舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。




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一本の木の物語

第五章

文:天乃宇受美
友惠しづねによる舞踏音楽の開拓、そして舞台美術との融合

その年は1月、2月、3月にメンバーそれぞれの主役公演を高田馬場の小劇場でやりました。
そして8月に「利賀フェスティバル」で芦川の主役公演「 糸宇夢 しうむ 」を上演することになります。
この作品で使われる音楽は全曲友惠先生の作曲作品によるものでした。
舞踏はあくまでも踊りのジャンルです。クラシック・バレエ、フラメンコ、日本舞踊、様々な国の民族舞踊、盆踊り、はたまた毎日がお祭りのクラブダンスにも、それぞれ専用の音楽があります。
ところが土方も含め殆どの舞踏作品は市販の楽曲を借用するに留まっていました。
実験的パフォーマンスの流れを汲む舞踏には振付け技術は確立されていませんが、例え技術があったとしても市販の楽曲に振付けを施すことには限界もありますし、また詮無いことです。
少なくとも一流とされる舞踊団は専用の作曲家を抱えているのは当たり前でした。土方の作品が市販の音楽を使ったことで海外公演で批判されたことを私達は知っていました。

音楽と振付け、この問題に真っ向から取り組んだのは私達のグループだけでした。振付け=演出家、音楽家である友惠しづねがいてこその大業です。
踊りの振り付けは音楽と、それこそ直に踊り手の生身の体に関わります。そして音楽は演劇に於ける脚本と同じように作品の構成、骨組みを具体的に形創るものです。
舞踏と音楽の親密なる関係、その一つの形を初めて完成し提示したのが私達でした。
作品の中のシーンは一つの楽曲に一つの振り付けというように、それぞれ独立した踊りとしても成立しています。

友惠舞踏の振付けは、単に踊り手の体と動きに還元されるものではありません。
観客の視覚=美術・照明と聴覚=音楽・音響はそれぞれ単独なエレメントでありながら干渉し合い、複雑なハーモニーを醸します。
これは日本文化の知覚の在り方を表象します。例えば、香道ではかおりを聞くと表現するように、人間の五感は他の知覚に変換されて認知されます。
また、観客の視線は視点の強度とその周辺視野との関係で多彩な感覚を呼び起こします。
これらの事象を綜合的に捉えることで舞踏の舞台は成立します。
「音が見え、明暗が聴こえなくちゃ舞踏は創れない」と、友惠先生は言います。一度、芦川に音響をやらせた時に彼女は「音が見えない、見えない」と右往左往していました。

この作品は利賀フェスティバルにおいて「利賀山房(合掌造りの田舎屋を改造したキャパシティー200人の劇場)を今までで一番使い切った」と絶賛されました。
舞台美術は土方時代にも使用したことがある戸板(木製の雨戸)を美術パネルとして舞台奥全面に設置しました。
しかし、それを単に設置しただけでは舞台美術ではなく舞台装置(日常の生活様式を表象する)に見えると、友惠先生の場合は全ての板戸にバーナーで焼き入れを加え束子で水洗いするという手間を掛けたものでした。「焼杉」と云われる建築手法です。
この二十数枚の板戸を集めるのには手間を要しましたが、友惠先生の目黒の自宅からも数枚頂きました。「宗教への上納金のおかげで家を立て替えてないのが幸いした」と、友惠先生は笑います。
舞台美術として手を加えた板戸は、樹という生き物の年輪が奥行き感を持って浮き立ち、照明が当たると反射光でとても美しく映りました。
この板戸の美術の醸す光と友惠先生が創り音響を駆使する、舞台上を泳ぐような、まるで目で見えるような音の粒子達、そして踊り手達の体の表情から滲み出すように溢れる光とが相まって幻想的な世界を生み出します。

もし、一年前のセゾン公演で使ったアルミ製の美術パネル(一見、近代的ですが照明を当てると美術パネルの同じ所にハレーションが生じてしまい舞台上の景色はパターン化した淡白なものと映ります)や、踊り手達の全裸にピンク色のメイクという作品を自然に囲まれた利賀村でやっていたなら、どうなっていたのだろうと想像しただけで恐ろしくなりました。

