ザ・スズナリ公演 『病める秘蝶』
―身体意識の在り方をいかに柔軟に引き出すか―
'89年4月、下北沢の「ザ・スズナリ」劇場で私達のメンバーの
美斗
(土方時代からの研究生)の主役公演「病める秘蝶」(作、演出、音楽・友惠しづね、振り付け・友惠しづね、芦川羊子、ゲスト・三上寛Vo、吉沢元治B、ジョー水城Drに友惠しづねのG)を、上演しました「この公演は大変だった」と友惠先生は言いました。
「ゲスト音楽家も皆その道のプロ中のプロなんだし、劇場も演劇人の登竜門として有名。素人舞踏家を一気にプロ・レベルまで持っていかなくちゃならないんだから」。
この時、私は盲腸で入院し公演時にはもぎり(受付)をやっていましたが、友惠先生の稽古は壮絶だったと聞きます。芦川は「そんなに彼女に入れ込んじゃ駄目」と諌め続けていましたが、友惠先生は「だったら初めからメンバーに入れるなよ」と、聞く耳を持ちません。その年、胃潰瘍で入院していた友惠先生の体は襤褸切れのようでした。公演の為の音楽は踊り手の体の状態を見て稽古の合間をぬって創ります。疲れてくると喘息の気管支拡張剤も効かなくなってくる。
「美斗に潜在している美しさを引き出すという一念だけでやり遂げた。本人も大変だっただろうけど踊りを教える方がもっと大変だよ。
土方舞踏だと踊り手は殆ど身体意識(体を動かす時の起点となる意識を体のある1ヶ所に集中させる。この意識を複数に分散させようとすると意識間の強弱、濃淡のバランスの取り方が大変難しくなってくる)を一点に絞ることが多いため踊り手の体に広がり感、奥行き感が無くなる。振付け=演出家としては、その方が踊り手に振り付けの身勝手な解釈をされるより管理し易いし、またシーンも纏め易い。素人を使う一つの有効な方法にはなる。
しかし、これでは踊り手は演出家の単なる駒となり、土方舞踏が批判されていたように演出家=振付家と踊り手の関係は『猿回しと猿』ということになる。
踊り手はあくまでそれぞれ自立した人間であるということから始めることが私は舞踏創作の良心と考えますが、これが難しい。踊り手がそれぞれ主体性を持って自分の体で考え、尚かつ舞台全体のアンサンブルを創ろうとすることはけっして楽なことではない」。
踊り手には複数の身体意識による振り付けの技術習得の難しさは元よりセンスという才能も必要になってくるし、何より舞台に対して善良な心が要求されます。
しかし他人の思惑に廻されることに充足感を得るという人も多いことも確か。
「私は踊り手の身体意識の在り方を如何に多彩に柔軟に引き出すか。これが、メンバーそれぞれの主役公演をやる意義。踊り手は何人もいるから、一人一回しか付き合えないけどね」との前置きもありました。
一つ例に出すと、土方舞踏に限らず大概の舞踏家は肩甲骨が肋骨にへばり付いていて背中の表情が固くて淡白。また、下半身に重みがないために表現は上半身だけに限られ、それも
一色
にパターン化されてしまっている。彼らは体の全てで考えるということを知らない。脳と体を別けて捉えるということは傲慢。「巷で流行っている『唯能論』などは不遜。神経細胞は体に隈無くゆき渡っている。体も含めて脳なの」と、友惠先生は語ります。
「桜」『病める秘蝶』より
(作、演出、音楽:友惠しづね、振り付け:友惠しづね、芦川羊子)
「実際の創作現場では要請される作品レベルは勿論、時間のノルマもある。
公演作品の密度と幅の決め手となる、作曲音楽は、踊り手の体の表現の多彩さと自在さに標準を合わせながら創るから、地獄だったよ。標準が定まらない(土方舞踏の公演では市販の音楽を使っていた。これでは振付けと音楽の関係は極端に限定される)。彼等は土方の、踊り手を駒とする扱いに慣れ切っているから言われたことをやっていれば、それで済むと想っているんだもの。
