シリーズ公演を始める
前述したように私達は'87年1月より毎月、田中の巨漢の女性マネージャーが経営する中野のマンション地下の観客キャパシティー100人弱の小スペースで「シリーズ公演」をしていました。
'70年代に土方のところに在籍していた人(彼女は舞踏を辞めて以降ショーダンスを生業にしていた)を加え、私達女性メンバー6人が2人ずつ3日間の公演でした。
友惠先生はこの時、'87年8月に行われる銀座セゾン柿落し「土方追悼公演」の音楽担当という名目で入ってきました。友惠先生は初めの数ヶ月「
見
」に徹していました。
その時には既に音楽を担当している人がいましたが、野心だけは一人前の舞踏家崩れのアマチュアですので頼りない。美術を担当する人は土方時代に舞台を手伝ったことのあるスタッフで、元藤のところと掛け持ちしていました。それまで
香具師
の元締め然と舞踏界の政治地図を差配していた土方が亡くなると、何処にでも顔出し、情報をネタにタダ酒をせびるようなルーズな人間関係が
蔓延
り「舞踏ゴロ」と云われるコウモリ達が大発生します。一部の舞踏批評家もその例に漏れません。
私達は彼らと、どう対応していいか分りませんでした。公演が終わってからの接客はショーの店と変りません。
土方時代、舞踏公演後の打ち上げは一軒の飲み屋では終わらず、稽古場に戻って2晩続くこともありました。ショーダンスの仕事が終わってから深夜、私達は彼等に酒の摘まみや、明け方にはお粥を作り接待にまわりました。朝方帰って行く合田とかいう批評家のことを「彼は何が面白くて舞踏を観に来ているんだろう?」と疲れ果てた土方は私に呟きます。こうした営業上の過労も土方の死を早めた一因となっていたのでしょう。
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シリーズ公演 |
田中の中野の小スペースでの公演では、ショーダンスの時と同じツンだけの衣装で、白色ならぬ全身ピンク色のメイクが、芦川の同僚で昔舞踏をやっていた、今はカネボウ化粧品に勤める人に念入りに施されました。
観客は私達の裸を覗き込むように観るし、写真機を持った批評家はこれでもかというくらい私達の裸のアップを撮ります。私は恥ずかしくて嫌で嫌でたまりませんでした。アマチュアの音楽担当者は、芦川の「音を解いてください」との曖昧な指示で、カセットからテープを引っぱり出すなど思い付きのパフォーマンスをしていました。
観客には、六本木で選ばれた接待客(有名スポーツ選手や海外からの政治家などもいた)にのみ見せていた裸の公演は受けていましたが、ショーダンス的な要素が前面に出過ぎ土方時代の舞踏とは全く違うものでした。
田中とそのブレインが経営するマンションの地下にある小スペースは住宅街の中にあることから六本木や赤坂のショークラブとは意味合いは違いますが隠れ家的な雰囲気もあり、ショークラブなど行ったことのない舞踏の観客には私達の全身ピンク色に塗った裸の舞台により、秘められた場にも映りました。
公演が終わると私達はビールの販売をし、居残った招待客の接待をしました。私は芸術の名を借りたショークラブと変わらないと思いました。
公演を観に来た私の父は「何故、娘の裸を見るために金を払わなくちゃいけないのか」と怒りまくる始末。
このシリーズ公演(一回目)を観に来られた大野慶人さんは、(芦川の作品は)「男の骨格が無い」と批評します。
土方巽追悼公演「病める舞姫」 銀座セゾン劇場
'87年8月の「土方追悼公演」1か月前。セゾン劇場公演の通し稽古は主演と演出を手掛ける芦川を中心に友惠先生と音響スタッフ、土方時代から手伝っていた美術、舞台監督など他の出演舞踏団を掛け持ちするスタッフ達と、土方舞踏ということで特別に低料金で請け負ってくれた大手の照明会社のプランナー、技術者を交えて、セゾン劇場が持つ勝どき橋の倉庫を改造した広いスタジオで行われました。
しかし、この段階では作品は全く出来ていませんでした。取り敢えず、候補になるシーンをやってみますが、それさえもその場の成り行きで変ります。
私達が舞台作りの段取りも知らない素人だと判断した照明のプランナーと技術者は、呆れて本番まで二度と姿を現しませんでした。
