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構成、演出、振付け、インスタレーション、作曲、照明・音響プラン、踊り、ギター |
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友恵しづね |
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踊り |
友恵しづねと白桃房 |
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美術 |
陸根丙(ユック・クンビュン) |
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パーカッション |
金大煥(キム・デファン) |
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コントラバス |
吉沢元治 |
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プロデュース |
キリン・プラザ大阪 |
私が初めて韓国へ行ったのは1994年。ドイツ・ドクメンタ9で国際的な評価を受け韓国では国民的存在であった美術家の陸根丙(ユック・クンビュン)氏と「友恵しづねと白桃房」の踊りとのコラボレーション公演の打ち合わせのためであった。当時韓国では日本の歌、映画等は輸入禁止であり、両国の間に正式な文化交流はなされていなかった。ソウルの街を歩く私の長髪は道行く人の好奇の視線を集めていたようである。
私共が日本で幾度か共演している韓国ジャズ界の嚆矢、サックス奏者の姜泰煥(カン・ティーファン)氏も来て下さったホテルのラウンジでの公演の打ち合わせが終わると、韓国国立劇場のアート・ディレクターや映画監督たち(新進気鋭の作家である彼等は皆、私と同じ三十代)との長い飲み会の梯子が待っていた。
挨拶はジンロ(焼酎)専用の小さな紙コップを持った腕を互いに巻き合い、一気飲み。ストレートの焼酎は度重なるとさすがにキツイ。
「飲まなくちゃ、だめー」ユックが韓国訛りの日本語で躊躇する私を促す。もっとも、次に彼と逢った時には「無理しなくていいよ」と私を気遣うユックであった。彼は私の深酔いによる豹変の恐ろしさを、この時はまだ知らなかったのである。
「女房を質屋に入れてでも・・・」を旨とするというハン流の接待は、食べきれもしない摘(つま)みを大量に残したまま飲み屋を換えまくる。
晩酌を常とする日本人の私が(そろそろ、日本酒に替えたい)などと思っても、そんなものがあるわけない。ひたすらジンロである。
日本の「セブンスター」と同じような意匠を凝らすブルー・ラインの煙草のパッケージにはソウル・オリンピックが開催された年「88」の文字が刻印されている。歴史上、文化においては輸出国であるという誇りを持つ彼らは、しかし経済的には先を行く隣国・日本への複雑な心境を表明しているようでもある。
後年、ユックと食事のためにソウル市内を散策した時に交わされた会話に、こんなのがある。
「今、韓国ではラーメン・ブームね」とのユックの言葉に、
「ラーメンは日本では、とっくに流行っているよ」と私が応える。すると、
「ラーメンは中国が始まり」と、したり顔で言うユック。
「・・・」私は思わず言葉を飲む。
(醤油ラーメンの醤油は日本発の調味料である。魚、野菜を原料とする中国の醤(ジャン)とは違う。中国の拉麺と日本のラーメンは同一視座で語られていいという代物ではない。ゆえに、昨今の韓国のラーメン・ブームのルーツは日本にあるのでは・・・。ちょっと論理的に強引か?)未だに私はユックの言葉への対応の不味さを悔やんでいる。
日本の維新時に革命のスローガンとなったのは「尊王攘夷」。天子を尊び夷敵を懲らしむという思想は、中国の歴代の皇帝がチンギスハンに代表される侵略