私達は友惠先生と巡り会えたことを改めて喜びましたし、私達の舞踏は進化しているんだなと身を持って感じました。
糸宇夢 しうむ 」という作品は、その年、山陽、九州ツアー公演で上演されます。二十数枚の板戸パネルをワゴン車の天井に括り付けての東京からの大旅行でした。高速道路など走ったことのない初心者免許のメンバー(入沢サタ緋呼。彼の母親から、うちの子は車など運転したことがないので、皆さんにご迷惑が掛かると・・・心配する電話を頂きます)の運転する車、しかも中古で買った30万円のオンボロとレンタカーの2台のワゴン車でです。十数枚の美術パネルを天井に積んでいましたので車は風に煽られます。3回JAFのお世話になりました。
「いつ、来るの」、「もう少しだと思います」、「もう少しって、もう一時間以上経ってるじゃない」。真っ暗な田舎道で私達は途方に暮れます。
ツアーから帰ると、ジャズの興隆時代(当時、ジャズマンはサラリーマンの十数倍の実入りがあったとききます)から車を愛していた、友惠先生と即興デュオ・グループを組むコントラバス奏者の吉沢元治から「若葉マークが帰って来たらプロのドライバーか」と、大笑いされました。
私達にとっては全てが初めての体験でした。


「ジァンジァン」、「ザ・スズナリ」公演

その年の11月には渋谷の「ジァンジァン」、翌年4月には下北沢の「ザ・スズナリ」と私達は演劇の小劇場のメッカで、それぞれメンバーの主役公演を続けることになります。
全て新作ですし、作品の決めてとなる音楽も創る友惠先生への負担は尋常なものではありません。
私達の稽古も熾烈でした。どちらも演劇人の登竜門でもあった劇場です。その分ノルマも高い。舞踏で出演したのは私達が初めてだったそうです。
渋谷のジァンジァンに関しては、客席が正面と壁を挟んで側面の二方向という特殊なこともあるのか、土方は「ここは舞踏の場所ではない」とキャンセルしていた劇場ですが、そう聞くと友惠先生の炎が燃え立つ訳です、「自分の舞台制作法も確立されていないのに、あたかも舞踏が古来からあるような上から目線のスタンスでしょ。こっちは、悠長に場所など選べる身分じゃない」と。
スズナリにしても、なぜ舞踏が演劇の場所で、と私達の野心を勘ぐる人もいましたが下北沢は演劇だけではなく音楽の街でもありました。友惠先生が学生の頃「喘息の発作が起きて死ぬんだったら、それもそれ」と家出して、近くのアパートに住んでから親しみ続けていた街です。「餃子定食120円とかの店もあったし」と、懐かしがります。
スズナリ劇場の小田急線の線路の踏切を挟んだ向いのブルース喫茶にハーモニカを習いに行っていたことも。「レディジェーン」というジャズクラブにも出演したよ、と言っていました。


人間アート 舞踏

「糸宇夢」を創ってからも私達はメンバーそれぞれのソロ公演、ミュージシャンとのコラボレーション公演と休む間もなく活動し続けます。
噂に聞く友惠先生の稽古の厳しさに批判の声も挙り風当たりは益々強くなります。
ただ私達は友惠先生が身を持って示す指針とパワーのお陰で、元藤や田中の処にいた時のヘビの生殺しのような状況から抜け出られたことに清々しさを感じていました。
元々、舞踏は一つの確立された技術の基本など無い世界です。何故、音楽や他の舞踊のように確立されたメソッドやテキストも無いのに時間を掛けた厳しい稽古など有り得るのか、一体どんな稽古をしているのか?それほど深い技術があるのか?
身体アートでありながら体よりも口が先行する人達には理解出来なかったのかもしれません。
舞踏は身体アートでありながら言葉で括ろうとする人も多い。プレゼンテーションでは体の特権性を主張しながら、その足場を言葉に置こうとします。
そこで使われる言葉は、西洋から輸入されたポスト・モダン思想の上っ面を嘗めた程度。
「白塗りメイク」さえ施せば裏付けとなる技術など無くても、観客は神秘を感じてくれるし、その観客の顔色を見て本人もその気になる。元々、友恵先生の言を借りるなら殆ど掛け値だけで成り立っている世界。
掛け値の分量を把握した上でコミカルな表現を自覚し遊園地のお化け屋敷に出演するなど商売に徹するのなら未だしも、己が本当の神秘・超人を体現すると信じ込もうとする者が少なくないのが現状です。
夢に満ちた子供が変身によって仮面ライダーに成り切るのと同じ気分を、アイテムとしての「白塗りメイク」をするだけで簡単に味わおうとするのが大の大人となれば、それは滑稽さを通り越して悲惨としか言い様がありません。

