はじめての即興音楽とのコラボレーション
土方時代、舞踏公演にしろショーダンスにしろ市販の音楽でしか踊ったことのなかった私達でした。
初めて生演奏とやると決まった時、私達が即興音楽とのコラボなどできるのかと恐ろしくなりました。
友惠先生は1シーン7分(観客の生理から割り出した時間)。例えば吉沢と私の踊りのシーンの次は、友惠先生と別の踊り手、その次は演奏家二人に踊り手二人というようにバリエーションあるシーンを組み合わせ、作品を紡ぎます。踊り手は7分踊り、インターバルをとってまたステージに立ちます。時には途中、演奏家だけ換わり一人の踊り手が14分というシーンもあります。
このような長丁場の即興による作品形態の場合、初心者はややもすると収拾が付かなくなるとの配慮から「異種ジャンルのポスト・フリー(即興に枠組みを付ける)」という友惠先生が独自に編み出したスタイルによりました。世界の舞台アートでも初めての試みでした。
ところが、この7分という時間は踊り手にとっては至難。音と踊りの関係が、どうしても掴めません。
|
吉沢元治氏(b)、友惠しづね
キリンプラザ大阪にて
|
|
友惠先生の友人のオカマのキャベツ
西荻窪善福寺の稽古場 |
|
ネッド・ローゼンバーグ(sax)、加賀谷早苗
ヒア・アート・センター(NY) |
|
コシノジュンコ氏と
NHKオペラ『魔笛』楽屋にて |
吉沢は稽古の段階から付き合ってくれました。
「どうしたらいいんだろう」と吉沢が悩みます。「今回できなかった人は、二度と踊らせなければいい」と友惠先生が言いますと、吉沢は「そりゃー、キツい」と頭を抱えます。側で二人の会話を聞いている私達は怯えまくりました。
勿論、土方の時には、こんな稽古をしたことはありません。ただ、振付家の土方に言われるままに自分の出番で振付けられた踊りをこなせばいいだけです(私はそれに疑問を持っていました)。私達は、踊りに対しては具体的な規制は指示されませんでしたが、作品の全てを纏めてくれるのは友惠先生のメソッドだったんですね。
本番終了後、「吉沢の野郎、ここで盛り上げて欲しいというシーンで、ワザとスローに弾きやがる」とボヤキますが、そこまでも友惠先生の計算ずみなのでした。
私達にとっては壮絶な体験でした。でも、自分の体が活性化して新しい何かを発見できたようで嬉しかったのです。
・・・やっと、見えてきたと私は想いました。
「舞台に立った最初の2〜3秒で共演相手の技量、思惑を感じ取り、出演シーンの終わりまでに自分が出来ること、すべきことの重量感を体で量れればいいんだけど、直ぐには難しいよね。
即興っていうと難解というイメージを持たれるけど、共演者とギヤが噛み合えば、観客にも無理なく伝わる。アンサンブルこそが一番大事なの」と。
「20歳代半ばに1年で4千時間ギターの練習をしたことがあるの。最後にはギターを持ちさえすれば勝手に指が動く訳。ところが1度ギターを置くと、次、触れなくなるの。怖くて。
人がやる行為は、どんな時でも恣意性を免れない。それで自殺未遂をする訳さ。
即興というとトランスとか陶酔を連想する人がいるけど、全く違うのね。アスリートが云うゾーン状態。自分もそれを取り巻く状況も醒めた目で正確に把握し切っている。思い込みも我欲も霧散している。これって、子供が初めて自転車に乗れてしまっていた時の感じ。コツを掴めれば、誰でも出来る。
馴れ合いじゃないケンカごしの仲良しな関係ね。共演者とは年齢、性別関係なく一瞬で親友になれたりするよ、駄目な人は瞬時に弾き飛ばされるけど」と友惠先生。
吉沢は「竹刀じゃだめ、真剣じゃないと。最悪なのは背中からバッサリ切られてるのにも気が付かない奴な」と言います。
「踊りと即興音楽のコラボをやっている人もいるけど、素人は共演者のことなど考えず自分だけ格好付けようとする。始まる前に勝手に図面を描いちゃってる人とかは想いのままに飛ばしちゃうけど、相手からは見透かされちゃっていて、直ぐ息切れする。外すの簡単だからね。