この時から友惠先生は、作品を創る時は演出家=振付家は自身が踊り手として表に出ている余裕を持っていては駄目なのだ、と思ったそうです。確かに土方も創作で作品性を重んじ出した時から自身は舞台に出ていません。
その後も私達はスタッフを集めて借りていた国分寺の恋ケ窪の稽古場や居酒屋に集まり何回も打ち合わせをやりました。
その間も私達は狭い公民館の会議室での稽古は欠かしませんでした。
しかし、とにかく纏まりがありません。スタッフを集めたはいいが全体を取り仕切る人がいません。芦川は思い付くまま気分のままに、その都度、構想を換えます。
「こんなだらしないこと、あるの?」と、友惠先生は呆れ果てていました。
「何をやるか迷った時は、一点に絞るベき」との友惠先生の諫言にも、芦川は「土方がいなくたって、私だって出来るんだ」と譲りません。
友惠先生は「土方は何がやりたかったんだろうね」と、作品の方向性を絞るために皆に話しますが芦川は聞く耳を持ちません。スタッフの中にはお祭り気分に酔いしれ言いたい事を言う人もいました。友惠先生と私達は振り回され続けます。
友惠先生はまず、それまでの音響スタッフを首にします。「真面目でさえあれば素人だってことは問題にならないが、このドサクサに紛れて駆け引きしてくる奴は邪魔でしかない」と。
結局、作品は土方時代の作品から芦川のソロ・シーンの抜粋と、裸に全身ピンク・メイクの私達の踊り、それからゲストに平塚の養護施設の生徒さんを迎えてのオムニバスになりましたが、作品の流れが本番当日まで見えませんでした。
椅子席がせり上がる観客キャパシティー700人の銀座セゾン劇場は、私達にとっても、また芦川にとっても初めて経験する大きな異空間でした。客席左右上方にはロイヤルボックスもあります。舞台から上を見ると初めて見る高い天井には何本もの照明バトンが吊られています。私達には関係なく劇場側の多くのスタッフが動き回っています。
私達はそれまで観客キャパシティー100人程のスペースでしかやったことがなかったのですから、訳が分らなくなりました。
公演本番の前日のリハーサル時、数か月前から劇場側のスタッフと打ち合わせていたように舞台はステージの前両袖を落として、凸型になっていました。
会場でそのステージを実際に見た芦川がニヤニヤ笑いながら、「これでは踊りが貧乏臭く見える」と、下げた両袖の舞台をもう一度立ち上げフラットにするよう要請します。
劇場スタッフと悶着が起ります。「何か月も前から、図面で打ち合わせしてきたことはどうなるんだ」と劇場側の舞台監督は怒り出します。「今日、舞台の両袖を下げるのに何時間掛かったと思うんです。それをもう一度上げる?」。
それでも劇場の現場監督は芦川の意向を了承してくれます。
劇場で立ち働く大道具スタッフ達は、「え〜、戻すんだってよ〜」と呆れた声を張り上げます。
事態はそれで終わりません。踊り手の場当たり(立ち位置)、照明の仕込み、音響スタッフの居場所(上手側のステージを落とした客席とフラットになった場所にセッティングされる予定。友惠先生もそこで音響操作とギター演奏をすることになっていた)、友惠先生のギターを弾く場所も無くなります。
大手の照明会社の照明家は突然の変更に戸惑います。照明のプラン(仕込み、回路図面)が何の相談も無くその場で放棄されてしまいます。
本番では舞台上や踊り手を当てるだけの照明を自らは客席に座り舞台を見ながら、その都度、調光室のスタッフにインカム(場内スタッフ用の通信機器)を通じてアドリブで指示しなくてはなりません。
居場所がなくなって舞台袖奥(別のシーンで使う大道具が置いてあったり、出演待ちの踊り手が控える場所の、その奥)に追いやられた急拵えの音響ブースからは、舞台は真横からしか見えず、急遽、音響スタッフの一人を舞台袖近くに配置させ音響ブースに、これもインカムを通し舞台の進行状況を伝えます。
本番中は、同じインカムの中を照明家と音響家の声が混線し入り乱れ、お互い必要な伝達が出来なくなり双方とも怒鳴り声になりました。照明家は「音響さんの声で、聞こえない」と、音響スタッフの「もっと大きな声で」との怒鳴り声でのやり取りが、舞台袖で出番を待つ私達にも伝わり、皆戦々恐々としていました。