「死んだ方が楽だというくらいの喘息の苦しみを味わってみろ。鼻からチューブを入れて水と栄養をとってみろ。体というものが何か分るよ。うちの母親は痴呆症で施設に入ってるよ、手足縛られて」。
「舞踏家は自己申告。オーディションが無い世界はいいね。空想の中では何にでも成れる。俺なんか、体も金も余裕が無いところで命の全てを懸けてきたけど、アマチュアが出るようなライブハウスにも落っこちたりしてね。笑い事じゃないよ。目の前には何時でも死がある」
友惠先生という生きることに切実な怪物を目覚めさせてしまった舞踏界は戦々恐々となります。

「土方舞踏が秘伝にしていた振り付けのテキストと云っても、巧い下手は別にして200〜300時間稽古すれば誰でも一通りは出来るもの」。私も土方に入門してから半年で舞台に立っていました(私は東北には縁もゆかりも無いし興味もないのに、土方の「東北歌舞伎」のシリーズ公演に出演)。
「アコースティック・ギターでも2000〜3000時間練習すれば誰でもそれなりの腕は持てるの。だけど、それは到着点じゃないの、そこが出発点なの。
私もギターで三味線、琴、一弦琴、横笛、太鼓など和楽器をコピーしたよ。ブルースやジャズばかりでなく民族音楽など海外物もやった。
絵画なんかからの音化も随分やった。アクション・ペインティングのジャクソン・ポロックの作品からのコピーが即興演奏する時の手法として役立ったね。ギターの愛好家からは邪道と想われていたんだろうけど。・・・土方もポロックの踊り化を試したみたいだけど収拾がつかなくなって駄目だったみたい」。
ここが友惠先生の真骨頂なんですね。
「稽古方法は必要から自分で創り出すもの。自分が表現したいことは止めどもなく湧き出て処理していかないと生きていけない。だけど方法も分らないし正解も見えない。だから試行錯誤する。そこが面白いんじゃない。絶叫と興。豪風とそよ風が無作為に味わえる。ただ、全ての基本になるのは日々の地道な練習。それでも飽きて止めてしまいたくなるし、知らぬ間に変な癖が付いてしまうのも怖いから、その都度工夫するの。アクティベーションね。
土方は舞踏という概念を立ち上げた人。その人のその時点で発想した技術を受け継いでいるからといって楽できる訳じゃないことは自分達の公演を通じて知り尽くしているよね。メンバーそれぞれの個性をこそ最大限に媒介にしようとするからには、土方の素人相手のお仕着せのメソッドなど実践現場では役に立たない、逆に足枷になる。
夢、妄想、痛み、渇望という恣意的で切実なエレメントで成り立つ現実を一つの概念で括れると想っている人間の浅はかさには呆れるばかり。自他含めて今ここに生きている体で感じ合い、よりセンシティブなコミュニケーションのシステムを開拓することが舞踏という人間アートの真の深みと多様性を開示できる。舞踏は体の動きや形ではなく、最後は質感なのね」。


即興コラボ・シリーズ公演「風に寄りそう女」 スタジオ200 

さて、次はいよいよ私の主役公演の番です。土方時代以来のオリジナル・メンバーの最後のソロ公演となります。7月のキリンプラザ大阪、8月の利賀フェスと上演劇場は決まっていました。

一番左吉沢元治氏、一人おいて小杉武久氏 スタジオ200
一番左吉沢元治氏、一人おいて小杉武久氏

その前に、6月には池袋西武デパート内のスペース「スタジオ200」で、舞踏と即興音楽とのコラボ・シリーズ公演「風に寄りそう女」を上演しました。
友惠先生のアコースティック・ギターの他、共演音楽家にはマース・カニングハム舞踊団でジョン・ケージと伴に音楽を担当するバイオリニストの小杉武久さん、コントラバス奏者の吉沢元治さん(日本即興音楽界の嚆矢。友惠先生とデュオ・グループを組んでいる)、エレクトリック大正琴の竹田賢一さん(竹田のやろう、びびって前日のリハーサルに来ないでやんの)。
「今日、竹田さんが来なかったから、明日の本番前に、もう一度リハーサルを」、と言うと吉沢の奴、『そんなのは俺には関係ない』と突っぱねられるは、『俺はこいつ(竹田)は嫌いなんだ』、『小杉とのデュオ・シーンを持たせろ』とか本番直前に言ってくる。プロデュースという仕事は地獄」。芦川は「金は貰います。口は出しますじゃ通りません」と吉沢に対する怒りを露わにする。竹田は公演本番には奥さんに連れられて・・・。
この時、友惠先生は右手親指の腱を切るという大ケガをしていましたがギプスをしたまま出演しました。プラスティックの下敷きで長さ10数cmの大きなピックを造り、右掌に貼付けています。巌流島の決闘で宮本某が削った船の櫂を剣に設えたのと同じだと私は想いました。
ともかくステージ、客席の寸法から、音楽家、踊り手の配置、作品構成、演出と全てを受け持ち「地獄のシミュレーション」と息も絶え絶えですが、友惠先生がいないと何も始まりません。
友惠先生は「ケガも含めて実力のうちだよ」と言います。「吉沢の野郎、親指無くなんなくて良かったな〜、とか言って笑っていやがんの」。
「踊りが即興音楽とやる時はね、メロディーとかリズムに合わせちゃ駄目なの。その変換速度は演奏家の方が早いから、踊り手は音に対応しようとすると動きが遅れちゃうの。音から直接的に相手の存在感とかいうと難しい話になるけど、人間味とでもいうものを体で感じられればね」。