胃は痛くなってくるし痛み止めの薬も効かない。ただ毎日、この公演が早く終わって眠りたいだけだった」と、友惠先生。
「公演が終わってから1週間後には吉沢とジョー水城と泊まりがけでの地方のライブ。生きているのか死んでいるのか分らない状態だったよ。日本の即興音楽界の嚆矢・吉沢元治(当時、友惠先生を天才と称しデュオ・グループを組んでいた)からは『あんた、死なないでよ。いい人みんな先に死んじゃうから』と苦笑いされた。『あんたみたいな生き方してると、ギターは弾けても箸も持てなくなるよ』、とも」。
「Child in the Mirror」『病める秘蝶』より
(作、演出、音楽:友惠しづね、振り付け:友惠しづね、芦川羊子)
偶々、下北沢「ザ・スズナリ」劇場での美斗主演公演「病める秘蝶」をご覧になった映画監督の吉田喜重氏に招聘され、私達は'90年より、フランス、リヨン国立オペラ劇場でのオペラ「マダム・バタフライ」(演出:吉田喜重、美術:磯崎新、衣装:山本耀司、振り付け:友惠しづね)に出演することになります。
リヨンでのリハーサルで、私達の踊りを観ていた吉田監督の奥様であり女優の岡田茉莉子さんが私のところに駆け寄り、「あなた、凄いじゃない。よく頑張ったわね。だけど舞台は一人じゃないのよ。照明の方や共演者の方と一緒に作られているものなのよ。まだまだ、これから、そういうところを、しっかりやらなくちゃ駄目なのよ」。舞台で一緒に踊っていた他のメンバー達は色めきたって聞き耳を立てていました。私は「皆で踊っているのに、何故私だけに」と後ろめたくなってしまいました。
後にこのことを友惠先生に話ますと、「なかなか他人の事を親身にアドバイスしてくれる人はいない。下手すると恨まれちゃうからね。そんな大御所から褒められれば普通の人だったら、もう有頂天、天狗だよ。その時、きちっと報告を聞いていたら、あなたを岡田さんのところに弟子入りさせて貰ったのに。・・・人生の垂直方向への岐路、また逃しちゃって」と。
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「マダム・バタフライ」オペラ・ド・リヨン バークレー公演評
第二幕の始め、まだ演奏が始まる前に、音響効果の雷鳴が、白い顔でゆらゆらと揺らぐダンサーのアンサンブルの力を高める。(その緻密な振付は友惠しづねによる)突然稲光が走り雷の音が爆発するとダンサーは爆破の衝撃で一方に頭を引っ張られ繰り返し痙攣し、身震いする。
(ジョシュア・コスマン、サンフランシスコ・クロニクル紙) |
オペラ「マダム・バタフライ」リヨン国立オペラ劇場
(演出:吉田喜重、美術:磯崎新、衣装:山本耀司、振り付け:友惠しづね)
土方巽の死、問答無用に追い出された弟子たち
土方の奥さんである元藤が、土方の葬式の時から突然稽古場に顔を出し私達を仕切り出します。腰まで伸ばした髪を三つ編みにしブヨブヨに太った体、厚い顔の皮膚に落ちくぼんだ目。
赤坂のマンションに娘と住み、私達の知らないところで私達が出演するショーダンスの仕事を差配し金を牛耳る人。私達の殆どは彼女からピンハネされていた金銭など頭には無く、ただアートへの情熱だけで土方に付いていきました(後から考えると、元藤は、そんな私達の無欲さを利用しつけ込んでいたのです)。
私達が飽くまでアートの現場で生きようとしていた舞踏とは縁遠いと思っていた人が何故、急に?