舞踏の即興などは、どれを観ていても面白くない。最初の数秒で全部、読めちゃう。
即興舞踏と銘打つ大野一雄が、『皆、自分、自分で。やる気があれば出来ると思っている』と自分の弟子達を嘆くけど、踊りと演奏、視覚と聴覚の自在に変換する多様な知覚同士の、後戻りのきかない生き物と化したギヤの絡め合い方を分る人は少ない。醒め切った上での必死の熱情が必要。粋な惚けかもな。命懸けなんていうのは当たり前。体でその意味が分かっていれば、自分の質量が1グラムでも1トン相手に対峙出来る」と、友惠先生は言います。
それ以後、私達はジャズ、ロック、クラシック、邦楽など多ジャンルの音楽家達、美術家、衣装作家、映像作家などと数百回のコラボレーションをやることになります。友惠先生は私達にとって、いつもジェットコースターのような人でした。
稽古場近くのシェアハウスを拠点にする
それまで、私達はそれぞれアパートを借り(私はお金を貯め3か月程やっかいになっていた笹塚のアパートから中央線の阿佐ヶ谷のアパートに移ります)、仕事は前述したように色々しました。
山梨の農場では私達は気兼ねもあって舞踏の稽古は碌に出来ませんので、舞踏家の知り合いの中央線の西国分寺から支線に乗り換えて1つめの恋ケ窪という駅にあるバラック建ての日貸しの稽古場(深夜は自由ということでしたので融通が効きました。しかし、そこを私達の連絡場所にしていましたので、私達の公演の問い合わせなど電話が鳴りっ放しで煩いと、他の借り手からの苦情が頻繁にありました)、公演を行っていた中野の小スペース、友惠先生の住む目黒の公共施設(その都度、空いている場所を予約)などで稽古していましたが、メンバー間の連絡(携帯電話などありません)、それぞれの時間帯を合わせての移動だけでも大変でした。
友惠先生は私達に共同生活を提案します。シェアハウスの走りですね。
大晦日の舞台 さらにフリー即興とのコラボレーションを上演
|
友惠しづね、エリオット・シャープ(g)
ニッティング・ファクトリー(NY) |
|
友惠しづね、加藤和彦氏、中丸三千繪氏
オペラ『マダム・バタフライ』楽屋にて |
|
瀧舞踏 hide (X Japan)
千葉マリンスタジアムコンサートにて |
|
武術家 甲野善紀氏、サックス 坂田明氏
舞踏 友惠しづね
銀座ソニービルSOMIDOホールにて |
|
モダンダンスのモリサ・フェンレイと
加賀谷早苗 |
|
華道古流師範・宇受美による盛花
フランスのジャズユニットARFIとのコラボ
リヨン-東京テレプレゼンス公演 |
|
吉田玉松氏(文楽)とのコラボレーション
銀座ソニービルSOMIDOホールにて |
山梨の農場の主宰者が経営する中野の小スペースとも縁を切り、土方の稽古場を出た私達はやっと本腰を入れて舞踏ができるようになりました。しかし、これからの公演場所はその都度探さなければなりません。
一月置いて、'87年の大晦日、早稲田の小劇場で、友惠先生、吉沢の他、今度はNYコンテンポラリー・ミュージックの第一人者、サックスのジョン・ゾーンを迎えてコラボレーション公演を行うことになりました。
友惠先生は「踊り手は演出家の駒じゃないんだから、ステージという場を主体的に押さえられないと」と言います。共演する音楽家はその業界でトップの人達です。吉沢などは私の両親より歳上です。友惠先生は「この世界、年齢、性別は関係ないよ」と言いますが、私にとってはスリルを通り越して恐怖の連続でした。光速のジェットコースターが何回も回転します。
その時の私達メンバーは皆、ジョン・ゾーンという名前を聞くのは初めてでした。それまでに友惠先生がライブで共演していたそうですが、私達はNYのミュージシャンと聞いただけで心が踊る想いでした。「彼、腕は超一流だけどクールだよ。じゃなきゃトップに君臨できないものな」と、友惠先生は言います。