部族の脅威に対する国政により興った。儒教を重んじる韓国にとっての尊王とは中国皇帝のことでもある。桃山時代、朝鮮侵略を指揮した日本の宰相・豊臣秀吉は彼らにとっては民族の思想的基盤をも揺るがす夷敵であったのだ。
維新は「尊王開国」として成就するわけだが、「攘夷」と「開国」は現代流に云えば「ナショナリズム」と「グローバリズム」と置き換えることが出来るのかもしれない。しかし、この二つの異なる相貌は今の日本の政治的動向を鑑みると表裏一体の観を呈するようにも思える。
「韓国にはウラミに『怨み、恨み』の字がある」パリに留学していたことがあり、日本の舞踏にも造詣が深い韓国国立劇場のアート・ディレクターが言う。
「『怨み』は忘れられても『恨み』はけっして消えない。我々が日本に持っている感情(大東亜戦争時の日本による韓国の占領)は『恨み=ハン』なのだ」
剽軽なくらい社交的で親切な彼の表情が、この時は少しばかりマジになっていた。彼は、けっして私に喧嘩を売っているのではない。あくまで友好的なのだ。だが、その場の皆(両国民)の顔は神妙になる。互いに戦争を知らない世代であるし、グローバルな活動を志向する者たちだ。過去より未来のより密なコミュニケーションを熱望していることに変わりはない。が、(やはり避けては通れぬ事なのか)と、私はあらためて思った。その後、両国主宰のサッカーのワールド・カップ、韓国での日本語解禁、韓国芸能人の日本での人気等で両国の親密度は急速に増していることは言うまでもないが・・・。
「日本の国民は悪くないね。悪いのは当時の政府」とユックがその場の緊張を執り成すように笑顔を交えて言う。
私達は場所を変えた。町中を流す途中、今回の私共の公演で共演が決まっていた、ハーレー・ダビットソンに股がる前衛ジャズ・パーッカッション奏者の金大煥(キム・デファン)氏と出くわした。彼は米粒に般若心経二三八文字を書くという韓国を代表する書家でもあり、個人美術館も建てられているという名士。当然彼も一緒に飲むということになる。韓国では目上の人への尊崇の念は日本よりも厳しく、その場にいた皆のキム氏に対する敬意が感じられた。
「日本が経済成長の中で失ってしまったものが、ここには残っている」と韓国に賛美を寄せる日本人もいる。当時、韓国との経済格差は倍程と云われていた
が、生活における文化のナショナリティーは日本より遥かに濃い密度を堅持していたと思う。
翌日昼、ユックが車でホテルまで迎えに来てくれた。ソウル郊外にある彼のアトリエに行くためだ。
ソウルの街は小さい。車を二、三十分走らすとゆったりとした田園風景が広がる。点在する農家の瓦葺きの屋根の稜線は下の所で跳ね上がり、韓国独特の風情を醸し出す。
途中、小さな丘の斜面に幾つも寄り添うように並ぶ韓国のお墓「土饅頭」を散策に行く。この「土饅頭」、日本では一部を除き禁止されている死者の土への
埋葬。地面が丸く盛り上がっている。ユックの彫刻作品のモティーフにもなっていた。彼は「土饅頭」をデフォルメしたオブジェに幼子(おさなご)の瞳を映し出したプロジェクターを埋め込み、人間の生と死を雄大なダイナミズムの基に結実させようとする作品を発表し続ける。
「土饅頭」の小さな丘には雑草が茂る。野ざらし、雨ざらしのお墓はすっかり自然に馴染み、斜面に土のこんもりとした、素朴な情緒を醸す凹凸の景色を造る。土の斜面を歩き出す私の足裏から、日本の墓参りから味わう神妙さとは質が違う人間のワイルドな生死感が伝わってくるようだ。私の体は敬虔な気持ちに誘(いざな)われながらも、「土着」と云ったらいいのだろうか、それよりももっと生々しく奔流し続ける「血」とでも表現したらいいのだろうか、叫びにも似た強い地力を感じた。「侘び、寂び」という「抜け」の美意識に寄り添う日本の生死観とは異なり、戦後生まれの日本人としてブルース、ジャズの感化を受けた世代からあえて言うならば、アメリカン・ニグロの「ソウル」とは明らかに別種な彼ら民族の独異性を思い知らされることになった。
そんな体の感覚を解くことから私は「眠りへの風景」という舞踏作品を創り始めた。
最も近い国との大いなる距離。私はその距離に、険しくも豊穣な風景を見る思いがした。 |