スチール製の書類入れなど事務用品が次々と運び込まれ、土方が住んでいた稽古場2階の大広間は様変わりしていきます。
土方が亡くなってから1ヶ月後、2月の半ば私は、「私達家族が住みますので、ここから(稽古場)出て行って下さい」と元藤から言われました。
その間も私達は元藤の経営するショーダンスの店で働いていましたが、「今、大変な時だから」と給料はストップされていました。
その癖、私達と年齢が変らない自分の娘達には相変わらずの贅沢をさせていると、芦川は怒っていました。
その年の3月一杯までは山梨で舞踏団を主宰しているという田中某の元で事務を受け持っていたという女性も稽古場に出入りしていました。行く当てもお金も無い私は稽古場を出た後、暫く笹塚の彼女のアパートに住まわせて貰いました。4月から元藤の経営するショーダンスの店を辞め、彼女の紹介で新宿ゴールデン街のバーで働くことになります。
土方巽の葬儀、その裏で
土方の葬式では舞踏団を構える麿某と田中とその弟子達が覇権争いをするように仕切り合います。
通夜、葬式には土方と交流があった詩人や'70年代に舞踏の感化を受けた30歳代の多くの舞踏家達が集まります。田中の女性マネージャーが司会者になり場を仕切っています。石原慎太郎も弔問に来ました。
私達は料理作りや酒を出すなど彼らへの接待に追われます。
葬式から10日後に稽古場で行われた「土方巽を偲ぶ会」は、田中の後見者の松岡某を中心に準備が行われ、在りし日の土方の踊りの映像と芦川の踊りの実演の後、元藤がその場を仕切るようにマイクで挨拶をし、外人の観客などいないのに田中のマネージャーが同じようにマイク越しに英語に翻訳した声を張り上げます。私達はその間も裏で接客用の料理作りに追われます。その場に列席していた友惠先生は「あなたたちを見てるのが辛かったよ。あなたたちは下女じゃないんだから。本来だったら、土方舞踏の担い手であるべきあなたたちこそ立てられてこそ然るべき。筋が通っていない」と、今でも当時のことを憤っています。
観客は少なくとも横幅と厚みが異様に太った体型ゆえに舞踏家ではないことは一目瞭然ですが、あのいやに堂々とした押し出しの強い2人の女性は誰だ?と思いました。
友惠先生は「一つのショーと化した追悼イベント。芦川、持っていかれちゃってやんの」と、笑います。それまでは土方舞踏というと土方本人の他、芦川だけがその象徴でした。しかし、この「土方巽を偲ぶ会」から何かが明確に変ってきました。その日、客寄せパンダで踊らされた芦川は巨漢女性二人の演説の間、衣装を脱ぎ白塗りメイクを落としていたりしていて彼女らの締める場に姿を出す暇はありません。
何か政治的な争いが起っているようで、私達は身の置き所もなかったような気がしていました。芦川は彼らの間でどう振る舞っていいか分らず、突然の土方の死に(土方は自身の余命を入院していた病院の大部屋から2人部屋に移される2日前まで知らされていませんでした。医者から「好きなものを食べて下さい」との言葉で知ったようです。「鰻」と答え、自身の食への拘りの無さ=貧乏性に苦笑していたようです。元藤はといえば土方の死の1か月前から、彼の死後の自分のポジショニング確保のための計算、準備を怠っていませんでした)涙を流したり、おろおろしているばかりでした。
元藤は芦川が土方の弟子になってから20年間、舞踏の稽古に顔を出したことは一度もないそうです。
私は、元藤はダブダブに太って顔の皮膚は厚く(あの皮膚では、顔の筋力が必要になる土方舞踏特有の異界を想わせるような顔表現は出来ません。)、ショークラブの経営者としては貫禄を感じさせましたが、私達とは住む世界が違う人だと思っていました。
土方が亡くなってからの1〜2ヶ月は芦川と、元藤や田中達の関係が、何かごたついているようです。土方が生きている時には稽古場では見たことのなかった、打算によって元藤にセレクトされたイエスマン達(それぞれの政治的思惑、思い出、人の死という厳粛なイベントへの真摯な恭順)が集まり出し、私達とは関係のないところで何かが蠢き出すのが嫌でも感じられました。
「舞踏のことは芦川に、金のことは元藤」に、というのが土方の遺言でしたが、元藤は「私の許可なく踊ってはならない」と芦川に命令したそうです。