土方巽の遺品のスーツを着てギターを弾く友惠しづねと芦川羊子 (上手前に照明が仕込まれていないため暗い) 銀座セゾン劇場 土方巽追悼公演
友惠先生がギターを弾くシーンはフラットに戻した舞台
上手
前(客席から向かって右側の前)と変っていました。演奏のためにその都度スタッフによって運び込まれる椅子とマイク・スタンドを前に友惠先生はギターを弾き出しますが、場内に音が流れません。思わぬ事態に慌てまくっている音響家のマイク・コードの接続ミスでした。
しかし友惠先生は動じません。そのままギターを弾き続けます。音は途中から場内に鳴り出します。
「あの時、私がたじろいでギターを弾くのを止めたら、上演作品の流れが中断され公演は失敗ということにもなる。舞台上で踊っている芦川にさえ聴こえれば良いと想った。そうすれば観客にも聴こえていない筈の音は聴こえるから。アクシデントが起きた時は命を張って一点に絞る。何時でもこれが最後だと想っていれば良い」と、友惠先生は言いました。
作品は表面上、ことなきを得、無事終了しました。
大手のプロの照明家は、「(公演が)終わってからも、照明機材のセッティングを戻す彼に頭を下げる私には、まともに挨拶もしてくれなかった」と、友惠先生は言っていました。「気持ちは私も同じ」。
創作の本髄とは
友惠先生は激怒しました。「こんな、だらしのない、段取りも何も無い創作など有り得ない」。
舞踏界には商業劇場のシステムなど知っている人はいなかったんです。その場のノリで済むと思っていました。舞踏がプレゼンしてきた神秘的なイメージ、その象徴と目された芦川さえいれば何とかなる筈と浮かれていました。ところが内実はといえば、芦川自身、全うな作品一つ作った経験もなく演出もしたことがありません。
それどころか土方さえも1983年のヨーロッパ公演では「『日本の乳房(上演された作品)』は(中略)相当の衝撃を観客に与えた。すなわち『もう御免!』という思いである。」(オランダ公演、カロリーネ・ヴィッレムス)
「この<舞踏>の創始者は沈黙を破るべきではなかった。彼はもはや何も言うべき事を持っていない。」(スイス公演、ジャン=ピエール・パストリ)
「土方-芦川のダンスグループは殆どの観客をどうしようもなく退屈な状態にとり残した。(中略)古いよごれた布に身を包みアメリカのテレビ番組のような音楽伴奏で一人がなめくじのように舞台に這いでる時、笑いを禁じ得ない。」(イギリス公演)と、取り返しのつかない大失敗をしています。「いったいに、彼等の奢りの根拠は何処から来るのか?反省ということを知らない」。友惠先生は憤ります。
結局、美術スタッフとの幾度にも渡る打ち合わせは無視され、舞台美術は芦川の直感とやらの意向でアルミ板のパネルに決められました。その舞台美術パネルは外部に発注されましたので美術スタッフはこの作品には何も関わっていないことになります。金属製のパネル美術は一定の位置に照明がハレーションしてしまい、そのためにパターン化して観え観客には淡白に写ります。
しかし本番中は客席で観ているだけの彼等は、皆お祭り気分で浮かれているという有様でした。打ち上げの席でも、楽しくやれればいいじゃないか的な雰囲気で、友惠先生の怒る声に、この場に「水を差す奴は邪魔」という雰囲気でした。
私は、この人達は舞台を本当に真剣にやろうとしているのか、それとも舞踏をだしに使って楽しみたいだけの有象無象なのかと思いました。「失敗した時は勿論のこと成功した時にこそ反省は必要」と、友惠先生は言います。
友惠しづね、ただ一人だけが土方追悼という舞踏の舞台に対して真摯だと、土方の稽古場を出てから訳の分らない生活を続けていた私達は思いました。
舞踏5団体による「土方巽追悼公演」が終わってから、劇場スタッフから大野(一雄)さんと私達の団体は良かったと、コメントを頂きました。他の団体はもっと酷い状況だったようです。初日にやった私達と違い当日仕込みの当日本番ですから時間的制約の問題も大きかったと思います。大野さんの舞台は出演者は二人だけですし、美術の仕込みもありませんからフットワークは良かったようです。