他人のマネージメントを信じず、高円寺にアパート(敷きっ放しの布団の4畳半の部屋の壁には、'50年代の東映映画のポスターが張ってある)を借り、自らの足でマーケティング・リサーチして本格的に日本戦略を窺っている、と友惠先生。日本人とはアートに対する姿勢が根本のところで違っている。
ジョン・ゾーンは舞踏と共演するのは、その日が初めてだったそうです。
友惠先生に任せれば間違いないと信じていた公演は結果、その通りになります。
それにしても即興ミュージシャン達は皆ツーカーで、友惠先生の指示する作品の構成表を見て、私達とも軽い打ち合わせだけで直ぐに出来てしまうことに驚かされます。
公演後の打ち上げの席で吉沢が「鬼畜米英って知ってるか」と、ジョンに揶揄とも取られかねない冷やかしを入れます。ジョンは「それって、食べ物?」と、日本語で訊き返します。
そこに数人のジョンの日本人追っかけ(女性)が顔を覗かせますと、彼は、そろりと座を後にします。
「戦争を知っている吉沢世代のジャズマンは複雑なんだよ、戦中の敵国の音楽を戦後やってるって。アメリカに対する憧れと憎しみが綯い交ぜになってくる」と友惠先生。
「私の世代は音楽にしろファッションにしろ思想にしろアメリカに対しては、髪の毛伸ばしたり、ベルボトムのGパン引きずったりと、一つの輸入文化として自然なこととして受け入れられていた。例え、私の父方の祖母や叔母に当たる人が東京大空襲で亡くなっていたとしても・・・。
弟もアメリカに留学してるし、弟の向こうでの友だちも日本に留学した時は私の実家の部屋で私と同居していた。ただ、目黒という都会でも町内会というか近所の反応は、初めはよそ者を珍しがって目黒の「大鳥神社のお祭り」で神輿を担がせたりと興味津々チヤホヤするけど、そのうち「お宅、年頃の娘さんもいるのに大丈夫?」とコロッと変るからね。ジョンも、これから日本での彼の活動戦略が本人の思惑通りに行くかどうか?他国の文化を咀嚼し切るというのは大変なことだよ」。
後にジョンは新聞のインタビューで「日本人は皆、初めは親切なのに何故次に行くと変るの?」とボヤいています。
「国、民族、宗教、思想、経済間の交流の難しさがそこにある。だからこそ、感性レベルで、それこそ心が直に触れ合える文化交流の意義がある。言葉の差異の問題を抱えた翻訳が入らない分、音楽と踊りはストレートだね」と、友惠先生は言います。
友惠しづねの革命 舞踏メソッドを確立していく稽古
当時はまだ、私達のアルバイト先はまちまちで、シェアハウスとしていた住まいは中央線の国立駅から歩いて30分のマンションと、仕事先の往復の通勤にも時間が掛かりました。
しかし借りていたバラック(プレハブ)建ての稽古場は国分寺駅から支線に乗り換えた畑の中で、深夜は他の借り手もいませんし、音も出せますので気兼ねなく稽古も出来ます。皆で一つの目標を持てた事が嬉しくて、問題があったとしても情熱と体力で乗り切る覚悟も持てました。
友惠先生は目黒の自宅から2時間近く掛けて通っていました。
シェアハウスの生活にしてから、そこがカンパニーの事務所となります。お金も少し貯まりましたので電話と中古のワゴン車、月賦ですがコピー機を買うことも出来ました。
深夜稽古が終わる明け方、自宅と自分のアパートから通うメンバーは始発電車で帰宅しますが、「もう30分だけ稽古しよう」と、友惠先生は私達に言います。その30分が3〜4時間になってしまうことはしょっちゅうでした。そうすると、次の日の稽古では先に帰ったメンバーと技術や意識の面で大きな差が付いてしまっています。
また、試験がありますからと稽古を1週間休んだ学生が、後から創作現場に入ってくると、それまで構築してきた作品のバランスが崩れて、また創り直しという事態も発生します。
友惠舞踏では、単に振付けを合わせることが出来たとしても、数人の群舞の中の一人の踊り手の体の状態(顔の表情の皮膚の質感、共演者を含めた舞台上の多くのエレメントとの共鳴度など)が違っただけでシーンが成立しなくなります。
しかし、その出来ていない一人の踊り手の体の状態は、一朝一夕に直せるものではありません。また、そんな状況が突きつけられたといっても解決策も簡単に見つかるとは限りません。