「土方舞踏を凍結し、その資産価値を量る」との理由でした。要するに土方の舞踏を金銭に換算し、土方に関わる全てを自分の資産とすると言い放った訳です。
芦川は当然でしょうが、私達も自分の意志と心で土方の弟子ではあったけれど、元藤の資産として管理され、元藤の弟子などになるとは想像だに出来ませんでした。
私達は(いったい、これから、どうなってしまうのだろう)と思いました。
芦川の動揺、土方の遺言
2月の初め、稽古場で「私に3年下さい」と芦川が私達団員に言います。その提案に、すかさず「私は辞めます」という人に、「裏切り者」と芦川は殴り掛かります。
皆、それぞれの生活もありますし、中には土方のところにいれば簡単に公演に出られるという打算から在籍している人もいました。「これで、セゾン(翌年、予定されていた銀座セゾン劇場での土方舞踏のこけら落し公演)も無くなった」と、故人のことなどはさておき、平気で嘯く人もいました。
私も、これからの自分の人生の大切な3年を、なぜ芦川に託さなくてはいけないのかと辞めることも考えましたが、死の2日前、入院中の明日をも知れぬ土方から「芦川に付いて行きなさい」との言葉が残り、一緒に行ってやってもいいけど・・・と思い、ついて行くことに決めました。
ただ私も皆も、その先き行きは全く見えていませんでした。
2月の終わりに、目蒲線(現・目黒線)の不動前駅に住むメンバーの6畳のアパートに芦川も交えて5人のメンバーが集まりました。
その時には芦川は既に稽古場を出ようと決めていたようです。
元藤に「私の許可無く踊ることを禁じます」と言われたことに、(20年間、土方と伴に舞踏を培ってきた私が、何故、元藤に命令されなくてはいけないのか)と憤怒の想いにかられていました。
「金のことは元藤に、舞踏のことは芦川に」と言った土方の遺言が、土方の死後、元藤によって早々に破られたことに芦川の怒りは収まるところを知りませんでした。
「何故、私が元藤の資産として管理されなくてはならないの。私の体は彼女の物なの?それこそアートのために清貧を貫き土方の元で20年間、公演や講習会をやってきてもギャラなど一円たりとも貰ったことも無いのに」と芦川は悔し涙を流しました。
私達も稽古場に居る元藤を得体も知れない異物と感じていました。
また、私達のショーダンスの仕事の日給は土方の弟子ということで舞踏をやっていない(土方の弟子でない)他のショーダンサーの半額でしたが、その給料も未払いでしたし(結局、土方が亡くなってからの給料は払われていません)、これからの、それぞれの生活のことも考えなくてはなりません。
芦川から皆に「貯金幾らある?」と訊かれたりしました。私は貯金など一銭もありませんでした。
その場では、皆で稽古場を出て行こうという雰囲気になっていました。しかし何処に?どういう形で?という具体的な話にまでは発展しませんでした。
土方が生きている時は途中で辞める団員もいましたが、最後まで残った人は、それぞれに自分の夢を持ち稽古に励んでいました。しかし、元藤家族が稽古場に来てから状況が一変しました。一体、自分は今、何故ここにいるのか?何をしているのか分らない気持ちになりました。
私達は自分のことも然ることながら、貯金も一銭も無く、人生の全てを懸け土方と培ってきた舞踏アートの主導権も元藤に奪われようとしている芦川を気の毒に思う気持ちもありました。
土方舞踏の看板を背負って来た踊り手が、土方が亡くなると間を置かず何故こんな惨めな想いをしなくてはならないのか、と。それは将来の私達の行く末を予感させるものでもありました・・・、ここにはいられない。
流浪
3月30日です(私が子供時代から飼っていた愛犬の命日ですから、はっきり覚えています)。芦川は私達に山梨県で農業をやりながら踊っているという例の田中のところに行くと言います。
田中は芦川が稽古場を出て行く際に、「一蓮托生ですよ」と言ったそうですが、土方舞踏の直系の系譜を狙う彼の思惑は元藤との政治的葛藤から外されたようで、それでも芦川という土方舞踏の看板ダンサーを取り込むことで、舞踏の直系を自分の元にと狙う野望を捨て切れなかったのでしょう。
私はそれまで田中とやらの踊りを見たことはありませんでした。