石井某を看板に立てた公演では、この企画に選ばれなかった10数人の舞踏家達が私達が住み通っていた土方の稽古場に集められました。その公演の演出家には「彼は死んでないから駄目なのだ」と土方が批判していた芥とかいう演劇人が元藤の要請により参入してきました。石井某のところの揉め具合は私達の元にも伝わってきていました。本番当日に出演を拒否する舞踏家も出る始末です。そして何とその公演には元藤自身が主役然として出演します。
「土方の稽古に20年間1度も出たことも無く、舞踏の技術は全く知らず、しかも、私達から搾取した金で不動産投資など自身の贅沢な暮らしのために金の亡者となり、気晴らしといえば札束を抱えて雀荘に通うというような生活によりダブダブに肥満し切った体を、こともあろうに土方の名前が掛かった舞台に晒すなど気違い沙汰」と、私達は思いました。それはもはや舞踏アートを冒涜する「犯罪行為」でした。
彼らの強引な公演の運営では暴力団介入の噂も立ちました。舞踏界の誰もが口を噤むなか、唯一友惠先生だけがことの真偽を直接、元藤を主役然と振る舞わせた公演の演出家、芥に問い質しました。芥は悪びれる様子もなく「やったのは石井だけ」と、認めました。
これは舞踏界が消す事のできない忌まわしき汚点でしょう。亡くなった土方の権威をひけらかすような強引な手法により舞踏はその後、大きく歪められていきます。
それを受け継いで未だに舞踏を差配しようとしているのが、当時、元藤の経営する都内のショークラブや地方の仕事の金銭の徴収、管理人(派遣された踊り手がギャラを勝手に受け取らせないように。' 70年代、元藤の事務所から地方に派遣された踊り手は500円しか貰っていませんでした。実際は一万数千円という当時としては破格なギャラでした)であった事務員です。彼は元藤と同じように舞踏に関して全くの素人にも関わらずです。彼は現在、慶応大学の土方舞踏アーカイブを主宰しています。慶応大学の見識が問われるところです。
「土方に関わっていれば、歴史に名前が残せる」と平然と語る批評家もいるというのが現状でした。また、文学や美術の世界でも、看板を立てられない輩が舞踏に関わることで楽して特権的個性を主張しようともします。
`60後半〜`70年代、反体制的なアジテーション的メッセージにモードとして親しんだ学生運動の残滓には、土方舞踏が提唱した「暗黒」に共鳴して、身体表現の技術などは
疎
んじたまま舞踏を始める者も多かったようです。
土方も舞踏のシェアー拡張のために彼等を煽るような喧伝をします。
しかし、このことが`80年代に入ると、体を置き去りにした言葉の遊戯に塗れ尽くし、観念が一人歩きするような舞踏の状況を招きました。
舞踏の「暗黒」は、世界の不条理性を体現する世界観を持つものと映り、其処に浸りさえすれば、あたかも自身が特権的存在になったかのような錯覚を抱く者の溜まり場的様相を呈します。
また、それまで土方の独壇場であった舞踏界は、海外に活動を拡げる若手の舞踏家達にまでは彼の差配が効かなくなり、「暗黒」を舞踏のプレゼンテーションとすることに限界を感じ出していたようでした。
東京で舞踏フェスティバルが開催された`85年、私が初めて受けた土方の講習会での冒頭、彼は「暗黒舞踏っていうんですけどね。今、日本には暗黒なんてどこにもなくなったんです。田舎にいったって、真っ暗闇のところはどこにもない。今はどこにも電柱があって、明るいんです。本当に闇なんてのはどこにもないんですね」と。
土方は、他の舞踏家達が殊更舞踏の神秘性をプレゼンテーションしようとするのと差異化するために、これから私達に教える舞踏の技術メソッドにスポットをシフト・チェンジしようとしていたようです。
ただ、土方舞踏メソッドも、後に彼の舞踏を唯一継ぐ友恵しづねにより、その技術の思い付き的な曖昧さが完膚無きまでも暴露されていきます。蛇足ながら、友恵しづねは私が参加した本講習会にも参加しています。
土方追悼を利用した売名が蔓延する
友惠先生が入って間もなくの頃、「土方舞踏が大変な時に、内部でケンカしてる場合じゃないでしょ」と芦川に問い質したことがあります。「あの人(元藤)は別なのよ」と、芦川は呆れ果てたように言います、「友惠先生みたいな純粋な人には分らないの」。