「美術パネルの高さを変えてみようか」とか「衣装を替えてみよう」、「前のシーンからの連結の仕方を・・・」と試行錯誤を繰り返します。その都度、私達は皆で踊ります。「あー、やっぱり駄目、・・・じゃー?次はね」。
こうした作業の繰り返しの中で対処策も開拓でき、そして後付けでメソッドは産まれてきますが・・・。
友惠先生も私達も疲れを通り越し、それこそ眠りながら稽古していました。公演をやるからには、いつでも作品レベルの問題、時間的ノルマは付きまといます。そんなことで付いて来れなくて辞める人も出てきます。
友惠舞踏では、踊り手は単に振り付けを覚えたということでは済みません。これはあらゆる表現ジャンルに当て嵌まることだと思います。
役者が台詞を、音楽家は譜面を暗記することと同じです。いかなる表現も、そこからが大事になってきます。
体を表現物として扱う舞踏の場合、これは私達は技術として確立しています(正確に出来るのは友惠先生だけです)が特別な体の管理法が必要になります。ところが、これが難しいのです。踊り手の体の状態は無意識裡にも日々変ります。
そして何より大事なのが、共演者や音楽、美術他、舞台上で生きるあらゆるエレメントとのアンサンブル。
ですから、私達は公演当日の朝方まで稽古することは稀ではありません。
あるプロデューサーからは、高校受験の前日に「今日はもう(勉強を)止めて、早く休みなさい」と電話して下さった担任の先生のように、「あなたたち、もう今日は稽古を止めて・・・」と言われたこともありますが、一人の作業なら別でしょうがアンサンブルという生(なま)の生き物と同居するには片時も手が抜けません。産まれたばかりの赤ちゃんを育てるように。
舞台の主役とは
明けて'88年1月から、友惠先生は「舞踏の舞台というのは出演者それぞれの具体的な体を使うが全体としては抽象表現。本来、舞台には主役も脇役もないのだけれど、主役という役割を担うという経験をしといた方が良いよ。主役には少なくとも脇役の踊り手と同格かワンランク上の実力が必要となる」からと、踊り手のレベルアップと自信を付けさせるための企画として、メンバー全員の主役公演を行うことになります。
主役として拍手と花束を貰い、スッカリその気になるような人は早急に辞めていくことになります。舞踏というジャンルは、お祭りの興奮の中でテキ屋のバッタ物を手に入れた時の雀躍のように、簡単に自己顕示欲を成就させる気分を与える魔力を秘めているようです。一見、過激さを意匠する白塗りメイクという仮面の負の効用でしょうか。
「裸で踊れるのは若いうちだけでしょ。それに頼っていると、いつまでたっても真の技術は開拓出来ない」と、全身裸体にピンク塗りメイクという意匠も止めることになり、皆、ほっとしました。
その頃、「写真世界」という御上の検閲から3刊で廃刊に成った伝説の雑誌のグラビアページの撮影会で、私達女性メンバーは全員裸体になりましたが、写真家のアラーキーこと荒木経惟さんは「芦川さんも脱ぐ?」と言ってから、後ろを振り向き「見たくないってか」と小さな声で囁きます。スタッフも私達も皆クスクスと笑う、なんてこともありました。
一回目の公演は'88年1月、高田馬場の観客キャパシティー100人の小劇場で行われた翔子さんの作品「日輪」でした。私達の初めて挑む本公演(コラボ以外の作品)でした。
その時点では舞台製作のプロといえるのは外部から雇った照明家だけでした。彼が友惠先生の無理難題の要求を受け止めてくれたことで、やっとの想いで成功させることができました。
何しろ、当時の私達は、芦川も含め舞台の基本用語「
上下
」も知りませんでしたので、リハーサルでは踊り手に「もっと右へ、左へ」などと喋っていました。ところが、それは舞台側から見た場合なのか?客席側からなのか?言葉は混乱して、踊りの音楽が鳴り続ける中、金切り声が挙る始末。土方舞踏の踊り手はそれぞれ自身の振付けに没頭するだけでアンサンブルこそが基本となる舞台という概念には無関心でした。