何故、私達はそんなところ(山梨の農場)に行かなくてはいけないのかと、訝しく思いましたが、そんなことを考える心の余裕は当時の私達にはありませんでした。それこそ決死の覚悟でした。
とにかく稽古場を出たからといって、私達には行くところなど何処にもなかったのですから。
土方の文学者のブレインの一人であった小説家の種村季弘は芦川に、「芸術には金も必要」と言ったそうです。
土方が提唱した「暗黒」という舞踏の概念から芦川も私達も強いられてきた清貧という生き方が、根本から覆されます。
「種村の言うことはアートの充分条件に成る場合もあるかもしれない(芸術には逆境、貧乏を糧にする、いわゆるハングリー精神が必要なことがままあることは周知だ)が、根本の必要条件を満たしていなければ逆にアートの本随を壊すことになる」と、友惠先生は言います。
体を実際のライブ現場で働かす身体アーティストと、それを傍観しながら言葉で括ろうとする者とのズレが浮き掘られます。「当時の土方のブレインである文学者にはライブに対して劣等感を持つ者も少なからずいたようだが、そのウィークポイントを土方は巧く突き、舞踏のプレゼンテーションにおいてライブと言葉のバランスを巧くとっていた訳だが、土方が亡くなると、それまで押さえ込まれ味あわされてきたライブ、身体表現に対する劣等感から言葉の優位性を復権すべく一部の文学者からのあからさまな逆襲が始まる。尤も、下品な人に限られるけどね。言葉じゃ括れないよ、生き物は」と、友惠先生。
'90年に私達のシェアハウス兼稽古場での公演を観に来て頂いた劇団「転形劇場」主宰者の太田省吾さんが、打ち上げの席で「(舞台アートでは)身体の時代は終わったのでは」と発言されましたが、友惠先生は「それまで舞踏はブームに胡座をかき、身体表現の正確なプレゼンテーションをしてこなかったことにも責任がある」と言います。「何れにしても、言葉と生き物としての体の関係にまつわる問題は人類にとって永遠のテーマなのかもしれないね」。
ゴールデン街、美術モデル、ショーダンス、ストリップ、白いばら
私は前述したように、新宿のゴールデン街のバーで働くことになります。並行して私や他の団員達は、美術大学や予備校、美術愛好家の社長の自宅へ出向するなどデッサン・モデルのアルバイトとかもやりました。
美術学校では、モデルはヌードで20分静止ポーズを取り10分の休憩。午前は絵画科で6セッション、午後は彫刻科で6セッション、私は教室に吊るしてある時計の秒針の動きが自分の人生の証であるかのように視野の片隅で追っていました。
ショーダンスをやっていた知り合いから芸能事務所を紹介されて、地方のキャバレーやスナックで踊る仕事もやりました。
キャバレーではゴッドファーザー、コパカバーナ、ムーンリバー、マイウェイなどスタンダード曲の楽譜を楽団の人に渡しますが、譜面が楽器分だけ揃っていないと、弾いてくれない嫌みな人もいました。
地方のスナックの仕事ではマイケル・ジャクソン、マドンナ、ドナ・サマー、ケイト・ブッシュ、ニール・ダイヤモンドなど当時のヒット曲のカセットを渡し、カラオケの狭いステージやカウンターの上で踊りました。ここではツン(前隠し)も無く羽のショールだけで前を隠しました。
浅草のストリップ劇場の仕事も斡旋されたことがあります。元日劇のプロ・ダンサーも出演するその劇場では朝10時から夜11時まで20分のステージを4回。阿佐ヶ谷のアパートまで帰る時間が勿体ないので、ご夫婦で出演されている方と一緒に楽屋に寝泊まりさせてもらっていました。私は素人に毛が生えたような六本木のショーダンスと同じノリでやっていましたが、そのご夫婦は着物姿でカツラを冠り時代劇風の本格的なショーでした。
浅草の劇場は、夜の部で「はとバス」が入る時は満杯でしたが、普段は3〜4人の観客というのも珍しくありませんでした。
当時、お笑い芸人の「浅草キッド」は私達と同じ舞台で漫才をやっていました。彼らは照明、踊り手が脱いだ衣装の片付け、掃除などをしていましたがギャラは一日500円ということでした。私は彼等と食事に行ったことがありますが、会計はお姉さんの踊り子の奢りです。芦川の時代はビートたけしの師匠の深見千三郎がやっていたということです。彼は踊り子に凄く優しい人だったと言います。
