この夏、2019年の作品に続き、エバ・マリア・ホーベンより2020年のカガヤサナエのための新作の贈り物が届きました。「ピアノにおける瞑想15(meditations sur le piano 15」)「竹の庭を歩く(a walk through the bamboo garden)」の2つのピアノ作曲作品が収められたCD作品をご紹介できる幸運に感謝いたします。この2020年の新作のご紹介にあたり、第2弾となるインタビューをお届けしたいと思います。 |
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サナエ: 先日は私に捧げてくださった第1作目のkare-san-suiご紹介にあたり、インタビューに応えてくださりありがとうございました。
作曲に関するエッセイ“Silence - Disappearance - Corporeality”もお届けくださり、ピアノの音の減衰への意識に関して、あらためて感じ入りました。思えば、私どもの踊りにおいては、一見、からだは常に「ある」ように見えますが、そのからだが発する「からだのイマジネーション」は絶えず、生まれては消えます。友惠しづねは「明滅」と言いますが、消えゆくもの、現れ出る(いずる)もの、その浸潤し合う「間」に妙なる味わいが感じられます。あなたの「ピアノの音の減衰への意識」と私どもの「からだのイマジネーションの明滅」の在り方に親密なものを感じました。
エバ: 親愛なるサナエ、これらの詳説を大変ありがとうございます。私はこれまでこれらの類似点を知りませんでしたが、今、同様の印象とタッチポイントに本当に驚いています! 神秘的な方法で、アイデアは互いに出会います。
サナエ: この度は、あなたの新しい私のために捧げられた曲を味わう特別な時間を持ちました。
厳粛でありながら温かい、新たな2作品を通して私は至福に包まれております。
深く広大な宇宙観と愛に充ちたあなたの作品をお届けできることを喜ばしく思います。
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1. meditations sur le piano15を拝聴して
サナエ: 「meditations sur le piano15」は、昨年の夏、KLANGRAUMのプログラムのなかで5日間、毎朝あなたのピアノ(「meditations sur le piano」のシリーズが演奏された)と共にあった日々の深い感動の体感からつながっています。あなたの紡ぐピアノの音に誘われ、音の螺旋階段あるいは回廊を歩くかのような感覚が伴います。白昼に揺らぐ光のカーテンのゆらぎのようでもあります。音が燈明となり、厳粛で静謐、深い深い深海あるいは広大な宇宙、瞬間に広がる永遠に漂い、今を味わいます。ふと、部屋にある床の間に入れた草花に目を向けますと、草花は肯定されて屹立し、その「間」に音は潜りこみ風を孕んでいました。また、開かれていた写真の慈悲に溢れる観音菩薩の姿に音が共鳴しておりました。ある時は、漆黒のなかで光を見、時に私の記憶、あるいは未来の記憶なのか誰かの記憶なのか見たことのないさまざまな光景を見ました。ある時は、飴色の世界に包まれている。愛に充ち、悲しく、温かい。そして、懐かしい。至福の感覚を味わいました。
エバ: あなたの言葉は私に深く触れます。あなたは憂鬱、希望、悲しみ、信頼、愛の魔法の結合を聴いた。言葉のない音楽がこのようなメッセージを伝えることができるとは思いもしませんでした。あなたは私の感覚と切望を正に描写します!
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-「meditations sur le piano」のシリーズに関する発端
サナエ: 今回meditations sur le pianoのno.15となる作品を私に捧げてくださいましたことを光栄に思います。このmeditations sur le pianoには、no.1からの作品があることと存じます。よろしければ、ここで、あらためまして、このシリーズの発端と作曲を続けるなかでのエピソード(亡くなった方の話がございました)をお聞かせ頂けますでしょうか。また、このシリーズのなかでno.15となる私への作曲を手掛けて下さいましたきっかけがありましたらお聞かせ頂けましたら嬉しいです。また、この作品の構想についてお考えやお感じのことがございましたらお聞かせください。
エバ: このシリーズは2017年に始まりました。
「meditations sur le piano 1」は、作品において「Lamentation(哀悼)」や「Meditations(瞑想)」を作曲することが多いヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(Johann Jacob Froberger)に捧げられました。彼の説明はしばしばフランス語で行われ、彼の瞑想の作品の1つには「lamentations et meditations sur ma mort future(私の迫りくる死への嘆きと瞑想)」という副題があります。フローベルガーはバロックの作曲家、鍵盤楽器の巨匠、そしてアーティストでした。彼は1616年5月18日にシュトゥットガルトで生まれ、†1667年5月6日(7日)フランスのモンベリアルの近くで亡くなられました。私にとって、2つの側面が非常に重要でした: 1)彼の鍵盤のための作曲は、非常に思慮深く、抑制的なパフォーマンスを示唆しています。おのおのの鍵盤でのアタックが最後のアタックになる可能性があります。作品は一歩一歩進みます。この謹聴し、沈思し、探究する態度は、私に偉大な感銘を与えました。 2)フローベルガーは、私がするように、彼の日常生活の中での出来事を音楽的なアイデアと新しい作曲に結びつけました。音楽と毎日の生活は非常に密接に関連しています。時々彼は新しい作曲の起源についての短い物語さえ語ります。
