舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。




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一本の木の物語

第六章

文:天乃宇受美
皮膚宇宙のマグダラ・一本の木の物語

私の主役公演の構想は、友惠先生は一年前から練っていたそうです。タイトルは「皮膚宇宙のマグダラ・一本の木の物語」。

JR目黒駅から権乃助坂を下りきって、目黒川に掛かる新橋を渡った直ぐの細い路地を右に曲がったところに、目黒区民センターという美術館、コンサート・ホール、スポーツ遊戯場などを兼ね備えた大きな公共施設があります。友惠先生は、よくここに卓球をやりに来ていたそうです。
私達はこの施設の会議室を借りて舞踏の稽古をしていました。
稽古が終わると皆で目黒川に沿った遊歩道のベンチに座り、近くの酒屋から買ってきた缶ビールとチップスなどを摘みに、次の公演のことや将来の夢などを語り合いました。
目黒川沿いは桜の名所の一つとして知られています。花見のシーズンには、今日では東横線の中目黒駅辺りではお洒落な飲食店が立ち並び大盛況です。
その頃(友惠先生が私の主役公演の着想を得た晩夏)は、桜の木は誰の目にも触れられず緑の葉を大らかに茂らせた姿を晒しているだけでした。
ベンチに座り少し酔いも回り良い気持ちになってきて、私達も帰りの電車の時間を気にし出した頃、友惠先生がさりげなく、「ここに立っている木も、大変だねー」と、言います。
「願わくば 花の下にて春死なん・・・。これ、西行という人の詩なんだけど・・・」と。そして、「神様っていていいと想うんだ。あまり大きいのは、食傷になっちゃうけど、小さいのなら・・・人間の一生分だけ慈愛で支え切ってくれるような。都合良すぎるかな」。
私達は、また先生、何か考えてるなと想いながらも、何故か皆、嬉しくなってニッコリと笑みが湧いてきます。
「目黒川って、' 80年代になってからも台風なんか来た時は氾濫してね。目黒雅叙園が木造だった頃、一階の宴会場の座敷まで水が流れ込んだり、目黒川を挟んで反対側の路地一つ入った私の家の方も膝の辺りまで水がきたよ。等間隔で川沿いに植えられた樹木達は腰の辺りまで水に浸かっていたんだろうね。
目黒川沿いは品川に向けて準工業地帯で、日本一汚い川と云われていたこともあったの。目黒川を少し下って品川区に行くとね、目黒区との境界線から植えてある木は桜から柳に替わるの。
柳といえば幽霊だよなー。日本の幽霊画から幽霊の足が無くなったのは円山応挙かららしいよ・・・。毎年、夏に開催される上野の全生庵の幽霊画展に、その応挙の画が展示されているんだけど、誰も本物だとは思っていないよね。
目黒川には船着き場とかあったんだけれど大規模な河川工事が行われて。・・・子供の頃は行人坂を下りきった太鼓橋から釣り糸を垂らして、・・・サンマなんか、よく釣れたよ。何でも赤ん坊だった私はこの太鼓橋の袂から拾われてきたらしいよ。
芦川なんか、知ってるよね。目黒駅が、まだ木造平屋の頃。ステーションビルなんてなかった時代。
戦後、私のおばあちゃんが、目黒駅から山手線、新宿で中央線に乗り換えて山梨まで買い出しに行っていた。着物などと交換した農作物を詰め込んだリュックサックを担いで目黒駅まで電車で、という作業を毎日やっていた。娘の、私の当時10代の母親は駅のホームで、荷物運びを手伝うために電車が来る度に、走りながら車窓から車内を覗き込み自分の母親の姿を待ち受けていた。
ところが車内から自分を必死に探す娘の姿を見た私のおばあちゃんは、ホームでキョロキョロする娘の後ろに、監視する駅員の仁王のような姿を発見すると、そのまま五反田駅まで乗り越して行く。駅員に見つかると2人は駅舎に連れていかれ、買い込んできた食料はその場で没収、電車賃分の食料を渡され返された。それでも、おばあちゃんは毎日、買い出しに行っていた。母一人子一人で生きていかなくちゃならなかったからね。
おばあちゃんは働き過ぎで、私が2歳の時に産まれたばかりの弟を抱いたお風呂場でいきなり下半身不随になり倒れた。家族中が大騒ぎになった。それが私の最初の記憶。
その、私のおばあちゃんと母親を捕まえた駅員さんは、おばあちゃんがとっくに亡くなった今も目黒駅で働いているという。母親は目黒駅の改札を通る度に『あっ、あの時の人だ』と、想うそうだ。
私が子供の頃には『桜祭り』などなかった。今はシーズンには目黒川沿いには提灯が連なって華やいでいる。
私は物心つく前から喘息持ちで発作の時には下半身不随のおばあちゃんは、肘で体をひきずりながら私の元に来て背中を擦ってくれた。『替わって挙げられたらねー』と言いながら・・・一本の木ねー。折れる木もあれば、朔太郎の『竹』じゃないけどスックと伸びる木もある。大概の幹枝はあっちいったりこっちいったりしながら自分なりの個性を現す、そこが味わいだけど」。
友惠先生が私達を見てニヤッと笑う。私達は最終電車に乗り遅れないように、権乃助坂を目黒駅まで走り出します。