目黒の稽古場を出た私達メンバーは、それぞれアパートを借りていましたが、皆で月に1万円ずつ出し合い週に2回公民館の会議室などを借りて舞踏の稽古をしていました。
ところがメンバー各自、仕事がまちまちです。時間帯を合わせるために同じ場所で働こうということで吉祥寺の「白いばら」という老舗キャバレーに勤めることがメインになっていきます。そこではショーダンスの仕事もありました。古風でゆったりした感じのお店でした。
針の筵
山梨の田中の宿舎は土間がある2階建ての大きな古い農家で、田中某の主宰する彼の団員達は共同生活をしながら農作業をしています。私達は彼らと一緒に農作業をし、例の田中の太った故に貫禄を備える専属女性マネージャーが経営する中央線・中野駅からバスで20分程のマンションの地下の小スペースに、'87年の1月から毎月、出演することになります。そのスペースは貸し出しもしていましたが実質、田中の団体の専用劇場でした。
田舎で農業生活をしていながら都会でアート活動。綺麗に嵌り過ぎている。私は違和感をかんじました。小さいとはいえ都内に自分の劇場を持つには金銭的によほど余裕がなければ出来ないだろうし、彼らの生活は、稽古場も無く先が見えない私達には悠長に感じられました。
私達メンバーは2人ずつ順番で田中の農場で生活します。芦川は気分が向いた時たまに来ます。私達が田中の団員達と土に塗れて農作業させられるなか、芦川はといえば、その側を少女のように悠々と散歩などしています。宿舎も芦川は個室を与えられていましたが、私達は田中の団員やそこに来る講習生達と一緒に布団を並べて雑魚寝です。
そこでの生活は私達にとっては針の
筵
でした。私達は田中の団員に苛められました。舞踏家は自然の中で働くのが本来の姿で、私達が土方時代からやっていたショークラブでの仕事は認めないということなのでしょうか。
私達は好きでショーの仕事をしていたわけではありませんでした。土方時代からの流れということが大きかったのですが、公演や稽古のためには、いつでも休め、時間の融通の効く仕事は他には見つかりませんでした。
「(田中の団員が皆を虐めた理由は)それだけじゃないだろう。海外のソロ公演など活発に活動し注目が集まるのは主宰者の田中だけという実情に、田中の団員達は鬱憤も溜まっていて、その解消が皆に向けられた」と、友惠先生は言います。
田中の団員達との一緒の食事の席では「東京駅を爆破してやる」とか物騒なことを、酔った勢いでかがなりたてる人もいました。
山梨の農場で田中が主催する舞踏のイベントが開かれた折、そこに集まった男の古沢とかいう舞踏批評家が、雑魚寝の私達メンバーの布団の中に入ってくるという事件もおきます。その舞踏批評家はすらっとぼけますが寝静まった頃、また入ってきます。私達は自分達が置かれた、こんな理不尽な状態が嫌で嫌でたまりませんでした。土方時代、'85年の東北公演ツアーの移動のための車の運転手を名乗り出た人でしたが、土方は奴(あからさまな女癖を持つ故)にだけは頼むなと言っていました。その歯止めを効かせられる人は誰もいません。
たまに地元の農家の人が皆を飲み屋に誘ってくれることがありました。私達も間借りしている身分なので、皆に気を使っていました。すると、その農家の奥さんから都会で働く若い女性ということで強烈な嫉妬を浴びることもありました。旦那さんの目の色が変わるというのが原因だったそうです。
私達は田中の団員達と一緒に料理を作り皆で食事していましたが、ある時、その食事の席で酔っぱらった田中が私達のメンバーの一人を理由も無く殴ったという事件が起きます。田中はその場を飛び出し彼の団員達は後を追いますが、田中は車を走らせ何処かに行ってしまいます。
「土方舞踏は踊りとしての振り付けがあるが、パフォーマーの彼にはそれが無い。そのことに引け目を感じていたんだろ。自分がどこかで否定されているんじゃないかと、疑心暗鬼にかかっていた」と、友惠先生は言います。
いったい私達は何か悪いことでもしたのか?何故こんなところにいなくてはいけないのか?私達は我慢の限界に達していましたが、どうしていいのか分りませんでした。
芦川は私達を救ってくれませんでした。しかし芦川も胃潰瘍に罹り入院することになります。
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