友惠先生は2人のメンバーを照明学校に通わせます。そのうち一人は舞踏を辞めて、その学校の先生になります。「よかったじゃん。全うに生きられて」と、友惠先生は笑います。
翔子さんは今、友惠先生と一緒に私達の舞台の照明を担当しています。「本当は裏方に廻っている彼女(舞台・テレビジョン照明1級技能認定取得)が踊りと舞台空間の関係を一番体で知っている」と、友惠先生は言います。「舞踏の踊り手は裏方である音響、照明、美術ができない人は駄目だね。何故なら全て体に関わることだから」。
2月のある夜、友惠先生から国立の私達のもとに電話が掛かってきます。「お腹が痛いんだ。明日の稽古行けないかもしれない」。普段、どんなに体調が悪くても稽古を休んだことのない先生が、と皆心配し、深夜に芦川とメンバーが車で目黒に走ります。
夜中の3時に友惠先生の部屋に入ると、先生は一人布団に踞っていました。同居しているご両親に許可をとり友惠先生を病院に運びますと、胃潰瘍で即、入院することとなります。
体力が萎えると喘息の発作止めの薬も効かなくなります。
しかし、2月の公演は準備に入っています。入院中もお見舞いに行った私達に友惠先生は絶えず指示を出していました。
友惠先生にとってメンバーの主役公演という企画は、舞台の重責を担わせることで、共演者やスタッフ、舞台のシステムを自らの体で総合的に把握して、一人の舞台人として自立して欲しいとの願いからのものでした。
土方時代には主役は芦川と決まっていますし、他のメンバーは土方の指示に従うだけのその他大勢の脇役でした。自分が出ない他のシーンで他の出演者がどんな振り付けを施されているかは知らされていませんから、作品の全貌も分りません。
「そんなパーツに使われるような生き方。あなたたち自分の人生、それで良いの?」。友惠先生は私達に問いかけてきます。
そしてメンバー全員の主役公演が敢行されます。
ただ、ここで問題が起きる訳です。自分の主役公演が成功すると、「その気」になる人が出てくることです。
舞踏の場合は踊り手は舞台全体を見渡せる位置、後ろや隅に立つことの方が、共演者や舞台美術、音楽との距離の取り方や音響、照明スタッフとの呼吸が合わせ易いんです。
そして舞台に立つ自身の体で作品の密度、バランス、流れを調整するという舞踏家が持つべき必須の技術(習得していればの話ですが)を発揮できます。
逆に中央や前に立つのは、自分の体の後ろや横を把握し難いので恐いんです。
素人に限って周りの状況など気にも留めず、観客から脚光を浴びる舞台の前に立つことで容易に「その気」になってしまいます。
友惠先生はメンバーそれぞれの主役公演の
餞
として一般誌、新聞、それが叶わぬ時は自らのネットワークから音楽雑誌にも売り込みます。
しかし、踊り手が雑誌の見開きページに自分の踊る姿の写真でも載れば、益々「その気」は増長します。
そんな人たちの姿を見て、「主役という役割を担うことで、自信を付け成長して欲しい」という友惠先生の想いが裏目に出てしまうこともありました。
その人の主役公演が成功するように応援して、皆で寝る間も無いくらい衣装や舞台美術を創り、脇で踊っていた私達もガッカリしてしまいます。
「素人はこれだから困る。一時的な仮の成功がリミッターとなって、伸びなくなっちゃう」と、友惠先生は悲嘆にくれます。
私は自分が主役になるなど考えて舞踏をやろうとした訳ではありませんでしたから、自分が主役を担わされた舞台が成功し、「その気」になってニンマリ笑う人の顔を見て頭にきてしまいました。男の出演者の中には自分と土方をダブらせて「その気」以上の気分に酔うような人も出てきます。
友惠先生は「彼は品がないな〜」と嘆きながら私に、「でも、あなた。よく(欲)がないのも、よく(良く)ないことだよ」と、笑って言います。「しかし、疲れるなー。もともとアートなんていうものは真っ当に生きられない人がやるものなのに」とも。
|