「西洋舞踊と違って舞踏って、あまり動かないというイメージがあるじゃない。だけど毛細血管の拡張と収縮、ミクロン単位の表情の変化で特に私達の舞踏は溢れるほどの多彩な想いを語るよね。だから私達の舞踏表現を表徴するように『皮膚宇宙』って名付けたんだけど」。
私は友惠先生が何を言っているのか分らなかったんですが、なんだか嬉しくなってきました。
「あなたはマグダラのマリア。ほらっ、キリストの物語に出演している。要領が悪いということは裏返せば健気ともとれるしね。でも今度はスックと垂直方向でいこうよ」。
(えー、私がマグダラのマリア。女神様・・・そんな〜)?
「どうせやるんだったら、日本人にしか出来ないこと、世界の舞台アートで誰もやったことないことやろうよ。あなたは舞台で一本の木になって立ってるだけ。これだけで作品が成り立ったら面白いよね」。
それがどんな公演になるかなんていうことは予想もつきませんでしたが、私は全身の細胞から喜びが湧き上がってきました。

この公演は、その年の7月に当時、美術と舞台の世界で現代アートの登竜門と云われた大阪のキリンプラザ、8月には利賀フェスティバルでそれぞれ2日づつ、4日間だけ上演されました。


キリンプラザ大阪

'89年7月、それまでショーの仕事で四国や岡山には来ていましたが、私達メンバーは皆、初めて大阪に行きました。
企画を立ててくれたのは大阪で劇団を主宰する方と地元の女子大学でモダンダンスを教えておられる女性教授のお二人でした。

キリンプラザ大阪外観

私達が出演するキリンプラザ大阪(建築家・高松伸)は宗右衛門町の戎橋のグリコの大看板の斜向いにありました。映画バットマンのゴッサムシティにあるような建物だと思いました。道頓堀川を挟んだ一階のオープンテラスの対岸には例の動くカニのオブジェを設えた「かに道楽」があります。
「もう、ゴテゴテじゃない。自己主張が団子になってる。この街で距離感をとろうとする建築のプレゼンってのも大変だよな」と、友惠先生。
東京でも私が働いていた赤坂や六本木、目黒の住宅街にある土方の稽古場もどこか隠れ家的なイメージがありました。私は、ここには隠れる場所が無いと思いました。
友惠先生は「建築のコンセプトは外観の見た目の派手なインパクトとは違い『隠れ場所のある』というようなものだと訊いているけど、東京人の私でも何か違和感を感じる。大阪人ってプレゼンテーションがこれでもかっていうぐらいストレートじゃない。『隠れ場所』というコンセプトが大阪に馴染むかどうか?日本の一つの前衛的試みであることは確かだけど、グリコの看板に対峙するだけでも大変だよな。あれって大阪だけじゃなくテレビの草創期からの日本の力動の象徴だものな『一粒300m』。隣では巨大なカニの鋏が動くし、『ウルトラQ』かよ。その前では『くいだおれ』の顔をテカらした無表情な等身大の、スネアドラムを首から下げたフィギュア、映画『ブリキの太鼓』かよ」。
この会場で昨年創った芦川主演の「 糸宇夢 しうむ 」と、今回の私の主演公演の作品「皮膚宇宙のマグダラ・一本の木の物語」の2本をそれぞれ2日づつ上演しました。これがオーディションとなり、翌年から、毎年夏のキリンプラザ大阪による企画公演が実現することになります。
芦川は「(劇場関係者は)タダで2作品観られたんだから、当たり前よ」と言い放ちます。友惠先生は「そうなの?」とキョトンとしていました。何事にも欲が無い友惠先生には、いつでも今しかないのです。


皮膚宇宙のマグダラの構成、音楽、舞台美術

「皮膚宇宙のマグダラ・一本の木の物語」(構成、演出、音楽:友惠しづね。振り付け:友惠しづね、芦川羊子)は、親の木から飛ばされた子供(種)が舞台の片隅に根付き、暖かい日の光や嵐など多様に胎動する自然の中でその身を育み、また新たな子供(種)を旅立たせるという生き物の一生を描いた物語です。
私は上演時間の1時間半、舞台の一隅(下手前)に一本の木となって立っているだけという役柄です。

