏の面影が無いことに呆れると同時に、それまで土方から威圧させられた世界観からの開放感を味あわせました。要するに嘗められていた訳です。所詮、女のすること、「男の骨格がない」と。
それでも皆、私一人を特別視する体制は変わりませんでした。その間、私についてきてくれたメンバー達は公演後、土方時代のヒエラルキーを継承してただ黙して接待客に酒を注ぎ下女、女中の役割を演じていました。裸でショーダンス紛いの踊りをし、何の先行きも見えない状況にフラストレーションが溜まっていました。これが求めていたアートなのかと。辞めることを考えるメンバーもいましたし、そこに付け込み計算づくで何らかの利潤を得ようとする外部者は後を絶ちません。
土方の後継者としての自負を持ちながらも、独立を決意した時のイメージとは違う。しかし稽古場を持ち土方のブレインを掌握した素人の元藤が金にものを云わせ、私達を日々、排斥しようとしていた状況に、メンバー達は両者の間を行き交うコウモリ達に塗れながらも自身の足場の一端を支える動機にはなっていました。
公演の稽古や準備は、私や友惠も含めてメンバーは仕事が終わった深夜に行われました。作品は3、4日で作られ、スタッフとの打ち合わせは殆ど公演前日でいつも本番直前までドタバタしていました。それでも公演が成り立っていたのは「裸の女」の効力でしょう。土方の公演でも、それを売りにしていた時期もありました。
友惠は裸という安直な意匠に頼ることには抵抗があったようですが、「初心者如きが舞踏家然とするなんて生意気なのよ。私だって、
形振
り構わずやってきたんだ」との私の言葉に友惠は、「そういうものなのか」と一時は納得します。
しかし'87年8月の銀座セゾン劇場こけら落しで行われた「土方追悼公演」を期に友惠の態度は一変します。と云いますのは、私は観客キャパシティー700人の商業劇場の公演でも深夜までもどうにでも使って下さいという狭い貸しスペースと同じノリで臨んでいました。
ところが開演時間は守って当たり前、現場の準備、成り行きとは関係なしに制服を着た劇場職員は観客を礼節にもち待ち構えている。
劇場側の関係者、スタッフ、外部からの照明、音響家などとの公演プランは劇場、機材設備図面を介して念入りに行われていた筈ですが、元々、図面など読める人は内部スタッフには一人もいませんし、私自身も私が踊りさえすれば、何とか成ると高を括っていました。'73年土方の渋谷西武劇場こけら落し公演の失敗からは何も学んでいませんでした。
舞台アートには素人とはいえ、こと創作に関しては手抜きなど絶対に許さない生真面目な友惠は、さすがにこのだらし無い有様は受け入れません。
「あなた、素人じゃない。自分のことより全体のことを考えないと、作品なんか創れないよ」とブチ切れます。
次の作品からは、友惠と即興デュオ・グループを組んでいた日本の即興音楽の嚆矢コントラバス奏者の吉沢元治やNYコンテンポラリー音楽の第一人者サックスのジョン・ゾーンを招いての踊りと音楽のコラボレーション公演などを友惠が主宰します。
舞踏界は色めき立ちます、もはや女の思い付き的な浮ついた活動ではないと。
それまで私達は即興コラボなど経験したことはありませんでした。ましてや共演者は友惠とは親子程歳の放れた吉沢、プロとしての存在感は私達を恐怖に落とし入れるには充分過ぎるドスを持っていました。
即興など右も左も分からない初心者の私達と業界トップの音楽家達との間を取り持つ友惠にはいかほどの重圧が掛かっていたのか?友惠は3ヶ月後、胃潰瘍で入院することになります。
その後、多くの音楽家達を招き展開される異種ジャンルとのコラボ公演(その創作法は、友惠の「友惠舞踏メソッドによる『ポスト・フリー・コラボ』」を参照のこと)は私達の作品形態の一つになりますが、舞踏界にとっても先駆的な試みでした。'89年には「第一回池袋演劇祭」(共演者=吉沢元治(b)天鼓(v)、灰野敬二(g))で大賞を受賞します。