舞踊批評家の市川雅さんは「元藤との間には色々問題もあるだろうが、土方のことは別だから」と、友惠先生と同じ姿勢を保とうとする真摯な人もいました。しかし、舞踏界の多くの人達は皆、自身の打算からか互いの顔色を伺い合っているだけでした。
芦川に呆れられながら、それでも納得しない友惠先生は私を伴って元藤の元を訪れました。
しかし、いざ会うとさすがの友惠先生も、「あの人(元藤)は、土方が亡くなったことをいいことに土方舞踏を利用して自分が表に出ようとしている。20年も舞踏に関わらないで、熱海に別荘を作るなど自分達家族の贅沢な生活のために、アートの名を借り団員達を安い値段で利用し尽くしてきた人間が、土方が死ぬと同時に、悪徳金融業者さながらに土方アートの全ては自分の資産と主張してくる」と疑惑を抱き、「本当に土方舞踏を大事に思うなら、土方に全てを懸け踊り手として看板を担ってきた芦川、そして弟子である皆を最大限に尊重するべきだろう。元藤はど素人なんだから。舞踏界はこんな厚顔、無知な人間の横暴を許すのか」と、友惠先生は舞踏界の膿みの深さを嘆きます。
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(ついこのあいだのことですが、芦川が介護する鼻から管を通しベッドに寝た切りの母親が、意識があるのか無いのか、「洋子の嫁入りが・・・」と呟いたそうです。
周りに付き添う介護士の方達も、最後まで娘のことを想う母親の言葉に、感じ入ります。
芦川の母親は、土方の元で舞踏をやっている娘を案じ続けていたのでしょう。娘が舞踏の世界で活躍するのは嬉しいが、土方に利用されているのではないか、と。
母親に付き添う芦川から深夜に、母親の顎がガクガクと震え始めたと泣きながら私達の元に電話が掛かってきました。医者の話だと死の前兆だということです。友惠先生に連絡すると「直ぐに行って」ということで私はメンバーの入沢さんの車で芦川の元に向かいました。母親の状態は一先ず安定していたようで、芦川も安心したように寝入ります。) |
案の定、土方追悼のセゾン公演では5団体の一人として看板に立てられた石井某の公演では、元藤は臆面も無く主役然として出演します。
自分を20年間芸術の現場から排除し続けた土方への怨念もあったかもしれません。
亡くなった土方の権威でイエスマンだけをブレインにする彼女の舞踏アートへの関わり方は、折しもバブル経済を迎えようとしていた時代、芸術という名の元に虚栄と拝金主義により人を利用し尽くそうとする強引な政治によるものでした。熱海の別荘購入など贅沢な暮らしのため、ダンサーを人とも思わないショークラブの経営と同じ発想です。
今日ではガンを誘因する有害物質、建築資材のアスベストの輸入業で財を成した父親の血を引いているのでしょう。娘の結婚祝いに稽古場をプレゼントされたはいいけど相手のモダンダンサーの浮気で離婚。養子縁組みした土方も即、浮気。
友惠先生は「彼女は完全なファザコン。土方なんかも駒としか看做していない」と、言います。「アートに憧れはするが、才能もセンスもない、これ見よがしに権威を振りかざす怠惰な金持ちのお嬢ちゃん」。
人の心というものを全く考慮せず、全ては自分が利用するための持ち駒。現に私達への給料も未払いのまま、シカトし続けます。
現在では、その当時元藤の経営するショークラブや地方のショーダンスの仕事の金の徴収人をしていた事務員が、これもまた舞踏アートに関して全くの素人でありながら元藤の後を継いで、土方の名前を出しに使い舞踏を差配しようとしています。彼らの行為が舞踏をどれほど歪めてきたのか、計り知れません。
存在理由を根底から覆す天才
土方の稽古場を出てからの彼等の私達の活動への嫌がらせも尋常なものではありませんでした。元藤の当初の計画では土方に代り舞踏界の中心に君臨しようとしていたようです。ところが芦川と仲違いして団員達と一緒に辞められたことが、彼女には盗まれたと映ります。私達の存在も全て自分のものだと思い込みます。
