大野一雄さんの介護
特別からだが、どこが悪いということはありません。寝ている時間が非常に多いのですが、研究生達のいろんな手厚い介護で「よく食べてよく寝る」と、いうことだと思います。毎日、うなぎを食べています。いえ、飲んでいます。
私自身の苦労というのは、別にないんですよ。皆さんがやってくださるし。ないんですけど、「本人がどれだけ幸せでいるかな?」ということに関しては気を使いますね。そういうものを感じているか。そう感じて欲しいなと。
一番いいのは、人が尋ねてきてくださる。そして、こういう人が尋ねてきたよというとやはり感激してるな、ということですね。日常的には、お風呂に入るとか、美味しいものを食べるとか、まだ味覚がありますのでそういうことも大切だと思いますし、音楽をかけてあげる。そういうことも大切だと思います。視覚聴覚味覚、そういうものを通して、できるだけ幸せに、感動を与えたいなというふうには思います。それ以外の苦労というのは、ありがたいことにありません。
近年にも、大野一雄さんは、大野慶人さんと共に、車椅子で舞台に出演された。車椅子でなお、舞台に立たれようとする、その思いとは?
ある意味では、舞踏のひとつの特質は、衰弱体というんですか、そういうものがひとつあります。俵屋宗達の絵をみても、本当に散るばかりのちょっと空気がさわげば散るばかりの花も描いています。そういうものを美しいと見る。そういう日本の文化があると思うんです。力強いだけでなくて、本当に散るばかりの花も美しい、命を大切にするとか、美しいと思う心があるんですね。そういうなかで舞踏というひとつのものが、なにか特質というか、極限をもって舞踏が現れたと思うんです。それが、西洋のダンスと分かれたところだと思うんです。
そういう意味では、ぎりぎりまで命の限りを尽くして、踊るということをやり尽くさなければ、その事が、無意味になってしまうという思いがあります。だから、人によっては、「そこまでなぜやるんだ?」、「そんなとこまでなぜやるんだ?」という方もおられると思います。いやな気持ちを持たれる方もおられると思います。だけど、それをやり尽くすことが、舞踏にとって、大野一雄の舞踏にとっては、絶対やらなければいけない、やり尽くさなければいけない大切なことだと思っていますから、あえてやらせていただいています。
大野一雄さんが徴兵され、戦地にいかれたこと
あまりしゃべりません。こちらからも、あまり聞いたことはないですね。聞けませんね。クリスチャンであったし、戦争と言うことに対しては、やっぱり、悩みますよね。こちらからは、とても聞けないんですよ。ニューギニアで食べ物がなかった、それをどう食べたのか、どう作ったのかとか、そういう話は聞きました。あまり戦争に行くことに対しては、話し合いませんね。私もその時、戦争を体験していましたから。日本で。戦争というのは、やはり辛いです。
戦争での体験と踊ること
最後にニューギニアから、大きな船で1万人ぐらいの人達が一緒に帰ってきたらしいんですね。その途中で大勢の人がなくなったそうです。水葬というんですかね、お葬式するわけですね。その体験があった時に、「日本に帰ったら、私はすぐにくらげの踊りを踊ろう」って思ったらしいんです。実際に踊りました。それを通して、「命の大切さ、自分の命はもとより、人の命を大切にする。それが私の芸術の基本だ」と、言っていました。それは、戦争の体験を通して切実に感じたことだと思います。
大野一雄さんと慶人さんの踊りの始まり
私が踊りを始めたきっかけは、単純なことです。大野一雄がね、「私は今、自分のダンスを研究している。それを、習いにこい。」と言うんです。「研究している。誰かがそれを受け取って欲しい。だから、君は習いに…。」そう言われました。それが始まりです。
習い始めは、時代もあったけども、僕は、恥ずかしくて仕方なかった。その当時は、男子が踊りを踊るというのは、恥ずかしい。恥ずかしさのなかで、しかも、女学生と一緒に踊るわけですから、とてもとても恥ずかしくてね。でも、それは良い体験でした。それが、あとで自分の舞踏に役立っていると思います。恥ずかしさを知っているということは。
恥ずかしさを知ることと踊り
その後、土方さんと一緒に踊りを習った時に、やっぱり、その…、そうですね、芸事というんですかね、舞台の事というのは、恥ずかしさっていうことは、例えば、秘すれば花というのに通じるね、エロティシズムに通じる、大切なことだと思います。一番大切なことだと思います。恥ずかしがっていることを表現することじゃない。本当に恥ずかしいんだということと、恥ずかしさを表現することと、どう違うのか、そこらですな。恥ずかしさを知らない人が、恥ずかしさを表現しているというのじゃいけませんな。ギリギリのところが、難しさがありますね。秘すれば花ですね。