ともかく友惠の吸収力の早さは超人的です。友惠の作曲音楽で構成された作品「
糸宇夢
」は'88年8月には利賀フェスティバルで「今までで一番、利賀山房を使い切った」と絶賛されます。
「呼吸させる美術、視覚化する音響と踊り手との体の関係は直ぐに分かったけど、照明には戸惑った。システムが分からない。雇った照明家にとっては機材はサンクチュアリ。絶対に触らせてくれないし教えてもくれない」。友惠は早速メンバーを「仕事はしなくていいから」と照明学校に通わせ'90年の東北ツアー、アメリカ・ツアー(友惠と踊り手3人による)は全て自分でやります。
私に施された土方の振付けは2、3ヶ月で覚えます。「土方の振付け法は踊り手の体の一面しか捉えていない」と言い放つ友惠の踊りの基本は「溶かした重たい金属を砂型の小さな湯口に流し込むの。早くしないと湯の温度が変わっちゃう。下半身の力を如何に迅速に手の先の先に持っていくか。臍下の一点を支点にすることが大事ね。舞踏の稽古は鋳物屋(父親が経営する)10年やった方が早いよ」。ここで友惠は大怪我もする訳ですが。
私も友惠が働く工場に呼ばれ、熱した金属が砂型からバラされて、オレンジ色に発光する固まりを見せられ、「これ、どうしたら踊りでできるんだろう?」と言われたりしました。その光は内部から発光しているようで美しいんです。
友惠の生活は全てが踊りに関わっています。その創作に観念が先行することはありません。
「音が観えないの?」「心は触れるテクスチャーでしょ?」「体は偏在するの。何故って環境と浸潤して生きてるんだから」。友惠が手本を見せ私達に要請する舞踏の技術は、それまでの身体アート表現の発想を幾重も跳び越すような独創性を有します。
本人には自覚がありませんが、その複雑な技術はどの部分を腑分けしても統一感が保たれており、至芸としかいいようがありません。
一体、この人の中には何人分の天才が住んでいるのだろうと畏れもしました。しかし、その技術はメソッド化して他人に伝えられるものなのか?
土方自らは舞台を退き、演出、振付け家として作品性を重んじるようになってから、舞踏にはどのような技術的メソッドがあるのか?が注目されるようになります。即興性を足場にしたライブ公演で一定以上のインパクトを確保し続けるには、「裸」や「白塗りメイク」などの意匠も既にパターン化し観客も新鮮味を感じなくなったことから、限界が生じてきたことが契機となります。これは舞踏のアート表現ジャンルとしての一つのポジティブな成り行きとも捉えられます。
当時の舞踏批評家の間では、舞踏にはスコア化し得る振付けがあるのか?が批評対象となります。
名うての商売人である土方は批評家達の関心を熟知し、自らの振付け法を「門外不出」と銘打ちながらも、小出しにしていきます。
しかし、ここで大きな問題が生じます。
舞踏批評家が用いようとした舞踏の技術の解析方法は、踊り手の体を対象化し動きと形に還元する西洋舞踊のフォーマットに則ろうとするものでした。
再三、繰り返しますが舞踏の体は、それが生きる環境との親密な関係のなかで語られなければなりません。踊り手の体だけを抽象化したところで意味を成さない。具体的に云うならば、例え舞踏の振付けの手掛かりになるスコアがあったとしても、それが指示する動きと形をなぞっただけでは舞踏にはなりません。
批評家達を取り込もうとする土方は、当時(友惠しづねを唯一の例外として今日までも続く)の舞踏批評のコードに敏感に反応し、その器用さ故に逆に彼等の見識から措定されることになります。前述したヨーロッパ公演での失敗の原因が象徴するように、彼が模索する舞踏メソッドに致命的な欠陥を呼び込むことになります。
味わう者と味わわれる者は不二の関係にあります。「舞踏の舞台上での主役などは、単なる方便」と友惠は言います。
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