「meditations sur le piano 5」(2017)には、「ミロのための鐘楽曲(carillon for milo)」「2017年11月(november 2017)」というセクションが含まれています。ハンブルクのアーティスト、ミロは2017年6月に亡くなり、とても親しい友人でした。この 「meditation」の5番は、葬送音楽のような私にとっての哀悼でした。
あなた、サナエに捧げられた15番の作曲は、演奏中に特別な態度を示唆することを試みるスコアの説明に関係しています。音は労せずして自然な動きのように現れたり消えたりします。そして、私の心の中には、ダンスの身体性、はかない動きと動静、そしてほとんど無いかのような果敢ない音がありました。テキストにはこうあります:
私たちは庭に急き立てられ、エオリアンハープを開きました。
無意識に、そして目的を定めることなく。
たちまち調和が私たちの庭に溢れました:クレッシェンド、フォルテ、デクレシェンド、そして最も穏やかなピアニッシモがお互い不規則に続きました。
私たちは満々の痛み、愛、悲しみ、そして希望に耳を傾けました。私たちは情熱的な叫びに似たメランコリックな音を聴くのを愛しました。
それから、私たちの命の目撃者となるとは露知らず、偶然に情熱的な哀歌を聞きました。
ここにあなたは同じアイデアを見つけます:あふれるほどの悲嘆(そして肯定も!)、私たちと同じように休息と放出の意識:すべての痛み、悲しみ、涙とともに… -それでもなお、すべての愛、希望、そして友情とともに。
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- 「meditations sur le piano15」スコアの冒頭のテキストより
サナエ: この楽譜の冒頭の話を読んでおりますと、おおらかな神話の世界の神々の集まりに立ち会っている喜びが感じられます。この話に登場するエオリアンハープには、ギリシャ神話の風神アイオロスに由来すると言う説がありますが、あなたのこの作曲の着想は神話に由来しますでしょうか。その由来がありましたらお聞かせいただけますでしょうか。
エバ: はい、毎日の生活の出来事と同じように神話や伝説のアイデアは結合されています!エオリアンハープは19世紀の実在する楽器でした:ツィター(zither/弦鳴楽器)のような楽器ですが、演奏者を必要としません。窓に楽器を置くと、弦を奏でる風、が美しいハーモニーを呼び起こします。それは作曲せずに作曲するという考えに似ています。 |
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サナエ: スコアのテキストの終わりに「エクトル・ベルリオーズに続く」とあります。これは作曲家のエクトル・ベルリオーズ(1803-1869)を表していますでしょうか。あなたにとって、あるいはこの作品にとって、エクトル・ベルリオーズがどのような存在であるか、そのつながりについて聞かせていただけますでしょうか。
エバ: エオリアンハープはヘクトルベルリオーズ(私は19世紀のこのフランスの作曲家にとても敬服しています)の作曲せずして作曲するための重要なメタファーであるエッセイに由来します。彼のスコアにある非常に重要な言葉:“nearly nothingほとんど何もない”(scarcely anything かろうじて何かある)、「Presque rien」、「quasi niente」。ほとんど何もない:私たちが学ぶことができる最上のもの。時々どこかに何かがある - しかし、私たちは正確にはわからない。音楽と音をキャプチャすることはできません―ダンスの動きをキャプチャすることはできません!録音や録画には、ほんのわずかな断片、ある瞬間が示されます。あなたは未知の出来事を成し遂げることを目的にすることはできません:出来事を信頼し、それが起こることを願います -おそらく、幸運を祈ることを携えて。
しかしながら、無限の発展への彼の満ちた信頼により、私はベルリオーズ(2番目の側面)に感服します。事は終わりません。ベルリオーズの一人芝居の叙情詩 “Lelio ou le Retour a la Vie”(“レリオ、あるいは生への復帰”)における主人公の最初の言葉:“Dieu, je vis encore.” “神様、私はまだ生きています!” 彼は幻想交響曲のなかで彼自身の死を体験した芸術家です。“Lelio”はこの交響曲の2番目の部分のような作品で対となる作曲です。幻想交響曲(最終楽章)のその(夢あるいは想像であった?)演奏のあと、アーティストは回帰します。ベルリオーズはデクレシェンドを好みます:最後の音の減衰は、新しい交響曲の最初の音を呼び起こします!このような思索は、彼の批評やエッセイで見つけるでしょう。私はこの姿勢に感服し、当然のことながらこれらの着想を好みます:振り返っている間に変化は起こりません; 進行中に変化が起こります。
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2. 「a walk through the bamboo garden」を拝聴して