親の木から飛ばされた子供(種)が舞台の片隅に根付く


前述したように、この作品を創り始める前に友惠先生は右手親指をケガされていたことで、作品の創り方は大きく変わらざるを得ませんでした。
それまでのように友惠先生の作曲音楽を主軸に作品構成を展開することが出来なくなりました。
前述したように、この作品を創り始める前に友惠先生は右手親指をケガされていたことで、作品の創り方は大きく変わらざるを得ませんでした。
それまでのように友惠先生の作曲音楽を主軸に作品構成を展開することが出来なくなりました。
この作品のためには既に友惠先生の2曲のギター作品が用意されていましたが、創作への取り組み方が根本的に変ってきます(創作中に、友惠先生は例の大きなピックを使ってもう一曲創ることになります)。
友惠先生は右手親指にギプスをしたまま稽古場に通います。不思議なことに、私達メンバーの中にそんな友惠先生の姿と接していても、気に留める者は一人もいません。
皆、友惠先生から発する絶対の自信からくる迫力に包まれていました。創作に関しては友惠先生は私達に付け入る隙を与えることはありません。
友惠先生も自分のケガのことなど、どこ吹く風と振る舞っていました。「生きているから、下手、巧い関係なく、触ればギターの音は鳴るし、体があれば指一本でも踊れる。たぶん、死んじゃうと難しいんだろうね」と、笑います。
「こういう至難というのが、新しい創作と出会える契機にもなるのさ。別に誰に頼まれて創作してる訳じゃない、駄目だと思ったらいつでも止めればいいだけ。明日でも自殺するよ」。

今まで他のメンバーの主役公演の稽古を傍目で見ていた私は、友惠先生から怒られ、たじろいでいる主役という役を務める人に、もどかしさを感じることもありましたが、それが、いざ自分がその立場に立つと、その恐ろしさは想像を絶するものでした。

舞台美術は私達のメンバーの入沢サタ緋呼(日本神話の出演者、猿田彦から命名。長野県松本(松本演劇フェスティバル)に公演に行った折、猿田彦神社を参詣しました。境内には猿田彦の銅像があって、その顔が入沢君にそっくりなので、皆で大笑いしました)が友惠先生の指示で一人で創りました。
木製のパネルに和紙を張り、日本のたおやかな自然の質感を出すために緑色の染料で染め、バーナーで焼きを入れ水洗いした木枠を取り付けるという大変、手間が掛かったものでした。「あいつ、時間が無いから手伝うと言っても、一人でやり切ると言ってきかないんだよ」と、友惠先生。利賀フェスティバルの公演では、このパネルの美術を舞台上だけでなく、客席を囲む全ての壁、劇場にいたる通路にまで、都合65枚創り設置しました。案の定、間に合わなくなってパネルに付ける木枠は現地でメンバー皆で創りました。


新しい形を創造する

「あなた、何で踊ってるの?踊りって何なの?あなたの後ろに美術パネルが置いてあるよね、それは誰がどれだけの労力を掛けて創ったか知ってる?
お客さん、あなたのこと観るよね、じゃ、お客さんてあなたにとって何なの?・・・あなた、なんで生きてるの?・・・」。土方の時は、ただ振り付け家の土方の言うことを聞いていればよかっただけですが、友惠先生は私達に踊る動機と意味を徹底的を掘り下げさせます。
踊り手にとって、それがどんなに長い作品であれ舞台に立つ以上、振り付けを覚えるというのは最低限の条件です。しかし振り付けをマスターしたからといって、それで踊りが完成したという訳ではありません。振り付けはそこから始まる表現の契機に過ぎません。
「踊りの振り付けはゼロ、何秒で変換し続けるといっても、例えば山登りする時の道標に過ぎないの。実際に自分の体で、一緒に登山する人達と歩調を合わせ、時には助け合いながら体がその中で生きるところの自然環境を満喫するのが目的。振り付けは遭難しないための道標なの。これがロック・クライミングになってくると大変だろうね、毎年、何人も落っこちて死人も出ている」。