「女性が多い団体だから、仕事の帰りに車に連れ込まれたら終わり」などと忠告する人もいました。今まで会ったこともない変な薬でもやっていそうな男に「芦川さん、いる」と私達の住まいに押し掛けられたこともあります。知らない人からの嫌がらせの電話はしょっちゅうでした。
彼等は元藤とその事務員の舞踏アートへの私欲のための傲岸さから動かされているということは私達にも分かり過ぎる程分っていました。とにかく暴力団まで使う人達です。
友惠先生が一人で私達の盾になってくれましたが、舞踏界とは本当に恥ずかしいところだと思いました。
「芦川には舞台作りの最低限の段取りを知らない以前に、創作の動機がない」と言う友惠先生が主宰者になり作品を創り始めると、私達の活動範囲は一気に広まり、国内外での演劇フェスティバルや海外公演で高い評価を得ます。こうなると元藤どころか他の舞踏家達も戦々恐々としてきます。
「舞踏というのは、稽古、練習というものをしないねー」と、友惠先生は呆れ果てます。
「私の場合、人前でギターの演奏するまでに基礎練習だけでも一万時間はしていたよ。5〜6分の曲をつくるのでも300時間は掛かったね。形に嵌めるのだったら直ぐ出来るし、フレーズは幾らでも作れる。
自分の中から湧き続けてくる何物かを形化する作業には到達点がないから、この曲が出来なかったら自殺しようと、毎日想っていた。結局95%のフレーズは捨てることになる。
舞踏では稽古しようにも基本となる技術が無い。土方には唯一あるといっても、音楽で云えばバイエルの初めの10ページ分くらいのもの。幼稚園児相手のレベル。技術が無ければ自分の体で模索すればいい。アートに限らず他のフィールドの人達は皆、生きるために試行錯誤しているよ。白塗りメイクをして見てくれを整えれば、それで舞踏なのか?」。
友惠先生の稽古は厳しいと批判してくる者も現れます。舞踏はコンセプト先行の現代アートであるから稽古などは必要ないとの理由からです。
「生き物としての人間の体がコンセプトで括り切れますか?」と、友惠先生は唖然としますが、これこそ私が求めていたことでした。裸になって全身に白やらピンクやらのメークをすることが、嫌で嫌でたまりませんでした。
芦川は「土方が生きていたら困るのよ。友惠先生は次元違いの天才。初めから全てが出来るなんて奇跡中の奇跡。まさに舞踏をやるために産まれて来たような人。友惠先生が土方の唯一の後継者だということを認めたら、『舞踏は誰にも括らせない』と言っていた土方に振り回され続けていた人達が、土方の死によってやっと身勝手な解釈をすることで得た安心感を脅かされるどころか彼等の人生が根底から覆されてしまう。
彼等にとって友惠先生という存在は嫉妬の対象どころか死活問題に関わる驚異なんです」と言います。
その頃、芦川と元藤は「土方舞踏の資産的価値」を巡って裁判沙汰になっていましたが、その裁判の席上で「芦川のところの人に押し掛けられた」と、自分の名前が出しに使われたことを知ると友惠先生は憤慨しました。「彼女は裏表がありすぎるね。いけしゃあしゃあと芦川は自分のブレインの一人だとぬかすし、私にも、これからも宜しくと鉄面皮を装う」。芦川は親から借りた50万円で頼んだ弁護士に「勇み足でしたね」と笑われていました。
私は友惠先生ほど純粋な人と巡り会ったことはありません。他のメンバーからは「人がいいんだから」とからかわれますが友惠先生は、「えっ?どこが?」と笑みを作るだけです。この善良さが招く隙が、自身の打算で動く恥かしい人達から付け込まれる要因にもなりますが、私達にとっては、そこが友惠先生を信頼し生きる動機にもなるのです。
フリー即興の風が吹き付ける、
「私はなん人とも、神とも駆け引きしない」
セゾン公演の翌月、新宿歌舞伎町にあったジャズクラブで友惠先生とコントラバス奏者の吉沢元治のデュオ・ライブがありました。その当時の歌舞伎町は風俗一辺倒の今と違い、ジャズ喫茶などもありました。
「半年やれば公演に出られるから」と芦川に言われた私は、たかが半年でと舞踏というアートを疑いもしました。3月に入団し、その年の9月には本当に稽古場での公演に、翌月には池袋西武デパートの「スタジオ200」では「東北歌舞伎」のシリーズ公演に出演しています。2年半後には「銀座セゾン劇場」です。