即興コラボ・シリーズ公演「風に寄りそう女」 スタジオ200
舞踏:天乃宇受美、ギター演奏:友惠しづね

私は友惠先生の言うことを懸命に理解しようとします。そんな私に友惠先生は「一生懸命だけじゃ全然足りないよ。音楽家の中には癖のある奴もいて、音でチョッカイ出してきたり、わざと外してきたりと・・・。臆病な人が多いんだよ。そんな人の弱点は受け入れられること。
尤も小杉さんという人の演奏は凄まじく優しいの。観客も含めて舞台の全てのエレメントを全肯定したところに演奏のスタンスを置こうとしているから。一番キツいところを生きてる。
リハーサルの時、小杉は木製の小さな卵型のオブジェを舞台に投げ入れたの。そのオブジェは舞台の上を転がる。ライブでは面白い効果が引き出せるかもしれない。小杉は『いいかな?』と私達に訊いてくる。吉沢なんかは『いいんじゃない』と言ったけど、暫く考えた末、小杉は『いや、本番中、万が一踊り手が(そのオブジェを)踏んでしまって倒れたら大変だ。やっぱり止めよう』と自らを自制するように呟く。
彼は出番前の楽屋ではソワソワ歩き回って、私にも『指、大丈夫?』と、ケガのことを気遣ってくれる。
私のシミュレーションでは小杉は、まずボーカリゼーションから入ってくると読んでたんだけど、直ぐにバイオリン演奏から始まった。どっちでも同じことなんだけどね、要はその人の人間性の全てが包み隠さず現れるだけだから。
彼がバイオリンを弾き出すと彼の体は自然と踊っちゃってる。視覚的にも踊り手の皆の方が喰われちゃうよ」。
この舞踏と音楽の即興コラボ・シリーズ公演「風に寄りそう女」は、その年「池袋演劇祭」で大賞を受賞しました。


土方巽は「舞踏は赤ちゃんなんです。舞踏とは何か?あなた答えて下さい」と私に言った

友惠先生は、私の主役公演を最後にカンパニーを辞めることも考えていたようでした。土方舞踏の崩壊を防ぐことが目的で私達と付き合って下さっていました。
メンバー全員のソロ公演をやり終えることで、自分の役割に区切りがついたと想っていました。
元々、善良過ぎるほどの人で欲得ずくでは一切動きません。友惠先生には音楽の方でも世話になっている方もいましたので、その世界に戻ることを考えていました。
しかし友惠先生が辞めれば、このカンパニーは既にあり得ないということはメンバー全員はとっくに知っていました。友惠先生の体はいつでも生死のギリギリの状態です。
吉沢とのライブ演奏活動を辞めるようにと芦川は友惠先生に懇願し続けていました。