友惠先生は「私は数年前、今のあなたと同じ歳の時、日本邦楽界の第一人者、盲目の琴奏者の宮城道雄の『水の変態』という曲を耳コピーしギター曲としてアレンジしたの。実際、人前で演奏するまでに10か月掛かった。
邦楽の古典とされている『春の海』は西洋クラシック音楽の影響を受けていることは知られているけれど、彼の音は日本の自然観に育まれているからか、掌で掬い取れるような気がするんだ。
宮城という人はその技術力は元よりセンスも含めて計り知れない天才でしょ。その人の曲をギターで演奏しようと想った時には同じ弦楽器でも弦の数も違うし、本当にこんな作品が可能なのか?でも出来ないとは思わなかった。これが出来なければ死ぬという強い想いがあれば出来ちゃうんだよ。
世界のギタリストの中でも弾ける奴は一人もいない。そのくらいの意識が持てなければ、自分が人前で演奏する必要はない。他の人に任せておけばいいだけ。凄い人は、いっぱいいるんだから。
先きが見えないまま、閉め切った狭い部屋で一人練習し続ける孤独って分る?コーチはいないし、アスリートのようにパワフルに動かないからプロセスが物語としてプレゼンテーションされることはないけど、大変さは変らない。何時間も同じ姿勢というのも辛い」。

稽古中、私が踊っている時、友惠先生は針と糸を持ち舞台衣装の縫いものをしながら稽古を見ている他のメンバーに、「イケるかなー」とか訊いている声が聞こえます。皆は生唾を飲み込むように稽古の状況を見つめます。誰も応える余裕などありません。
友惠舞踏は土方舞踏を受け継いでいますので、作品は複数(普通10以上)のシーンの組み合わせによって成立させます。踊りの各シーンは音楽によって明確に区切られています。
また、一人の踊り手の体の表現(質感)のパターン化を回避するための時間的リミッターの問題(一定時間を超えると飽きる)、衣装替えの必要からも、主演者が舞台に出ずっぱりということはありませんでした。
ところが今回の作品にはシーンを区切る楽曲が少ない。しかも主演の私は同じ衣装で1時間半に渡って舞台の、それも1か所に立ちっ放しということもあって、作品構成は区切りの明確でない一つのシーンがずーっと続くような流れです。
このような作品の形は土方舞踏では勿論、他の舞台アートの世界でも稀なことです。
見えない作品の全貌を模索し稽古を指揮出来るのは友惠先生だけで、他の誰も口を出せないのは当たり前のことです。

いつもそうですが、私達は何らかの保証があって創作に取り組んだことはありません。
稽古を見据える友惠先生は、何回も「見えた」、と叫んでは踊り手の元に突っ走り振り付けを施します(土方の場合は言葉で振付けましたが、友惠先生は自ら踊って教えます。『舞踊に限らず、身体表現をプレゼンする演劇の場合でも振付けをする人間は名人といわないまでも最低限、自らが一流でないとコンセプトが見え透いて押し付けにしか感じられない。反吐が出そうだ』)。塞き止められ沈滞していた踊りが一気に清流となり走り出します。

シーンが一つずつ決まっていきますと、踊り手達は作品の骨格が構築されていくのが目に見えるようで、その都度ときめきを感じていました。
しかし今回の作品はシーンの区切りが見えにくいために作品構成が読めません。側で見つめるメンバーにも安心する余地は与えられません。
先程も触れましたが、一人の踊り手の存在はある時間内で、どうしてもその踊り手の体の質感が均質化して見え、どんなに緻密で複雑な振り付けを施しても踊りにメリハリを生み出せなくなります。ですから土方の作品でも一人の踊り手によるシーンは数分から長くても十数分で切り上げられていました。
この作品では主役に課せられたノルマは時間的にも尋常の域を遥かに超えています。主役の私の表現力の幅が作品のリミッターになります。主役が「一本の木」になるという筋書きは大上段に観客にプレゼンテーションされています。途中で少しでも中弛みすれば観客は、ただ作品の筋書きを追うだけの白けたものとなります。
(本当にこんな作品を踊りきることが私に出来るんだろうか・・・)
私達は未だ嘗て誰もやったことの無い前人未踏の領域に挑んでいました。

「土方の作品もそうだけど複数のシーンを繋げていく構造で創ると、作品構成は全体としては日本の伝統芸能の『序破急』という形に、どうしても嵌っちゃうの。要するに、ラス前(作品の最後から一つ前のシーン)を盛り上げるというね。新しい形を模索していた私は常々ここから抜け出せないものかと想っていたの。今回は私の指のケガのおかげで、結果的に新しい形を体現できたね。
たいがい新しい形を創造するということは、そういうことから起るもんだよ。アクシデントがあった時、対症療法で取り繕うとするか、逆に利用しようとするかで、その人の生き方の形が決まってくる」と、友惠先生は言います。


 
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2022/7/10 UPDATE 読みもの・映像・音声
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