1959年 土方巽の禁色に、少年役で初演
恥ずかしさもあったし、まったく無知でもありました。何にも知りませんでした。禁色なんて言われたって、何にも知らないし、分からない。それと、何か純真なものがあった。無知は無知でもね。全然わからないんだけど、信じてついて行く。それで、時々聞いたこともありました。「これは、なんですか?」「何の意味を持っているんですか?」と。「真実の友情だよ。」なんて言われると、純真に信じちゃう。純なる心っていうんですかね。自分の事をいうのは、変ですけど。純なる心っていうのは、大事だな。ここが全然だめでね。心は持ってた。
大野一雄さんと舞台に立たれること
そうですね、ひとつ、こんなことをいっては何なんですけど、ひとつ、大野一雄ってのはですね、ダンスに関して、芸術に関してと言ってもいいですけど、非常に才能を持っていますね。こんな才能は僕にはない。間違ってもない。私はね、わりかし、リアリストなんですよ。生活の中で生きている。芸術と一番遠い人じゃないかと思うくらいな生活をしてきたわけです。いつも、そういう立場にいたわけです。まったく違う才能を持っている人がいるっていう風にいつも思ってきた。それは、土方さんの時と同じですね。
父としての、大野一雄さん
僕が生まれた時から、もう父はすぐ戦争に行ってしまったから、10歳まで会えなかった。10歳以後から会ったわけですよ。だからね、あまり父親っていうものの感覚がわからないんだよ。それからね、こうやって貧乏な時代が続いた。お金をくれたこともないんだよ。お小遣いくれたこともないんだ。そうするとね、「いつも貧乏だなぁ」と、思う。父親としてのね、実感がないんだ。これは一生ないかもしれない。正直いって、男親を知らないんだよ。
借金を重ねながらの公演
ひどいですよ。だけど、母親がよ〜く許した、そんな母親のほうにもびっくりした。そんなことを許す、許せるのかっていうくらいひどい生活でしたよ。母親は大したものです。それを許した、自分で一生懸命支えた。
とにかく生活がなければいけませんからね。家がなりたちませんから。そういう意味では、影になってね、一生懸命、実業っていうんですかね、そういう仕事をしましてね。お金を作って、そして、父親の芸術を支えたっていうことは、事実でしょうね。それがなかったら、ないでしょうね。まったく家の父親はそういう計算をしない人ですから。びっくりするほど計算しない人ですから。
行政の支援とアート
そうか、その点に関してね、難しい問題ですけど、僕は大野一雄が75歳からヨーロッパに行ったりいたしましてね。その時によく言ったんですけど、「国から援助をうけちゃいけないよ、こんなに年取って。若い人が、受けるべきで、年寄りが横取りしちゃだめだ。 若い人に回さなければだめだ。」ということはよく言っていたんですよ。
僕は国の行政が、若い人を支援して、新しい芸術を生み出す、そのために一生懸命やるべきだと、僕は思います。それは大切なことで、どれだけ一人の芸術家を生み出すことが大切なことなのかを、もっと日本は知るべきではないか。そして、今まで、歴史の中で立派なアーティストがいっぱいおりますよ、そういう人たちのことのことを思うと、今の若い人たちの中から、すぐれたアーティストを生み出せるように、行政はもっと努力するべきだ、そう思いますね。
今度ね、たまたまね、私がお願いしたんじゃなくて、向かうから、お言葉がかかりましたので、今度の公演を通して、行政の方にわかっていただいて、新しい行政の中で、文化とか、そういうものが大事なんだっていうことを認識していただくことが大事だと思いますね。
横浜市は芸術のある街づくりをしたい、文化の充実した街づくりをしたいと考えています。若い人、子供たちのためにも、それを充実させたいという思いは、みんな持っている。文化とか芸術というのは、精神の、魂の食べ物ですからね。また、それがなかったら、子供たちがかわいそうです。十分あたえなければ、と思います。
大野一雄さんが共感していた友恵しづねの稽古
本当です。大野一雄が友恵先生の稽古を見て共感していました。指先、出てきたときに、もうはじまっているじゃないかということとかをね、私は、まだね、自分の研究生、弟子に伝えていない。これだけの厳しさを伝えていない。それさえ分かったら、ご一緒にできるな。まだ、みんな、自分自分と思っている。それを、もう少し落ち着いて時間をかけて、伝えて、そしたら、ご一緒にできるな。まだ準備が出来ていない。