サナエ: 「a walk through the bamboo garden」では、あなたのピアノの音と共に、伸びていく竹に誘われ、上空に空間が立ち上っていく感覚に見舞われました。竹林の木漏れ日、風、そよぐ葉の音を感じ、静寂のなかで生き物の息吹に耳を傾ける感覚のなかにありました。今私がいるここから見える庭に注ぐ日の光と緑。あなたの音が聴こえるなかに、クロアゲハ蝶も舞い込んでまいりました!蝉の声が響いております。あなたの音と静寂と共に生き物が息づいております。
エバ: あなたは美しい印象を表現します!あなたが描写するような方法で私の音楽が私のアイデアや思索を伝えることができるとは思いもしませんでした! |
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サナエ: はじめて本作を聴いた時、曲が終わった瞬間、白い竹林の光景が現れました。美しい白い世界でした。その白とは、光、あるいは粒子そのもののように感じられる光景でした。
日々、作品の音と共にさまざまな体験をし、味わいを深めることを楽しんでいます。
- 実は今年に入りまして、ある日ふと、家の庭に竹が生え始めていることに気づきまし
た。不思議に思いながらも、日々成長を楽しみにしておりました。まさか、「竹の庭を歩く」という作品が成長していたとは露知らず、この竹の作品の贈り物に感動しております。
私のために「竹の庭を歩く」という作品を作曲してくださったきっかけがございました
らお聞かせ頂けますでしょうか。
エバ: それはおそらく、そこに留まることと進むことが同時に起こっていること、同時性と連続性の魅惑です! 私にとって“walk through the bamboo garden” はメタファーになります:私は歩きます?そして庭の美しい断片における新たな眺めに至ります。私は静止しています?そして素晴らしい“静物(still life)”を眺めます。それから私は再び歩きますが、私は特別な目的に至りません。私は新たな“静物”に至り、この新たな状況の感嘆のなかで迷子になります。それから私は再び歩きます、繰り返し。作品は終りません;それは続きます。あなたは素晴らしい方法で結びを描写しています。作品にクライマックスはありません。おのおのの光景は次のそれと同様に、前のそれと同じように美しいです。 |
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サナエ: - 「a walk through the bamboo garden」のスコアの冒頭のテキストに、「古代の神話と伝説を思い出す」とあります。竹にまつわる物語のひとつをあげるとしますと、日本には子供の頃から親しみあまりにも有名な竹取物語があります。あなたが思い出される古代の神話、伝説がありましたらお話しいただけますでしょうか。
エバ: 特別な思い出や特別なただひとつの神話はありません。竹のさわさわとする音は思い出:魔法の世界の約束、神秘的な宇宙の声を想起させます。同様の印象は、おそらく私にとってはオークの群れ、もしくは荒々しい海洋の泡沫によって呼び起こされるでしょう。これはおそらく私が頻繁に共感覚の知覚を経験する事実と一致します。しかし、特別な意味的背景を伴うメッセージを交換すること無く - あなたが私の印象に近い物語を思い出すことはなお興味深いことです。
別の観点では:楽譜には演奏者(並びに傾聴者)への短いテキストの記述がありますので特殊な感覚の状態になるでしょう。過去と未来は循環の中で共に流れます。今現在の瞬間に唯一、過去と未来は今現在のユニークな体験として入り組んでいます。
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サナエ: - 楽譜を拝見しますと、この作品は各ページ1行の五線譜から成ります。IからXIVと番
号がふられたページを辿っていきますと、竹林の1本の道を歩み進めるかのようであります。この楽譜の構想についてのお考えがございましたらお聞かせいただけますでしょうか。
エバ: もしかすると私はこのひとつ前の章であなたの質問にすでにお答えしたかもしれません。しかしながら:私はこの作品にモデスト・ムソルグスキー(Modest Mussorgsky)の有名な作品:“展覧会の絵(Pictures of an Exhibition)”を照らし合わせることができるかもしれません。訪問者は絵画から絵画への通路を辿ります;この動作は“プロムナード(promenade〔散歩〕)”と呼ばれ、特別な音楽によって特徴づけられます。そうは言うものの、この作曲 “a walk through the bamboo garden”は、ひとつの“絵”もしくは場所の間のプロムナードを持つのではありません。ただ長い減衰があり、次の“絵”が現れます。しかしながら、私は作曲している間にはこのような作品について考えておらず、あなたの質問に答えている今双方の作品を対照できるこのアイデアが生じました。
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3.ピアノについて
サナエ:
- 2019年にkare-san-suiを作曲されました時には、まずはじめにアップライトピアノで
録音してくださった音源を送ってくださいました。CDでは、減衰の素晴らしい響きを持つ グランドピアノ“ベヒシュタイン(Bechstein)”での演奏を収録されたと伺っております。2019年KLANGRAUMの会場で拝聴したmeditations sur le pianoのシリーズを弾かれたグランドピアノは何だったでしょうか?