大阪公演を控えた7月初め(確か大阪に行く前日)、例の田中から友惠先生に踊りと音楽のコラボ共演の要請がありました。私達が一昨年まで出演し、おん出た中野の小スペースでです。
この忙しい時にと友惠先生はうんざりしますが、挑戦を受けたからには逃げる訳にはいきません。ただし、相手が友惠先生の既に命が懸かっているようなテンションにシンクロ出来ない場合に生じる多大な問題を私達は、それまでの友惠先生との創作を通じた関係から知っていましたが・・・、田中にそこまでの気構えがあるのかどうか?
当日、友惠先生はギター一本抱え、ケガした右親指にギプスをしたまま田中とのセッションに臨みます。
私私はその時、初めて田中の踊りを観たのですが、どこが舞踏なのかと自分の目を疑いました。土方が「田中のは舞踏じゃない」と稽古中に私達に言っていた言葉が思い出されました。
パフォーマーの田中には振り付けがありません。ずっと寝っころがっていたり、首に巻き付けたゴム紐を引っぱりながら苦しいという表情を作ります。まるでチープな演劇の役者です。
人生を懸けた切迫感からくる迫力と繊細さが友惠先生とは段違いです。
終わってから、田中は「もう一度、9月にやりましょう」と友惠先生に言いますが、その言葉に友惠先生は激怒します。「一回の人生、その即興に、もう一度など、あるか」。
「彼は今まで人生に命を懸けたこと、命が懸かっていることを一度でも体現したことがあるのか?」と、嘆きます。「時間の無駄だった。尤も田中くらい悠長に生きてられれば世渡りだけは巧くこなせるんだろうけどな。彼の処で政治的思惑から芦川だけ立てられて皆が虐められたっていうことがよく分るよ。人としての筋の通し方を甘くみている。他人の顔色を見る能力だけには長けているんだろうな。田中はそこまでだよ。パフォーマンスで要領を得ているから、どんな場所でもそれなりに振る舞えもするだろうけど、土方が見抜いていたように舞踏は出来ないな」。

翌日、私達は「糸宇夢」と私が主役となる新作、2作品分の舞台美術を中古のワゴン車とレンタカーに積み、深夜バスで大阪に向います。

後年、舞台フェスティバルの最高峰、エディンバラ国際フェスティバルのオーディションで田中と一緒になりますが、結果そのフェスティバルにはマネージャーもいない私達が出演することになります。
すると翌年、土方舞踏唯一直系の私達を蔑ろにし「土方13回忌」のイベントを、田中は再び元藤とつるみ、元藤のところの事務員に裏で画策させ、私達の活動の成功に警戒感を抱く舞踏家や批評家達、舞踏ゴロ、生前の土方のブレイン(名前だけ)を強引に巻き込み敢行します。
そんな企画のことは何も知らされず関与していない私達は、何故、「土方直系の舞踏カンパニー」でありながら参加しないのかと外部からは批判を受けます。その理由を元藤とその事務員、田中は嘘八百で糊塗します。
芦川は、「この企画に参加した全ての人間を合わせたより、友惠先生一人の存在の方が重いのよ」と言います。
「元藤とその事務員は元より、田中というのも徹して こす い奴だな」と、友惠先生は呆れます。私達は土方亡き後の政治塗れの舞踏界の有様を改めて嘆きます。
「一度でもいいから、自力で真っ当に生きようとしてみろよ。要領で味を占めた奴はやっぱり駄目だな」と、友惠先生は言います。
「舞踏は赤ちゃんなんです。舞踏とは何か?あなた答えて下さい」と私に言った土方の言葉が私の頭によぎりました。いつでも創造的に向き合い続けないと舞踏というアートは直ぐに形骸化してしまうようなナイーブな生き物です。


 
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2022/7/10 UPDATE 読みもの・映像・音声
アーティスト・ユック・クンビュン 自然の調べ、その優しくも強靭なる願い 執筆:友惠しづね
2020「江之翠劇団」公演『朱文走鬼』に寄せて 執筆:友惠しづね
石婉舜氏(台湾国立清華大學文學 准教授)からのインタビュー
舞踏の表現構造 執筆:友惠しづね
終わりなき舞踏メソッド創造への旅 執筆:芦川羊子
一本の木の物語 執筆:天乃宇受美
友惠舞踏メソッドによる 「ポスト・フリー・コラボ」 執筆:友惠しづね
歩行テキスト批評 執筆:友惠しづね
からだ表現と即興 執筆:友惠しづね
詩の朗読と舞踏のコラボ 執筆:友惠しづね
「友惠舞踏メソッド」、その演出法 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド3 執筆:友惠しづね
みんなで楽しめるコラボ・システム 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 2 執筆:友惠しづね
風のまなざし 詩:友惠しづね
友惠しづねと白桃房 活動レポート
大船渡市・陸前高田市 災害支援ボランティア (入澤サタ緋呼)
ブルース・ハープ 執筆:加賀谷さなえ
大野一雄氏100歳をお祝いして 大野慶人氏インタビュー
 
聞き手:土方巽舞踏鑑 代表 カガヤサナエ
「南管オペラ」のアーティスト達 文:友惠しづね
台湾での舞踏講習会 -「江之翠劇場」の皆さんと- 文:友惠しづね
南管オペラ 文:友惠しづね

X JAPAN hide(2005年9月25日hide MUSEUM閉館に寄せて)  文:友惠しづね

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