大野一雄はね、命のどこまでも、どこまでも、入っていきたいという非常に野望家なんです。傲慢とも言っていいぐらい。こんなところまでじゃダメだ、こんなところまででもダメだということを思う人でね。それからまたね、なんていうんですかね、虚実というものをよく考えている人なんだ。気持ちだけじゃだめなんだということもよく知っていて、そして、創るということもよく知っている人なんですね。そこだよね、共感したのは。友恵先生はそれをやっている方だ。そこだね。
創っているだけでもだめなんだ。そこに気持ちというものが入ってこないと、だめなんだ。精神というか、魂というか、そういうものもなければだめでしょ。魂と精神。そういうなかでやらなきゃだめだと言って、あの人は、死ぬまで追求していくでしょうね。結論ださないで。そういうところで共感しているだ。そういうところで触れてくんですよ。
舞台に入れる音、からだに入れる音
音を入れる時ね、音はね、ひとつはね空間に音をいれるんだね。それから、肉体に集中してきゅう〜と入れる、それから音はどこから生まれてくるのか、出てくるのか、音は音で、踊っちゃだめなんだ、音は生まれてくるものなんだ、体のなかから、その出る瞬間が大事だから、どこからでるか、綿密にやらないと、空間に音をいれなければだめだ。空間に、背中に向けて、入れるんだ、足元じゃなければいけない、とか。そういうふうにして音との関係を、音をかけて音を踊っちゃだめだよ、音は生まれてくるものなんだと言って音をかけてますね。
そういう意味では、音響の方に、なかなか音頼めないんだ。音の大きさとか、そんなもんじゃない。その時、瞬間で捕らえる。こっから生まれなけなければ。音はうまれるものなんだってね。
音かける時いつも思うんですけど、たとえようもなく悲しくなる、たとえようもなく嬉しくなる、そういう気持ちがなかったら空虚だ。いかに、そういう心を生活のなかから、あぁ、今日音かけてみたいな〜、こんな音かけてみたい、この空間にかけてみたい、そうならなかったら、その切実な気持ちがでてこなければだめだ。感動っていうんですかね、そういう感動が生まれてくることを、常に考えて、感じなかったら、もう入れたってだめなんだ。この曲入れて、感動もなかったら、もうやめなさいって。友恵先生もしてると思うんだよ。
伝えたいこと
結果的にいうと、命の大切さ、そこに生まれてくるんだ。そういうものが結果的に伝わらなければならないと思っている。これから社会に何がおきるかわからないよ。いつ戦争がおきるか、戦争がおきてしまったら、ただ美しいとか、そういうことだったら、無力だ。ただ美しいとか、きれいだとかだけだったら、時代が変われば、無力になってしまう。明日無力になってしまう。明日もできるという根拠は、やっぱり命の大切さを伝えることではないか。それを通してね、音楽を通して、空間を通して、すべてのことはそういうふうに総合的に伝わってくること、一番のことは、命を大切にする。それをするためにどうするかっていうと、デリカシー、繊細さ、全部に配慮があること。一部だけみてやるんじゃなくて、全てのことに繊細に、緻密にだしてはじめて成立するんだ。最後は繊細さだと思う。
公演に向けて
大野一雄が過ごしてきた、クリスチャンとしての教会の生活があります。女学校で教えた生活があります。男子の学校で教えた生活があります。70年以上のおつきあいのある方もいます。最近90歳をすぎた男性の方から手紙がきました。今でも、そうやって思いを伝えてくださるかたがいる。大野一雄が共に生きた人たちがいます。そういう人たちにできればお知らせして、感謝を伝えて、この人に会えてよかったんだと思っていただける公演にしたい。それが、今度の願いですね。
ありがとうございました。戦争を経験し、命の大切さ、命を大切にすることを自身の芸術の基本にされたという大野一雄さん。その大野一雄さんが踊る姿は、愛に溢れ、愛を注ぐかのような存在で、その踊りの瞬間には、無条件に命あることへの感謝に満たされるものであったように思います。舞台を共にしながら、そして、生活、舞台ともに裏方としても支えた大野慶人さん。舞台を共に創る音のことなど、共感することも多く、話は尽きないのですが、最後に、大野慶人さんが奔走して実現させた公演を応援させていただきますと共に、ご案内申し上げます。多くの愛に感謝いたします。
大野一雄 百歳の年 ガラ公演「百花繚乱」
―百歳の大野一雄に捧げるオマージュ―
2007年1月27日 (土) 、28日(日) 神奈川県立青少年センターにて
大野一雄舞踏研究所ホームページに詳細が掲載されています。
http://www.kazuoohnodancestudio.com/
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