エバ: それはスタンウェイグランドピアノだと思います。
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サナエ: また、この度の2020年の新作CDに収録されたmeditations sur le piano15、a walk through the bamboo gardenを演奏したピアノについて教えて頂けますでしょうか。
エバ: これは“kare-san-sui”を録音するのに用いた同じベヒシュタインのグランドピアノです。今およそ30歳です。低音の素晴らしい減衰のために購入しました。それぞれの音は豊かな断片として放たれます; それぞれの音はその音自身の始まりからその満ちた減衰までの命を宿しています。私たちは以前にも同じ質問に触れました:減衰はいつ何時どこであっても新しくやってくる広大なスペースを開きます。ベルリオーズが言うように:音あるいは音楽の断片は過ぎ去り; 直ちに次のそれが現れるでしょう。
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4.diafaniレーベルについて
サナエ: - あなたのレーベル「diafani」は、ギリシャのカルパトス島にある港町の名前に由来していることをお聞きしました。そこはあなたがバカンスなどに訪れ、海を見渡すことができるとても美しい愛する場所だと想像しております。あなたはこのような場所でどのように休暇を過ごされておりますでしょうか。また、その間に作曲をすることもあるとしましたら、旅先ではどのように作曲をされておられますか?楽器は何かお持ちになられるのでしょうか。例えば、ノートの五線譜に手描きで記譜されるのか、あるいは想像のなかで作品を育てておられるのかなど、旅先での作曲のご様子をお聞かせくだされば嬉しく思います。
エバ: 私はアイデアを待つためにワークテーブルで作曲をしません。私はいつも作曲しています―私の毎日の生活の間いつでも。それは私の休日の間―例えば―私がギリシャに居る時も同じ方法です。私は宇宙(the world)を吸い込み―そして、家でも、外国でも、宇宙を放出します。その上、作曲はそれら自身のために起こります;それらは現われます。私は言葉の断片、音、兆し…から気づきを得ます。家でも、楽譜の上での創作でも。しかしながら、主要な創作はすでに事前の体験によってもたらされています。作曲は呼吸をするようであり、生活をするようであります。
“diafani”はカルパトスの島(ギリシャ)にある小さな街の名前です。しかし、加えて “透明な(transparent)”, “透明性(transparency)”といった意味を持つことも確かです。“光を通す(Translucent)”、“透明な(transparent)”、“透明な/かすかな(diaphanous)”は類似した意味を持っています。私たちは時々透明なカーテンを通して眺めています。
私はライブパフォーマンスであなたを見て、またあなたが私に届けた幾つかのDVDを見て、私を魅了させたあなたのダンスとの非常に素晴らしい結合を感じています。音楽と踊りはそれらの大いなる伝承、神話や伝説とのつながり、未来への開放性(作品は完成せず;未完のまま)によって深く接合します。私たちは終わりを探しません。私たちは進行中です―私たちの希望、切望、友情における信頼によって同行することを。
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5. 最後に、感謝をこめて: サナエ:
今、あなたからの贈り物の音楽と共に日々創作に取り組めますことを幸福に感じております。そして、同時に今、COVID-19の影響下のなかにありますが、この美しいあなたの音楽が生まれたことに感謝し、人々の心の灯、深い静寂となりますことを切に願います。そして、将来あなたとひとつの空間を共にして生演奏を拝聴し、共演できる日が来ますことを、作品を皆さまにお届けできますことを、夢見ております。
エバ: 私はまた私たちのパフォーマンスを楽しみにしています:あなたのダンスと私のピアノ音楽は驚くべき結合となるでしょう。アートの形態は共通の神話、感覚、希望、切望、そして私たちの共通の世界と本性(nature)における深い信頼をもたらすことを生起させるでしょう。
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サナエ: インタビューにお応えくださりありがとうございました。あなたとの友情、そして、あなたがいつでも如何なることも、大いなる愛で全てを寛大に受け入れてくださいますに感謝いたします。
エバ: 本当にありがとう、親愛なるサナエ、あなたの作品と素晴らしいアートを!
2020.8.24 |
Dear EVA-MARIA HOUBEN
KAGAYA SANAE
TOMOE SHIZUNE & HAKUTOBO
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