その日、私は初めて即興演奏のライブを観ましたが、互いに凄い速度で時に睨み合い、時には時間が止まったように静謐な命の鎬を削る彼らの音に圧倒され、これがプロなんだと思い知らされました。終わると二人共、体がボロボロになっているようです。
友惠先生とは親子ほど歳が離れている老練の吉沢は「彼、恐いよ。ちょっとでも油断すると押し込まれる」と言いました。
友惠先生は「体で相手の音を聴くの。そうすると音が生き物として見えてくるの」と、「自分の音と相手の音、どちらのものでもいいし、どちらのものでもないんだよ。あえて自分を出す必要なんかないんだ。時々恐くなる瞬間がある。演奏の場から自分が引っぱり出されて、それでも音を出している自分を醒めた目で鳥瞰しているもう一人の自分がいる」。
元藤が土方の名前を利用し自分が表舞台に出る契機にしたセゾン公演によって、舞踏界はその周辺の人も加え、それぞれの打算を交えた思惑により他人の顔色を伺い合います。
土方が生きていた舞踏ブームの時のように夢を持って自分のアートを探求する人は極端に少なくなります。
吉沢が言います、「舞踏界は土方という独楽回しに廻されていただけ。そのことに気付いていない。自分の場合は間章(あいだあきら。日本の即興音楽のプロデューサーの嚆矢・批評家。自腹で欧米からトップ演奏家を招聘。借金地獄の果て'78年に32歳で死亡。彼の部屋は薬屋だったと言います)に廻されていた。俺はそのことに気付いて、弱くても一人で回ろうと思ったけど、未だに間に廻されていたことに気付かない奴がいる」と。
舞踏界には純粋に自力で立とうとする人間がいないのでしょうか。
そして元藤のように自分の虚栄心を満たすためだけに土方の権威を臆面も無く利用する者に目先の打算から付いていく者は後を絶ちません。自力で回れない人達にとっては、甘い汁を吸える楽な選択なんでしょう。
友惠先生はそうしたコウモリ達と縁を切ろうとします、「私はなん人とも、神とも駆け引きしない」。友惠先生が神と言うのは、母親が信仰する奈良県にある大手の新興宗教の神と重なるイメージがあります。「私が喘息になると、その神様とやらが苛めに来る。『あんたなんか、(発作に)なって当たり前、神様はみんな見ているんだから』と」。
家が2、3軒建つ程神様とやらに上納していた母親が側に来ると、発作の成り始めには息を止めていたよ。「ぜー」という音を聞かれると怒られるから。ギターを買うためにバイトで貯めた金も喘息で寝込んでいる間に、上納させられていた。
学生時代、奈良県の本部に行かされると、私のことを皆、金持ちの苦労知らずのお坊ちゃんと観る訳。ある時、左右の指が2本づつ無くなるような業界を引退した人が側に寄って来て、「あんたのお母さん、どんな人?」と訊いてくるので、「厳しいですよ」と、さりげなく一言答えると、「だろうね、この俺(修養中の身でありながら酔っぱらって警察に保護されるような人だから誰からも怖がられる)にも、一歩も譲らないからな」と、したり顔で頷く。こういう人の方が人の本性を見抜く力があるんだろうね、全うな人より。
「私には、神様は人間と等身大のお地蔵さんが居ればいい。本当言うと、人間にとっての神様は人間だけなんだよね」。
喘息は気まぐれだけど待ったなしだし、いつ去ってくれるのかも予想が付かない荒ぶる神。じっと耐えるしかない。親戚のおばあちゃんはつくづく言います、「あんたら幸せだよ。戦争が無いんだから」。
友惠先生が入ってきてくれたことで、私達がその団員から散々苛められた、田中の農場の奴らともオサラバ。
それぞれ夢を持ち土方の元に行った私達はやっと安心することができました。「これでやっと舞踏が出来る」。
私が観に行った友惠先生と吉沢元治の歌舞伎町のクラブでのライブの翌月、田中の中野の小ホールでの公演は、友惠先生のギターとゲストに吉沢を招いての即興ライブ公演になりました。それを最後に私達は、その小スペースからも山梨の農場とも縁を切ります。
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